京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のサイトの作成の目的

峯山海軍飛行場跡のサイト作成のきっかけは作成理由ページに書いたとおりですが、

次にこのサイトの作成の目指すところを書いておきます。

もう一度、作成理由について記述します

(ー峯山海軍飛行場跡地サイトの作成理由を表示ー)


 いま、京丹後市の中心ともいえる、大宮ー峰山の間にある国道312号線沿いにあるショッピングセンター・マイン周辺は、毎日、市民を始め多くの人々が来訪していますが、そっくりそのままの場所に60数年前に海軍の飛行場があり、多数の少年兵が死に物狂いで飛行訓練していた場所とは、現在来訪してくる人々はご存知ありません。


 その場所に、民間に払い下げられたとはいえ、その時の遺構ともいえる、格納庫跡、油倉庫跡、弾薬庫跡がすぐそばに今でも存在していることをご存知ありません。


 その遺構もこの地の商業開発と区画整理により、いま、なくなろうとしています。

 なくなってしまえば二度と見ることも出来ず、話題になることもありません。それより、写真でさえ見ることも出来なくなります。それらの遺構も詳しく見れば、現代にはない貴重な造りで、歴史的遺物として評価するものと思います(格納庫の内部に入って見て下さいー戦前の屋久杉で出来ているとか)。


  いま、かろうじて現存し、この後は取り壊されて無くなろうとすることは、容易に想像できるのに、誰もその存在を知らしめる者は無く、若者は誰もその存在すら知りません。京丹後市およ旧町のホームページにさえも何も書いてないのです。






 
はたして航空隊の体験者、それを知る市民はいないのでしょうか


 
          あります


 戦前に少年時代をすごした年代以上は、この周辺に住んでいた人は良く知っていました。

しかし、60年以上たち、高齢化し、徐々にこの世にいなくなりつつあります



 これでいいのか? せめて、ネットで現存する遺構の記録だけでも残さなければ、と思ってサイトを作成しました。これは、「作成理由」に書いたとおりです。



早川さんからの指摘 平成18年8月8日


 私は、ホームページを作ることに興味があって、講習会に行き、作り始めたのが個人の趣味の「悠遊織工房」というサイトですが、その中に「峯山海軍航空隊跡地」のページを作成しました。

その過程で峯山海軍航空隊の兵隊さん体験者の会である「峯空会」という会があり、そこの事務局の発行した「青春の軌跡」という小冊子があることを知り、それを借用して読みました。



 京丹後市大宮町河辺の丹後織物工業組合中央加工場の敷地内に、「峯空会」の会員により造成された「峯空園」というモニュメントがあ公園があるのは知っていました。

 其処の維持管理者が河辺の多治見さんであることを知り、コンタクトを取ったところ、すでに他界されていて、現存の会員では、峰山町の早川さん(早川自動車)を紹介されました。



 早川さんにお会いして「峯空会」編「青春の軌跡」の内容を、私が作成した「悠遊織工房」サイトの中の「峯山海軍航空隊跡地」ページでの公開することの許可をお願いしたところ、さっそく「峯空会」の事務局に連絡頂き早川さんから、許可された旨連絡いただきました。



 そのとき、
事務局側から

 「青春の軌跡」はすでに発刊された冊子であるから、その記述内容の範囲であれば掲載することを許可するが、「峯山海軍航空隊跡地ページ」が



 全く個人の趣味のサイトである「悠遊織工房」のなかの1ページであることに疑問

 を提示された
と言われました。私はそのとき、

 「
いずれは、時機を見て独立した単独のサイトとする意向である

 と言いました。


 「峯山海軍航空隊跡地」ページを作成し公開しましたが、1年以上にわたり、この記事に対してなにも読者からの反応は無く、はたして読まれているのかどうかわからない状態でした。


突然

新聞記者からの取材 平成19年9月上旬


 平成19年9月に、突然、産経新聞の峰山駐在記者「安岡さん」から連絡があり、この記事についての取材を受けました。結果、新聞記事にしていただきました。



 その取材の時も、「峯山海軍航空隊跡地ページ」が「悠遊織工房」のなかの1ページであることについて質問をされました。



前川さんからの指摘 平成19年9月下旬


 さらにこの産経新聞の新聞記事がきっかけで網野町の前川さんが来訪され、種〃戦時中の資料の提供を受けましたが、



      「
そこまでの思いがあるなら、

      あなたが自身が先頭を立って保存運動を展開するべき、

      私も側面から協力する
」。



と言われました。しかし、私はそのような運動に孤立無援で立つ力は無く、また、表に立つような環境にも性格でも無い。


     「
皆さんに、こういう

     事実を知っていただくことをホームページを通して実行する


     その範囲が私の出来る範囲である
。」



と言いました。その時の話で
いずれは、独立したサイトを作成する。と約束しました。




市会議員からのコメント 平成19年11月8日


  11月8日にはわが「悠遊織工房」の掲示板に、京丹後市の市会議員のお方から投稿を受け、

「峯山海軍航空隊跡地」の保存に興味を持っていることを述べられました。



新サイトの設立 平成19年11月28日

 悠遊織工房にあった「峯山海軍航空隊跡地」のページを独立したサイトとして引っ越した。

 新しいサイトは Infoseek isweb の無料ホームページサービスを利用させていただいた。



 独立させた理由は、上記の指摘を勘案して直アクセスをしやすくすることであり、より、広報効果を上げるためである。悠遊織工房の趣味のサイトから切り離し一般性を持たせるためである。

  このことは、産経新聞からの取材時、また、網野町前川氏の指摘、また、峯空会事務局に「青春の軌跡」の転載許可を依頼していただいた峰山町の早川氏からも指摘のあったことである。



 リンク関係の不備は順次更新します。独立させてより公共性が高まりましたので、ぜひ、情報提供、保存運動などに利用頂き、多数の有志のご参加をお願いします。

 

新サイトの目的


 このサイトの目的は、



峯山海軍航空隊跡地の存在と、関わった人たちの記録を公開し広く一般に知っていただく




のが目的であり、これを使用して積極的に


私が単独で保存運動を展開することでは在りません





 
もし閲覧されたお方が複数で連帯して保存運動されてもかまいませんし、そうであれば、側面から協力もいたしますが、私が単独でトップに立つ気持ちはあるません。



(平成20年3月5日追記)

 このことは、平成20年3月に誤解されてしまいました。京丹後市情報交流サイト「T−WAVE」でのことですが、


このサイトを「T−WAVE」で紹介した記事を投稿したところ、「保存運動を積極的に行なう意志」が無いなら「T−WAVE」に投稿した記事の削除を促されて、削除するはめにあいました。投稿記事に責任を持つべきという理由のようです。



 くれぐれも重ね書きしますが、私が先頭を切って保存運動を展開いたすものではありません。このサイトがきっかけで保存運動が起これば、側面的に運動に支援、参加はいたす気持ちはあります。



 もちろん、このサイトを立ち上げたわけですから、私は皆さんに峯山海軍航空隊の跡地が残っておることをサイトを通じてお知らせし、それを保存できたら良いが、と真しに思っております。その気持ちなくして虚偽でサイトを作成してはいません。


  

また、このサイトの立場についてですが



 
このサイトは特定の主義主張や、特定の歴史観に基づき作成してはおりません。

 特に太平洋戦争自体の評価に関わる私個人の思いを貫き宣伝する目的もありません。


 私自身は昭和19年生まれとはいえ、戦後の教育を受けて育った年代でもあり、戦後派です。


 最近の太平洋戦争の事実から遠のいた、右傾的な若者の思考には危惧を抱いております。つまり、戦中の教訓を無視した軍事的国家主義には個人的に反対です。

といっても私自身はいわゆる右でも左でもありません、リベラルに属していると思っています。

簡単に このサイトの管理人について」もどうぞ





 しかし、
京丹後市のどまんなかに、わずか60数年前の真剣な若者の生きた遺構が今も残っているのです。事実は事実です



 しかもそれが、
遠からず消滅の運命にあります。京丹後市における数奇な歴史的遺物とは思いませんか?



 京丹後市の歴史的遺物として保存すべきでは在りませんか?

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