京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載しました。

(5)峯山海軍航空隊の事故殉職状況

若人の死

 美保海軍航空隊峯山分遺度が発足してから、わずか1年半足らずの間に飛行機が墜落したり、付近の山に衝突したり、また、不慮の事故等で、12名もの教官や練習生が尊い生命を失っている。

 また、幸いに死亡事故には至らなかったものの、飛行訓練中滑走路で三重衝突事故を起こしたり、練習機があちこちで墜落、不時着して練習機を大破したり、塔乗員に重、軽傷者の出た大事故もかなりの数にのぼり、飛行訓練とはいうものの、常に死と背中あわせのまさに生命がけの訓練であったことがわかる。

 20年の5月から大事故が目立って増えているのは、戦況の不利から短期間で特攻隊員養成の必要に迫られた結果、技術的にも今一歩のところへ、精神的々あせりも加わったものではないかと推測される。

 亡くなった人たちは、いずれもまだ17歳〜20歳の若さであった。


接触墜落事故

 昭和19年12月9日、 最初の事故が発生した。午後3時頃、編隊飛行訓練をしている時、教官と練習生の乗っていた練習機が、他の練習機と空中で接触し、大宮町周枳の山中に墜落して2名死亡した。

割腹自殺

 昭和20年2月22日、福岡航空隊基地で訓練を受けていた時、練習生の1人が無断で家族に面会したことが上官に知れ、練習生全員が叱られたことを苦にして夜明け前、日本刀で割腹自殺した。


防空壕での落盤事故

昭和20年4月5日、口大野村(大宮町)余部にある青年山の通信科防空壕で作業中に落盤事故が起こり、水兵1名が土砂中に埋まった。直ちに救援隊 が救出作業を開始したが、その後も次々に落盤があり、漸く翌朝搬出したが既に死亡していた。

夜間訓練中の不明事故

 昭和20年5月7日、特攻夜間飛行の訓練中、練習機が1機行方不明になった。捜索機が出て捜したが見つからず、竹野郡間人沖の海 面におびただしい油が浮いていたので、海に墜落したということであったが、

 戦後、昭和21年5月、峰山町五箇の山中で地元の人が機体と2名の遺体を発見し、自分の家の墓地に遺体を埋葬してとむらった。その事が昭和48年になってから明るみに出て当時の新聞に報道された。


夜間訓練中の事故(2)

 昭和20年5月14日、特攻夜間飛行の訓練中、標識灯を見失ない、峰山町五箇の山中に激突した。練習機は背面になり、練習生はエンジンと座席の間にはさまって死亡。教員は操縦桿に片足をはさまれたまま宙ずりとなって1晩脱出できず、救出後、海軍病院へ入院した。


夜間訓練中の事故(3)

 昭和20年5月23日、宮津湾の江尻付近の海上で、特攻夜間降爆の訓練中、練習生2名が乗っていた練習機が誤って海中に突入し、2名共死亡した。
 

夜間降爆訓練中の事故

 昭和20年6月5日、夜間編隊攻撃の訓練で宮津湾天の橋立外海に浮ぶ駆逐艦「初霜」に体当り訓練を行っていた時、誤って「初霜」左舷わずか数mの海面に墜落した。翌朝引きあげられたが、練習生が2名死亡した。

単機帰投中の事故

 昭和20年7月5日、峰山特攻隊の進出基地を視察のため、はるばる九州へ行っていた教官1名が、目的を終えて帰隊する途中、飛行場へわずか3里近くの峰山町五箇の上空で視界が悪く山中に墜落して死亡した。



(6)峯山海軍航空隊の特別攻撃隊に移る




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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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