京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。
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生まれ年 昭和19年生まれ私は昭和19年生まれで、いわゆる戦時中の生まれと言うことになりますが、実際には戦争の記憶は全く残っていません。残っているのは幼少の頃の戦後の復興期からのものです。したがって戦中生まれではあるが、実際は戦後派と言えます。 生誕地、居住地 京都府京丹後市大宮町生まれも育ちも同じ場所で生きてきました。まるで田舎者です。 信条的位置 性格、信条は、中立リベラルと自負します。やや、保守中道ですが、かたくなに戦争、国防賛美思想には違和感を持っています。靖国神社にA級戦犯を合祀するのには、反対です。戦後民主主義に価値を認めます。 左翼的思想や、社会主義、共産主義的思想には、非常に違和感を覚えます。 さらに、右翼的思想、全体主義的思想、皇国史観には、左翼的史観以上に違和感があり、恐怖を感じます。 通学のころから飛行場との関わり ずっと昔、高校生の頃は、峰山高校に通学していましたが、そのころは、荒れ果てた峯山海軍航空隊の滑走路の残骸ともいえる草茫々の荒れ野の中の道をよく通学しました。その頃は田んぼの中には、今も残る格納庫と油倉庫、あと2個の弾薬庫の建物以外はありませんでした。 やがて国道バイパスが出来、家が建ち始め、バイパス沿いの飛行場跡の原野に丹後織物工業組合中央加工場が出来、飛躍的に家が増えました。 さらに年月が過ぎて、ショッピングセンター・マインが出来ると、周辺は一気に商用地となり商用施設が出来ました。 いま、商用施設と周辺地域の再開発の波にのまれて 峯山海軍航空隊跡地の遺構は風前の灯火となっていると思います(平成19年12月現在) 幼少の頃から飛行機好き 幼少の頃は朝鮮戦争中、あるいはその後の時代で、丹後半島上空は昼夜を問わず、飛行機の爆音の絶える時はありませんでした。その大部分は東西方向(東京横田基地ー朝鮮半島)に行き来する飛行機で、大半は4発の輸送機でした。ゴーゴーと爆音が過ぎると、次の飛行機の爆音が聞こえていました。そんな影響かどうかわかりませんが、 飛行機が好きな少年として育ちました。当時の科学雑誌「子供の科学」とか「模型と実験」とか好きでよく読みましたが、どれかの雑誌に今から思えば赤トンボ練習機の製作が書いてあり、それを作りました。 その後、飛行機模型に入り込み、雑誌「丸」とか、「航空ファン」とか、「航空情報」など読みふけり、軍用機モデルの図面からソリッドモデル(プラモデルではありません)を朴の木を削りだして作り、サンドペーパー、砥の粉を塗り、水ペーパー仕上げ、ラッカー塗りで仕上げました。 海軍の機体が好きで、零戦52型、雷電、飛燕(これは陸軍機)、紫電改その他を作成しました。性能の良い後期の機体が好きでした。いまから思えば幼稚なものであったかもしれませんが、飛行機の姿が無性に美しく、模型で実機を空想していました。 やがて、プラモデルが出始め、作って見ましたが、プラスチック成型の型を合わせるだけの簡便さはあるが、翼の縁などが厚くなりいいかげんなもので満足せず飽きました。その後模型を作る事もなくなりました。 その頃の雑誌なども今はすべて無くなり一冊もありません。
海軍航空隊の跡地がなくなりかけているのを見捨てられなくて 最近になり、ショッピングセンター・マインやホームセンター・ジュンテンドーに通ううちに、いつも目にする峯山海軍航空隊の遺構が残っていながら、だれも気に留めることなく行き来をし、40歳以下のお方はその事実さえ知ったお方が無い状態となりました。こと、いつも気になっていました。 周辺の土地売買も一気に進み、いまや、ひっそりと存在する峰山海軍航空隊の遺構は、周辺開発の邪魔者とさえなっていると見えます。 大宮町、峰山町周辺の老人達はみんな飛行場の存在は知っていない人はありませんでしたが、いまや、高齢化と死亡の時期を向かえ、若い人に伝えることもせずになくなっていきつつあります。 峯山海軍航空隊の遺構は、保存の価値があるものと考えます。せめてその存在だけでもサイトを作って、知っていただきたいと思って作りました。 平成19年12月記 |
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峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物 保存運動を! |
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