京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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河辺飛行場(峰山航空隊) 大宮町誌より転載


 支那事変の戦線が拡がるにつれて日本海側とくに舞鶴軍港を中心とする飛行行基地の必要を認めた軍部は、中郡平野の中心部の河辺付近の事前調査をすすめていた。昭和13年夏ごろから地元で河辺・新町を中心にして飛行場ができるという噂がひろがった。その噂は現実のものとなり同年秋土地買収が始まり翌年春までに土地買収が完了した。当時栗田には水上機の航空基地が開設されており、陸上機の航空基地としてこの地を求めたものであろう.


 昭和14年4月22日、第一期工事に着手したが、その内容は次のようなものであった。


1.飛行場の敷地造成(南北約 1Km、東西約 500m)

2.大谷川の改修

3.工事担当  舞鶴海軍建築部 (後に施設部)
          監督官  前田・長崎・大河内技師
          請負   元請 間組   現地担当米子市菊池組

4.工事期間  二年間

5.工  費  500万円


第一期工事は急ピッチで進められ期内(昭和16年)に完了したが引き続き第二期工事番に着手した。その内容は次の通りであった。


1.滑走路の新設 計画では幅 120mであったが変更されて幅 80m長さ 1Kmの滑走路となる。

2.格納庫  (北側から)900u 木造 一棟(第四号格納庫)
        広さはほぼ同じ   鉄骨 二棟(第二、三号格納庫)
        同じく         木造 一棟(第一号格納庫)

3.誘導路  50m幅員 アスファルト舗装
       (更に滑走路と格納庫を結ぶ舗装)


 第二、第三格納庫は練習機を一棟に十数機ほど収容ができた。第一およぴ第四格納庫は木造で鉄骨製にくらべて大きかったが、飛行機の部品等を収納していたので大体 15機くらいが収容できた。(第四格納庫は現在も残り吉村機業の織物工場として使用されている)




 昭和19年には滑走路の延長工事が行われ南北を 500m延長して1,500mの滑走路となった。その頃には他の施設も次第に整備備されたが、その主なものは次の通りである。


 通信基地 新山保育所南の農道を入った山中にあり送信を行った.将校以下約 20名。

 機関銃座 飛行場の四隅、善王寺の青年山・城山・河辺舟山に設けられ7.7mm機銃1機
        ずつが常置されていた。

 本部庁舎 丹工の口大野精錬工場を接収して設けられた。

 兵  舎  善王寺の平又工場を接収して設けられた。

 酒  保  丹工中部支部の事務所があてられた。




 昭和19年3月15日、峰山航空隊ほ第二美保海軍航空隊峰山分遣隊として発足した。当時の任務は陸上練習機による操縦訓練とされたが、当時同様のものは内地に6ヶ所、外地に2ヶ所あり、峰山のそれは筑城航空隊(福岡)、第二郡山航空隊(鹿児島)の三ケ所と同時に開設された。

 3月に飛行練習生(三七期生)141人が入隊し直ちに訓練を開始したが、5月には60人(同期生)が合流、7月には第三九期生120人が入隊、九月には第四一期生90人が入隊した。発足当時の分遺隊長は久保少佐であったが10月に異動があり後任として菅原中佐が着任した。

 昭和20年2月1日所管替えがあり姫路海軍航空隊峰山分遺隊となった。兵員は飛行練習生を加えて初めは600人くらいであったが、この時には第四十二期生46人が入隊したこともあって総兵員数、1,200人ほどになった。昭和20年3月1日独立して峰山航空隊となり、航空司令官には小関大佐が着仕しこの当時の練習機は100機あまりとなっていた。

 昭和20年5月5日作戦航空部隊第三航空隊(木更津基地)第一三航空隊(大井隊)の指揮下に入り、当時1,500名の隊員のほか他部隊よりの訓練要員戦闘作業要員を含めて3,000名となり特攻部隊も編成されたが、直接ここから出撃するにいたらず終戦を迎えた。





   空    襲

 昭和19年7月サイパン島が陥落してから、この島に米軍がB―29の基地をもつこととなり、本土空襲が日を追って激しくなった。同年11月になると東京空襲を始め各都市の爆撃が続き昭和20年に入るると京都府下の各地に空襲が続いた。

 このような状況の中で20年1月当地方最初の空襲警報が発令され、ついで3月にほ宮津上空に飛行雲が見え4月にはB−29の偵察があるなど次第に緊張感が高まっていった。

 6月20日夜に舞鶴宮津湾に機雷投下、7月27日夜には舞鶉海軍工廠が空襲され、工員学徒など死者97名負傷者150名、同30日の舞鶴湾内艦船空襲では死者83名、負傷者247名の多数にのぼり多数の艦船がほとんど撃沈された。




 河辺飛行場附辺の空襲は、7月30日行われ、午前4時30分B−29一機が河辺飛行場上空を偵察通過、ついで5時45分頃グラマン戦闘機7機編隊が高度1,000m上空を舞鶴方面に通過Lた。

 5時58分空襲警報が発令され7時20分米軍機の機銃掃射をうけた。ついで9時45分空襲警報が発令され爆撃は9時50分ごろから始まった。米軍機の主力ほグラマンF6F等であったが約55機の前後3回にわたる銃爆撃であった。

 飛行場関係の被害は死者3、負傷者6、九三式海軍中間練習機2機炎上、1機大破、二式中間練習機1機小破、木造格納庫小破、滑走路に250Kg爆弾一発、誘導路に一発、ロケット弾6個、火薬庫大破、建造物に弾痕無数という被害で為った。特に滑走路は直径約30m、深さ10mの大穴があき使用不可能となったためその晩はトラック15台を使い土石を運び夜を徹して復旧工事を行った。

 米軍機数に比し練習機の被害が少なかったのは新町・河辺・周枳の山に誘導路により練習機を隠したり、長善国民学校脇の道路その他に立木を利用して隠したりしていたためであった。また、飛行場内に木・竹・むしろ等により作った模型機が多数置いてあったので敵がこれを日標にしたためといわれている。

 第ニ回目爆撃の時飛行場に近い河辺国民学枚も機銃掃射とロケット弾投下により南校舎の一部が爆破された。この他飛行場付近一帯の河辺新町の民家多数も機銃弾およぴ爆風で被害をうけ住民1人が右足に負傷した。三重でほ農耕中の住民に機銃弾があたり軽傷をうけた。




    終   戦

 昭和18年戦況は次第に不利となり、翌19年7月18日には開戦前から3年近く政局を担当してきた東条内閣がついに退陣した。この日サイパンの陥落が報ぜられ、11月24日にはB−29による東京大空襲があり、戦況がいよいよ悪化してきた。

 昭和20年8月6日広島に、9日には長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、8月15日に太平洋戦争は日本の無条件降伏となった。

 この戦争において国内の人的物的損害は甚大で、領土においても朝鮮・台湾・南樺太・千鳥・小笠原・沖縄等を失った。その後昭和26年9月対日講和条約・日米安保条約が調和され、43年6月小笠常諸島、47年5月沖縄鈍諸島は日本に復帰した。



上の文は、下のリンク大宮町誌(Web版)第一節 戦中戦後の状況4のPDFファイルを転記したものです。

大宮町誌(Web版)第一節 戦中戦後の状況4 を開く



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平成18年6月28日作成
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