京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載しました。

(6)峯山海軍航空隊の特別攻撃隊

特別攻撃隊の編成

 米軍のフィリピン群島レイテ島に対する上陸で、日本軍が重大な危機に直面していた昭和19年10月、海軍の第一航空艦隊司令長官大西中将によって「神風特別攻撃隊」が編成された。

 特別攻撃隊(特攻隊)というのは、爆弾をつんだ飛行機が軍艦などに体当り攻撃することである。


 昭和20年3月、フィリピンのマニラが奪還され、4月には沖縄攻撃が始まった。日本軍は敗戦の色が濃くなったこの頃から最後の絶望的は戦法として、陸海軍ともに特攻隊を常用しはじめていた。峰山航空隊でもこの頃から宮津湾等で特攻訓練に励んでいた。


峯山航空隊の任務

 7月に入り米軍機による志布志湾沿岸(鹿児島県)、宮崎県沿岸、土佐湾沿岸の偵察が連日行われるようになり、この方面への上陸の気配が強くなってさた。峰山航空隊はこれら3方面に上陸する米軍部隊に対して特攻をかける任務が与えられた。

 昭和20年7月14日
 特攻隊峰山航空隊飛神隊忠部隊40機は、第一陣として九州の鹿屋特攻隊基地(鹿児島県)に進出するため、峰山航空隊総員の見送るなかを編隊を組み、飛行場上空を一周したのち大江山上空へと飛んで行った。

 昭和20年7月19日
忠部隊の鹿屋基地展開に続き、第二陣の武。礼。義部隊の52機は岩国基地(山口県)を目指し、忠部隊同様多数の見送りを受け出発していった。 出発の日は秘密にされていたが、航空隊の人たちの様子からすぐわかったらしく、河辺、周枳、善王寺、口大野等の人々も多数見送りに行っていたようである。

 忠部隊は、途中の岩国基地で燃料を補給し、鹿屋基地に到着、当初は米軍機の偵察活動がしきりに行われたが、後には銃撃.爆撃が続くようになり、他部隊の沖縄方面への攻撃は毎日くり返された。

 忠部隊は飛行機の整備を万全にし、時の来るのを待った。8月13日には出撃間近ということで実戦同様の緊迫した訓練が行われた。



 礼、義、武部隊は岩国基地到着後、緊急発進や柱島付近での降下、夜間の訓練が行われた。7月24日には米軍機動部隊の西日本空襲があり、岩国基地も遂に爆撃を受けた。本土決戦用に温存されてきた峰山飛神隊もその機会が来ない間に犬死にしてはならないと、更に展開することになり、礼部隊は藤河基地(山口県)
へ、義部隊は可部基地(広島県)へ、武部隊はそのまま岩国基地にふみ留った。


出撃寸前で終戦となる

 藤河基地・可部基地は共に秘匿飛行場で、可部基地は広島から北へ約18Kmの地点で、国道の両側の田を埋めて滑走路が作られ、藤河基地は錦川の河川敷をならして滑走路が作られていた。礼部隊も義部隊も飛行機は林の中へ隠し、整備には万全を期して時の来るを待った。

8月14日、両部隊共に出撃準備命令が下り、全機爆装し、燃料満タンして出撃命令を待った。

しかしながら翌8月15日、玉音放送があり、出撃寸前で終戦となった。


峯山飛行場へ帰投


 こうして峰山航空隊の特攻隊は進駐していったそれぞれの基で終戦を迎え、忠部隊は鹿屋基地で解散、武部隊は岩国、礼部は藤河、義部隊は可部からそれぞれ飛行機で峰山航空隊へ帰着実際に特攻隊として出撃した飛行機はなかったようである。

(7)峯山海軍航空隊の空襲の記録に移る




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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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