京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。
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このページは、大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載しました。
(7)峯山海軍航空隊の空襲の記録 | ||
サイパン陥落、B−29による本土空襲始まる昭和19年7月、サイパン島が陥落してから、同島の基地を飛び立つ米軍のB−29による本土空襲が始まった。米軍爆撃機は、軍需工業地帯を中心に、昼夜の別なく、数十機から数百機の大編隊を組み、爆撃を繰り返した。11月24日にはB−29約70機による本格的な東京空襲も行われ、大阪、名古屋、横浜、神戸等の大都市はもとより、その被害は殆んど全国の中小都市にまで及び、被害都市数98、焼失家屋数143万、死者約20万人、負傷者27万人、行方不明8千人という惨々たるありさまであった。 丹後も空襲に襲われるそのような状況の中で、河辺の飛行場は、昭和20年1月に初めて米軍機の爆音が聞え、空襲警報が発令されたのを初め、3月には宮津上空方面に飛行雲が見え合戦準備をしたり、4月にはB−29が偵察飛行に来るなど緊張感が高まっていった。更に、6月9日夜にはB−29による舞鶴への爆弾投下、6月20日夜には舞鶴、宮津湾に機雷投下、7月27日夜には舞鶴方面の空に曳痕弾が見え、高角砲の発射音が聞え、その度ごとに合戦準備を行うなど、爆撃を受けるのはもはや時間の問題であると思われていた。そして、昭和20年7月30日を迎えたのである。 昭和20年7月30日 空襲午前4時30分、B−29 1機が河辺飛行場上空を偵察通過、次いで5時45分頃グラマン戦闘機7機編隊が高置1,000m上空を舞鶴方面へ通過していった。 そして、5時58分空襲警報が発令され、7時20分第1回目の爆撃を受けたのである。この時は米軍機による機銃掃射だけだったので、たいした被害は出なかったようである。 問題の第2回目は9時45分に空襲警報が発令され、爆撃は9時50分ごろから始まった。 米軍機の数も多く、小型爆弾の投下及び機銃掃射が何回も繰り返され、飛行場を中心に河辺、新町にもかなりの被害が出た。よその村から見ていると相次ぐ米軍機の爆撃ですごい土煙りが舞い上がり、飛行場も付近の家々もよく見えないほどのすさまじさであった。 第3回目は12時49分に空襲警報が発令されると、ほぼ同時に空襲を受けたが第1回目と同様、被害は少なかったようである。 それ以後も夕方までに数回米軍機が来たが、爆撃は無かった。 (来襲した米軍機の詳細サイト) グラマン F6F ヘルキャット(艦載機) 1−2回目来襲ロッキード Pー38 ライトニング(陸上機) 3回目来襲 ボーイング Bー29 スーパーフォートレス(爆撃機) 偵察のみ 被害状況爆撃に来た米軍機の主力はグラマンF6Fヘルキャットであったが、ロッキードP38ライトニングも来たようである。米軍機約55機の前後3回にわたる爆撃、銃撃による被害状況は次の通りである。 最大の被害を受けた飛行場は、 死者3名、負傷者6名、 滑走路に落された250Kg爆弾で、滑走路に直径約30m、深さ約10mの大きな穴があき、滑走路の使用が不可能になったため、その晩は軍のトラック15台を使って土や石を運び夜を徹して復旧工事を行ったそうである。 米軍機数に比ペて練習機の被害が少なかったのは、新町の山に飛行場から誘導路がつけてあり、掩体という練習機を隠す防空壕がつくってあり、そこに隠したり、民間の工場や山道にも練習機を隠し、飛行場の中には、木、竹、わら、むしろ等でつくった模型飛行機がたくさん置いてあり、それがねらわれたからである。 また、2回目の爆撃の時、飛行場の南端にあった河辺国民学校も機銃掃射を受け、ロケット弾も投下された。そのため、死傷者は出なかったが、南校舎の東半分が爆破され、本館も爆風で被害を受けた。 この他、飛行場村近一帯の河辺、新町の民家多数も機銃弾及び爆風で被害を受け、住民1名が右足に負傷した。 三重でも田んぼで仕事をしていた農夫に機銃弾がかすり、腰の辺りに軽傷を負った。 常吉国民学校では、直接ねらわれたのではないが、屋根瓦が数枚割られ、半紙大の穴があいたそうである。 (10)空襲の記録、空襲の手記へ移動ご注意! 上記ページ内の記事、画像等は、「郷土と太平洋戦争」編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します。 |
峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物 保存運動を! |
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