京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載しました。

(8)峯山海軍航空隊の終戦顛末

終戦を知らされず

 昭和20年8月6日広島に原子爆弾投下、8日にソ連軍が対日参戦、9日には長崎にも原子爆弾が投下され、致命的な打撃を受けた日本は、ついにポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日日無条件降伏し戦争は終った。


 8月15日正午、天皇みずから全国民にラジオを通してその旨が知らされた。しかし、峰山航空隊では
司令の命令で電源が切られその事実は知らされなかった


 15日の夜も長善士官室で翌日出撃の特攻隊の送別会が開かれたり、火薬不足のため軍のトラックに米や砂糖などを満載し、京阪神の業者との物々交換に1週間近くも行っていたということで終戦を知っていたのは、ごく一部の士官だけのようであった。



解散、残務整理、焼却、物資隠匿

 やがて玉音放送を聞いた地元民から知らされたり、終戦のため広島や山口の航空基地から帰隊した特攻隊員の話し等から終戦の事実を知った兵隊たちは、次々に郷里へ帰って行った。

 しばらく飛行場にとどまり、敗戦のうっぷんを酒でまぎらせていた兵隊や中には軍のトラックに倉庫の物資を積み込み持ち帰った兵隊も何人かいたようである。


 練習機は飛行場にすべて集められ燃やされた。あちこちに隠されていたものや使いものにならなくて放置されていたものなど合わせて40〜50機はどあったらしく、全部燃やすのに2昼夜かかったそうである。この時一緒に飛行場内の燃えるものはすべて燃やされ、軍のトラックとかいろいろな道具類せどはすべて舞鶴に返却され、飛行場の中は殆んど何もなくなっていつた。


 燃え残ったものやスクラップは1カ所に集められ、口大野駅に運ばれ、駅前に積ゐあげられたまま子供の遊び場になっていたようであるが、しばらくして汽車でどこかへ運び去られた。



戦後 跡地の開墾


 残務整理がすべて完了したのは昭和21年の夏頃で、そのあとは終戦の食料難の時代でもあり、飛行場跡も主に河辺村と新山村が中心になって開墾されることになった。


 食料増産が叫ばれていた時でもあり、河辺村では世帯を持っている人は、1口はどうしても責任をもって開墾するということで全部に分け、開墾能力のある家はそれ相当に多くの土地を分けてもらい開墾が始まった。


 戦争のため軍の命令でただ同然で取りあげられた一等田だったが、滑走路に有った所はアスファルトになっており、その下には何重にも石が敷きつめられ、また、飛行場の敷地内には芝が植えられ、ローラーでぎっしりかためられてしまっており、そこを1つの家族が総出でやるとはいえ、くわでおこし石を運び元の田畑に変えていくのは、我々の想像を絶する困難と苦労があったものと思われる。そういう中で飛行場は再び数年前の美田こ戻っていったのである。



丹後織物工業組合加工場として


 昭和41年、河辺飛行場のあった南西部に丹後織物工業組合中央加工揚がつくられた。約114,700uの敷地内に約7,500uの鉄筋コンクリ一卜平屋建工場(一部2階建)と約9,500uの付属建物(染色工場、ボイラー室、寄宿舎等)が完備し丹後ちりめんの精練加工が行われている。


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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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