京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

TOPに戻る


このページは、大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載しました。

(3)峯山海軍航空隊の諸施設

格納庫

 格納庫は滑走路東側に全部で4棟あった。南側より第1、第2、第3、第4格納庫が北に向って並んでいた。

 第2、第3格納庫は、鉄骨製で、1つの格納摩に13機はど収容することができた。

 第1、第4、格納庫は木造であったが、鉄骨製の格納庫にくらベて大さかった。しかし、部品等がかなり置いてあったため練習機の収容能力はそれぞれ15機ほどであった。

 1番北側にある木造の 第4格納庫は織物工場として現存しており、当時 の面影を伝えている

筆者注 第4格納庫は、平成18年現在は会社所有で現存していますー現存格納庫をホップアップ


誘導路

 滑走路と格納庫を結ぶ誘導路の他に、幅20mの誘導路が1本、飛行場東側の山の手にある万休院(河辺)の裏まで伸びていた。

 この誘導路とは空襲など不測の事態に備えて練習機を隠すための掩休まで導く、いわば避難路の役目を果すものである。
 又、練習機を滑走路わきの格納庫にかためて置いては、爆撃等ですべて破壊されてしまう恐れもあるので、練習機を分敢し隠すためにも使用された。

 誘導路は滑走路からまっすぐに東に伸び、今の丹後中央信周金庫川南支店のあたりを通り万休院真の山の谷へと続いていた。練習機を格納するための掩体は4カ所ほどあり、1カ所に3−4機収容することがでさた。掩体へ運搬するため、練習機のエンジンをかけ翼を数人で押して誘導路を往来した。

筆者注 平成18年現在は信用金庫はなくなっています。「にしがき」デイサービスセンターあたりです


燃料庫

 航空機燃料は、危険防止.燃料保全のため、周枳、新町、荒山など数カ所にドラムカンに入れて分散してあった。収容の建物の大部分は米の脱穀用の作業場があてられていた。

 分散して収容してあった燃料の量は場所によって異なるが、多い所では数百のドラムカンが秘匿してあった。

 飛行場にはレンガ造りの頑丈な燃料庫が第4格納庫の北側にあり、ドラムカンにして
50本くらいの燃料が置いてあった。現在、燃料庫は倉庫として使用されている。

筆者注 平成18年現在は個人所有で現存していますー現存燃料庫をホップアップ


火薬庫

 飛行場には北側に2棟並んでレンガ造りの火薬庫があった。

 他は危険防止のため、余部ほか数カ所に分散してつくられていたが、それらは山のすそをくり抜き頑丈な扉が
つけられていた。

火薬庫の内部は、7.7m機銃用の弾薬が主で、箱につめて納められていた。

 なお、飛行場にあった火薬庫はかなり老朽化しているが銃撃のあともなまなましく現有している。

筆者注 平成18年現在は屋根の吹き飛んだのが個人所有で現存しています。屋根のある方は、農道の拡張に抵接して取り壊されましたー現存火薬庫をホップアップー)



監視所

  飛行場.格納庫.火薬庫.燃料庫等、軍事施設を防備するため、口大野の南谷の頂上に監視小屋が設けられた。

  ここには在郷軍人を中心に常時4人が監視にあたっていた。 監視所と役場の間には有線電話が架設されていて、敵機の来襲 があればすぐに連絡がなされ、各機関銃座へ応戦準備をとる様 指令されることになっていた。
筆者注 監視所は、我が父が除隊後に監視要員として勤務していたと聞いている



通信基地

  受信は本部(現在の北丹紡績)が担当し、送信は峰山町の新山保育所横の小道を入っ仁山の中に通信基地があり、そこが担当した。この基地には火薬庫も併設されていた。

  関係兵士は通信将校・通信兵の約20名くらいの編成であった。



機関銃座


 機関銃専用の陣地で、本来戦闘機に塔載する7.7m機銃が1カ所に1台の割合で備えつけられていた。敵機の来襲に対して応戦するのが目的であった。

 場所は飛行場の四隅、善王寺の青年山、城山、河辺の丹山など各所に機銃が配備されており、1つの銃座には指揮者1名、射手2名がその任にあたっていた。

本部庁舎

 飛行場は完成したが、飛行場の敷地内には兵舎を建てる大きな場所もなく、また、物資の節約ということもあって、兵舎については既存施設の利用が考えられた。

 幸い当地は丹後ちりめんの本場でもあり、農村部にしてはかなりの規模の工場もあり、中には人手不足のため休業している所もあった。

 本部庁舎は飛行場にも国鉄の駅にも近い口大野村に置かれることになり、余部の丹後織物工業組合口大野精練工場(のち中郡農工学校、中郡大野中学校として使用。現在、北丹紡績となっている)
が使われ、開隊後しばらくして隊長以下将校が入った。

筆者注 本部庁舎は、北丹紡績となっているが、これも今は無い。跡地に府営住宅が建っています
(−本部庁舎跡地をホップアップ−)

兵   舎


  兵舎も本部庁舎同様、既存施設の利用という方針のもとに善王寺の平又工場が選ばれ徴発された。

  ちりめん製造中の工場であったが、軍の要請で工場と工員寄宿舎を兵舎に、残りを練兵場に約10Kuが提供され、本部庁舎
 にやや遅れて教官.教員.練習生が入った。この兵舎は350人〜400人収容できる大さな規模のものであった。

  戦陵、平又工場は建物の一部を工場にしてちりめん製造を再開したが、昭和42年に廃業した。舞鶴財務局から強制的に国有地にされ、工場、宿舎等は昭和50年頃解体され、現在は官舎が3軒建っている。

 飛行場内にも100人くらい収容でさる兵舎が建てられたが、兵隊が増えるに従い、近在の工場や民家が次々と兵舎がわりになって兵隊が寝泊りしていたようである。

(−兵舎跡地をホップアップ−)

酒   保


 酒保は兵隊を対象とする売店であり、菓子類、タバコ、日用品、酒、ビール、うどん等を販売していた。

 兵隊は勤務時間後や休日などによく利用した。酒保は兵舎の中にあるのが普通だが、河辺飛行場では兵舎が分散していたため口大野の大宮巡査部長派出所の前に置かれていた。

 この建物は現在丹後織物工業組合大宮事務所として使用され、当時の姿をとどめている。

筆者注 平成18年現在は丹後織物工業組合大宮事務所はなくなって建物はありません
(−酒保跡地をホップアップ−)


貯蔵庫

 善王寺の藤原さんという家で、昭和の初め頃から独得の製氷販売をやっておられ、峰山分遣隊では、食糧を保存する貯蔵庫としてその施設を借り受け使用した。

    (−貯蔵庫のこと 田中さん手記ホップアップー)


(4)峯山海軍航空隊のあゆみに移る





ご注意! 上記ページ内の記事、画像等は、「郷土と太平洋戦争」編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します
 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

TOPに戻る


平成18年6月28日作成
inserted by FC2 system