京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のサイト作成理由

峯山海軍航空隊のサイトの作成を決意した理由



峯山海軍航空隊の遺構建築物がいま、
京丹後市から消えようとしています


 いま、京丹後市峰山町、大宮町にまたがる部分は、国道312号線がバイパス道路として開通し、さらに特にショッピングセンター・マインが出来てからは、その周辺が商業地、住宅地として開発が盛んで、これらの遺物も新しい施設や住宅の中に埋没しています。


 戦後の草茫々の飛行場跡に中にポツンと建物が残っていた記憶からすれば、この地域は非常な発展を遂げつつあります。かろうじて残っている航空隊の遺構も、戦後の払い下げで、今は個人所有、会社所有となり、老朽化して、この地域開発により、今に取り壊される運命にあります。


遺構建築物が

取り壊されれば永久に消え去り


取り壊されれば、

見ることも写真を撮ることも出来ません



 いまや、若い人はほとんど、ここに第二次大戦(太平洋戦争)の帝国海軍航空隊の飛行場があったと知る人は少なく、また知る人々も戦後60年をオーバーして、順次死に絶え、このままでは伝える人も無くなりつつあります。

しかも、

ここに海軍航空隊の飛行場があったことを
知る人さえもがこの世から消えつつあります。

これでいいのでしょうか?




しかも、

ここに峯山海軍航空隊があったことを知りたくても

多くの人が
それを知る手段がほとんど無い



 このままで良いのでしょうか?

 このまま、忘却のかなたに葬り去っていいのでしょうか?

 
これらに関するデータが、Web上にほとんど無いのです。(平成18年現在)

 京丹後市の何処かに、峰山町のデータページの何処かにあるのでしょうか?見当たりません。

 
平成18年7月現在までに 発見したサイトとページ
大宮町のデータページ 「大宮町誌」の中に、出ている部分はがありました。
(−このサイトの大宮町誌の内容を公開したページ−)


(-大宮町誌(Web版)第一節 戦中戦後の状況4 を開く-)
個人ページとしては、のむさんの独り言の中の
(−これを見ろー)しか発見できていません。

 

京丹後市、または自治体のサイトに公式な記録ページがが無い以上、

せめて個人的なサイトにでも残しておくべき、と思い立ちました


 ショッピングセンター・マインには、連日多くの人々が訪れています。

しかし、その付近に在る歴史的記念物ともいえる峰山海軍航空隊の遺構については、ほとんどのお方がその存在に気付いてはおられません!


 
マイン前の駐車場が滑走路の北端であり、60数年前の戦争末期に多くの10代の純粋な若者が死に物狂いで飛行機で発着訓練をしていた場所とは気付いてはおられません!

当時の兵隊さん(RHさんブログから)


 建物は壊されれば写真も撮れません。せめて、写真だけでも、ホームページとして残して、多くの人の閲覧できる形で残すべきではないか。と思いました。



 
京丹後市が一日も早く市の歴史的資源として取り上げ、整備して説明看板くらいでも立てるべきではないでしょうか?



 まだ生き証人もいる、わずか60数年前の現在とはあまりにも違う社会環境の中で格闘された先輩達の生き様を知り、平和と未来について考える場を整備することは必要ではないでしょうか?



 
京丹後市の歴史的遺物として、あまり人の行かない古い神社や遺跡にモニュメントを立てるよりも先に優先させるべきではありませんか?




 
飛行場跡の存続には「もはや時間は限られています


と思いました。

(ページ作成をして、ますますこの思いは強くなりました。h18.10追記)


しかし最初に調査してみると


言い伝え以外の説明情報はほとんど無い、


最初に出会ったのは 峯空会編
「青春の軌跡」のみ


いま、壊されるかもしれない遺構の写真は今なら撮れるが、その他の情報はほとんど無かった。

 さいわい、峯山海軍航空隊の兵隊さん経験者の組織があり、その会報の冊子「青春の軌跡」を見せていただくことが出来ました。

「青春の軌跡」によれば

 丹後の地に、少年飛行兵の特攻隊訓練基地があった。

 この丹後半島の地で、昭和20年の戦争末期に数百名の少年飛行兵が飛行訓練をして、


 そのなかで百名もの神風特攻隊が組織され、命がけの訓練を行い、犠牲者も出ていたのです。そして、訓練を終え、特攻隊員として前線基地へ飛び立っていたのです。


 さらに、特攻隊の出て行った後には、米軍機動部隊の艦載機による攻撃を受けて戦死者を出しています。


 残っている遺構の建物にも今でも、爆撃を受けた時の
米軍艦載機の爆撃、機銃掃射により出来た、弾痕の跡(ーこれですー)が今も残っているのです。



私ら以後の若い世代は、ほとんどそのことを知りません。

そして、

知りうる人たちは、高齢となり、
いま、この世から去ろうとしています


 

なんとかページを作成したい、

とにかく早くページを作成しなければ。。



  少ない情報の中でどれほどの内容ができるか知れませんが、まずは、写真だけでも!
と思って作成開始しました。

 そして峯空会編「青春の軌跡」の掲載許可を頂き、掲載いたしました。



その後作成中に京丹後市大宮町の武部さんより、昭和54年に、大宮中学校にて作成された冊子

郷土と太平洋戦争」(−河辺飛行場と被爆の記録−)


なんと大宮中学校の先生が学校教育の一貫として、
戦後34年後にこのような記録を残しておられたのです



の存在を教えていただき、それをお借りすることが出来ました。(掲載許可済み)


さらに作成中に!

平成18年9月現在 発見したサイト
注目!

本ページ作成中に画期的なことが出来ました。

平成18年8月14日、

隊員経験者RHさん(79歳!!当時)が

峯山海軍航空隊(仮称)ブログを始められました(9月2日リンク許可)


平成20年8月1日

3年にわたったブログ更新を一応81歳をもって終了されました。
ご高齢ながら貴重な証言をお書きいただきありがとうございました。



(−峯山海軍航空隊跡地サイトの作成の目的もお読みくださいー)




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