京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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私個人の飛行場に関わる思い出
 私は昭和19年生まれで、いわゆる戦時中の生まれと言うことになりますが、実際には戦争の記憶は全く残っていません。残っているのは幼少の頃の戦後の復興期からのものです。したがって戦中生まれではあるが、実際は戦後派と言えます。

口大野駅構内にあったエンジンの残骸を見た

 さて、飛行場の思い出としては、小学校の低学年の頃、昭和二十数年と思いますが、当時の国鉄の宮津線の口大野駅(現在の KTR丹後おおみや駅)の構内で駅前の南側に赤錆びた飛行機の星型エンジンのポンコツらしきものが積んであったのを列車に乗って何処かへ行くときに、見た記憶があります。

 今思えば、たしかにあれは、峯山海軍航空隊の練習機が解体されていた、残骸が列車で運ばれていくものであったのではないでしょうか?

子供の頃、荷車に飛行機の車輪が付いていたのを見た

 子供の頃におじさんたちが引いていた荷車の車輪が変わったのがあって、「これは、飛行機のコマだ」と言っていたが、あれも今から思えば解体された練習機の車輪をもらって付けていたのだったと思います。荷車に付ける結構大きな車輪であったがまさにこの九三式中間練習機の車輪と同じであったし、色もオレンジ色であった。

 
車輪
エンジン
地元のおっさんが荷車につけていたオレンジのコマは良く見たが、エンジンの残骸はこのようなものだったのだろうか?記憶が薄れたが国鉄口大野駅の前の広場の南側にやま積みされていたと思う。
他のページに九三式中間練習機の車輪の写真がありました。お借りしました。見覚えのあるのはこの車輪です。

(−九三式中間練習機の車輪、天風エンジンの写真の掲載されているサイトー)




峰高機械科実習工場のアルミエンジンの残骸を見た


 峰山高校の機械科に自転車通学していたとき、家からの最短コースは河辺の、元滑走路の南端の橋から滑走路の残骸に真っ直ぐに付いている草茫々の道を通って、今のショッピングセンター・マインの前の滑走路の北端まで行き、米川へ行くのが近かったので3年間ほどそこを通って通った。

 機械科の実習工場で、鋳物工場があったが、そこの中に、アルミの鋳物材料になるものの割ったのが積まれていたが、今から思うに、それは飛行機の空冷エンジンのシリンダーの割ったものであった。ピストンもあった。シリンダー直径は結構大きく、行程は短いエンジンであったと記憶している。私らはそれを溶かしてアルミ鋳物を作成した記憶は無い。ーーーーこれははっきり覚えています。

飛行機が下りた記憶(1)

 これも小学校の何年か忘れたが、「河辺の飛行場に飛行機が下りている」という話が広まり、放課後に走ってその飛行機を見に行った記憶がある。

 行って見た記憶をたどれば、双発のプロペラのかなり大きなアメリカ軍用機が下りていて、片方の車輪をぬかるみににえこませて、大勢の大人たちが囲んで引き上げようとしていたと思う。アメリカ人もいたと思う。近づかないように言われて帰ったが、その後その飛行機が飛び立ったのは見ていない。

 なぜ、降りたか? であるが、その頃は朝鮮戦争か、その終わった頃で、この上空を四六時中、飛行機が飛んでいた。この上空は、立川、横田基地から朝鮮半島に飛行するコースであった。そこを飛ぶ飛行機が丹後半島に墜落し、捜索するためか、遺体を収容するために着陸したものと、当時の大人から聞いた記憶があるが、本当に墜落したのか、それは何時なのか、調べても裏付ける資料にあたらない。したがって、私の記憶の範囲としか、言いようが無い。

2019年2月、同じく見に行った証言者が見つかった。彼によれば着陸した飛行機は、アメリカ軍のDC−3型輸送機だという。右車輪がパンクしていて赤いチューブが見えていたのも同じ記憶。


その着陸理由ですが、ウィキに出ているこれしかわかりません。



1955年(昭和30年)

2月20日 京都府久美浜町沖、2マイルの日本海にF2F双発ジェット機が墜落し3名死亡。



飛行機が下りた記憶(2)

 すこし大きくなってからで、小学校の高学年か、中学校かわからないが、これも飛行機が下りていると言う話を聞いて、自転車で見に行った。

 このときは、これも小さな双発の飛行機で、コンクリートの上に駐機していて、警察が番をしていた。警察しか他には誰もおらず、親切に見せてくれた。水平尾翼の舵を触らせてもらってがくがくと少し動いた記憶がある。

 これもなぜ降りたのか、飛び立ったのかは不明であるが、こちらははっきり覚えている。

飛行場跡のラジオ・ビーコン

 飛行場そのものとは、直接関係が無いが、河辺と新町の境あたりの竹野側寄りの草原の中に高いアンテナが立っていた。    ここにあった。(ー地図リンクー)

 電信柱を5本繋いだ高さで、ワイヤーロープで倒れないように引っ張ってあり、2本あった。そのあいだにアンテナが張られていて、下には発信機の入った小屋があった。 「ラジオ・ビーコン」と呼ばれていた。

 当時の運輸省の航空灯台で、小学校の6年くらいに見学に行ったことがある。見たことも無いものすごい大きな真空管の発信機があって、寄ると機械が熱かったことを覚えている。予備機とも2台あった。

 中学2年のとき、米子市から河原君という生徒が編入してきて友達になった。彼の父は運輸省の技官でそこに転任して来られたのであった。官舎が河辺にあった。(河原君、読まれたらご連絡ください)


 そのころ飛行場跡の(丹後半島)上空は、東京の横田、厚木米軍基地と、朝鮮半島の米軍基地を結ぶ飛行コースであり、また、大阪の伊丹基地とも(T)字型に分岐する航空交差点であったので、飛行機が夜となく昼となく飛行しており爆音の絶えることが無かった。私は幼少の頃から、その飛行機を見て育った。

(海軍航空隊の記憶のある世代では無い)

 ジェット機はまれで、大半はプロペラ4発、双発の輸送機であったが、たまに、戦闘機らしきものも通過した。真っ黒い(グラマンらしき)ものや、よく見ればロッキードP38ムスタングらしき、すごく速いのも通過した。夜など寝静まった頃、東西方向にワンワンと爆音が通過していた。

 そのための、ラジオ・ビーコンであったのであろう。何時しかラジオビーコンはなくなったが、現在はUHF方式の航空標識が大江山の大笠山の頂上に置かれている。巨大なお椀型アンテナで空に向かって開いている。下からは存在が見えない。

(−リンク 大江山の航空標識=大阪航空局宮津VORー)
車でも上がれます。見晴らし良いです。どーぞ。。(ー地図リンクー)
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  峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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