京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載しました。

(4)峯山海軍航空隊のあゆみ

峯山海軍航空隊の発足


昭和19年3月15日 峰山海軍航空隊は、第2美保海軍航空隊峰山分遣隊として発足した。

 峰山分遣隊の任務は陸上中間練習機による操縦練習航空隊であった。

 当時このような隊は内地に6カ所、外地に2カ所あり、筑城空(福岡県)、篤2郡山空(鹿児島
県)、峰山空の3隊が同時に新設された。

 指導にあたる教官.教員は全国の航空隊から、また、南方の第一線から赴任してきたほか、乗るべき空母がなくなった者、飛行機不足のため再転属を命ぜられた者、戦争で傷つき再び第一線へ帰っていくしばらくの期間教育部隊に配置された者等、さまざまであった。

 教育を受ける練習生は、予科練を卒業してきた飛行術練習生たらであるが、飛練第37期生として3月に
141名が入隊した。 彼らは乙特出身の短期教育で予科練を卒業してきた練習生であった。

 やがて5月になると乙18期予科練出身で土浦入隊以来2年間訓練を受け、博多空ですでに単独飛行をすませた第37朝生60名が合流し、約200名となった。

 7月には第39期練習生120名が入隊。また、9月には第41期練習生90名が入隊するなど遂次練習生の数が増えていった。

 発足当時の隊長は久保少佐であったが、10月に退隊、後任に菅原中佐が着任した。

昭和20年2月1日、所管が第2美保海軍航空隊峰山分遣隊から姫路海軍航空隊峰山分遣隊に変更され、第42期練習生46名が入隊、開隊時600名くらいだった兵員は1200名を越える に至った。

 昭和20年3月1日、正式に峰山航空隊として独立。航空隊司令として小関大佐が着任し、練習機も約100機余りが揃えられた。

昭和20年5月5日、作戦航空部隊第3航空隊(木更津基地)第13航空戦隊(大井隊)の指揮下に入り、1,500名の隊員の外、他部隊よりの訓練要員、戦備作業要員を含む3,000名の大世帯にふくれあがり、特攻部隊もつくられたが、出撃するに至らぬまま終戦を迎えた。

     (−峯山海軍航空隊で使用された、海軍93式陸上中間練習機とはー)

訓練の様子

 海軍では「日月火水木金金」ということばがあったように、練習さえやれば決して負けることはないと、相当きびしい訓練で鍛えられた。

 海軍航空隊は予科練教程を終了した者を「操縦」「偵察」「通信」の3つに分け、その中の操縦術を教えたのが峰山航空隊であつた。

 峰山航空隊の飛行練習生たちは、4カ月間の教程の中で地上教育と空中教育を学んだ。

 地上教育というのは理論学習で、飛行機を操縦するための必要な知識から、落下傘の取り扱い万、飛行機の整備.点検や応急処置の仕方、空中戦の仕方、更には航空図誌や気象学に至るまでの幅広い内容の勉強であった。

 空中教育というのは実際に練習機に乗り、離着陸、旋回、錐揉、宙返り、反転、背面飛行などの基本技能の他、編隊飛行、夜間飛行、計器飛行などの訓練を、1人平均33時間くらいの飛行間庁の中でこなしていった。

 1日の飛行訓練は午前7時30分から11時までと、午前11時30分から午後3時30分までの2分隊に分かれて行われ、練習生は6名ずつに分けられ、各班に教官が1名ずつ付いて指導にあたった。



 飛行訓練も最初のうちは練習機の後に教官が乗りこみ、練習生の指導にあたったが、ある程度の技能が収得できれば単独飛行といって1人で練習機に乗って訓練を行った。

 教官が乗りこみ指導にあたった最初の頃は太い木の棒を持ち、前に乗っている練習生の頭をたたいてのきぴしい指導を続け、練習生たらは次のような歌をつくり自分たちで歌いながらお互いをなぐさめあい、きぴしい訓練に耐えていったということである。


       ジャンプしたとて こわしはせぬが
       耳の伝声菅が やかましい
       ハイハイ返事は しているけれど
       どこが西やら 東やら



 訓練が終ったあとは反省が行われ、教官からさびしく注意が与えられ、口頭だけでなく木の棒で尻を何発もたたかれ、練習生の尻は例外なくみんな青かった。親が見たら泣くほどの痛々さだが練習生は一人前のパイロットになるためには当然のことのように考えていた。

 ある練習生のお母さんは下宿に面会に来た時、風呂に入る我が子の後姿を見、尻の辺りが青紫にはれあがっているのを目のあたりにして思わず涙を流していたと、練習生を泊めた家の人が話していた。



訓練飛行の一例 (「郷土と太平洋戦争」より転載)


整備科の仕事

 飛行訓練を安心して行うためには、飛行機のきぴしい点検や整備が必要であり、こうした仕事にあたったのが整備科である。

整備科の1日の様子は次の様であった
6:00 起床
○総員外へ出て人員点呼.体操、 但し、当番兵は人員点呼後朝食準備
部屋の掃除及び練習機の搬出と始運転、使開する機体と機数は計画的に決められており、午前中使用する機を再整備し、始運転を行った。
7:10 朝食
8:00 午前作業開始
〇飛行訓練中は他の練習機の整備
12:00 昼食
13:00 午後作業開始
〇午前中訓疎飛行のすんだ練習機の整備、翌日使岡する練習機の完全整備。
〇練習機は第1〜第4の飛行機群に分け、4グループのをローテーションで使用
17:00 作業終了.夕食
17:30 外出
○当直将校の指示により、整列.点検後外出、外泊者は翌日の朝食までに帰隊
○ 各階級の外泊
       兵          6日に 1回
       兵    長    4日に 1回
       下 士 官     2日に 1回
       教    官    3日に 1回
21:00 消燈



ア号燃料使用

 昭和19年の11月に入ると飛行機に使うガソリンがなくなって訓練飛行もできなくなり、20日ほど中断され「ア号燃料」と呼ばれるアルコール燃料で飛行訓練を行ったりした。アルコール燃料はガノリンに比べてやや出力が落ち、また、寒い朝などはエンジンがかかりにくい欠点があった。戦局もいよいよ急をつげ、内地決戦の様相を深める頃、いざという時に練習機を特攻隊として使用するために、佐世保の基地まで燃料をもらいに行き、交歩に交渉を重ねやっと貨車3輌分の燃料を確保したそうである。


冬将軍

 同じ頃、丹後地方特有の「うらにし」が訪れ、「弁当忘れても傘忘れるな」といわれるように空はしぐれやすく、また、冬は北西の季節風による積雪が多い。殊に、この冬は雪の日が多く20年1月になると大雪で滑走路が使えず、兵隊はもとより地元の人たちにも動員がかかり除雪作業が連日行われ、雪の壁の間で離着陸が行われたが、練習機がスリップしたり、また、整備兵の手足は凍傷になったり、服はぬれたままという状態であった。

 そのため、満足な訓棟はでさず、遠く福岡の航空隊基地へ練習生を移しての訓練が行われたりした。


特攻訓練

 昭和20年3月、峰山飛行場で訓練が再開されたが、戦況は緊迫し練習機に250Kg爆弾を装備し、特攻隊を編成することになった。

 編成された隊員たらは、間人沖や宮津湾にあった仮装敵艦を攻撃目標に降爆訓練や夜間飛行など戦闘即応の猛訓練が行われた。特攻隊に編成されなかった練習生は、飛行訓練の補助をしたり、防空壕掘り、囮(おとり)機の製作、対空戦闘要員の配置等の仕事についた。

 訓練を終えた練習生たらは、峰山航空隊から戦場へ向って出発していった。最初の第37期生は、昭和19年8月29日に卒業してから終戦までわずか1年間足らずであったが、その短い期間に多くの人々が亡くなった。峰山航空隊に籍をおいていた教官、練習生の中には特攻隊員として沖縄.種子島.本土南方で8名、まに、フィリピン.サイパン島.南西諸島等で9名、更に内地での殉職者等を加えると、30名余りの人が命をおとされたようである。



(5)峯山海軍航空隊の事故殉職状況に移る



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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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