京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(7)基地建設とその規模

航空隊の規模と施設の概要


 峯山海軍航空隊の主要施設は次の三群から成り立っていた。

        (全体図は、防衛庁保存の資料をもとに作成した−全体図−参照)

 第一は口大野本部・兵舎と青年山である。

 航空隊め庁舎と兵舎は口大野村にあった。今は工場の建物は廃棄されて府営住宅が建っているが廃棄前は北丹紡績(株)があった。

 元精練工場である数棟の建物群は渡り廊下で結ばれて、本部庁舎、兵舎、士官室があり、更に医務室、ガレージ、烹炊所、ボイラー室などが新設されて玄関には軍艦旗掲揚塔があった。只、大講堂や武道場はなかった。付属して裏手に2ヘクタールほどの練兵場があった。

 位置的には旧国道に面し、口大野村の市街地から少し離れてはいるが隊としてはかえって使いやすかった。口大野駅(現KTR丹後大宮駅)からも飛行場からも、長善兵舎からも1Km程であった。

 そこから 200m北西に青年山と呼ぶ通信室が作られ、ほかにも工作科、整備科の作業場が設けられた。ここには初期から大規模な防空壕が掘られた。いざという時は司令部をここに移すという計画であった。



 第二は長善兵舎である。

          (−峯山海軍航空隊の組織−参照)


















 第三には最も重要な飛行場である。

 飛行場は河辺村から新山村にかけて中郡平野の真ん中に造成された。

          (−航空隊の飛行場建設史−参照)

 滑走路は方位330度とはぼ南北に、幅80mで作られアスファルト舗装が施された。大谷川を南限に長さは当初800mから後、北へ延長して1000mとなった。その後更に、南へ500mの延長工事が行われた。滑走路の位置は現在の国道三一二号(バイパス)辺りでもう少し東寄りにあった。

 滑走路から西は竹野川まで芝生が美しく張られており、練習機は離陸・着陸も充分可能であり随分使用された。後、一番西の端に南北に並んで土盛りの掩体壕が7基作られた。

 滑走路から東は格納庫の線までコンクリート舗装の前庭(エプロン)が広がり数十機の飛行機がずらりと列線をつくって並べられた。

 飛行場の出入り口は南にあり、大谷川を渡った所に隊門が設けられ衛兵詰所が置かれた。そして右手東側に兵舎や倉庫が続き、さらにその北に格納庫が4棟あり、いずれも西を向いて建てられた。真ん中に飛行隊指揮所の建物が置かれた。格納庫や兵舎の東は、直ぐに今も残る土手があり官民境界をなしていた。

 飛行場は苦労して造成され、大谷川を竹野川に直角になるよう付け替えられた。全体に排水路と暗渠を巡らせて水捌けのよい広大な飛行場が出来上がっていた。

 南北両方向とも滑走路の延長には高い山は無く、離陸着陸にとって支障は無かったが、全体が盆地であり、東西は500mの山が迫っていることもあって、天侯不良時や夜間は滑走路の発見は困難であった。

 飛行場周辺の山頂には航空標識灯が設置してあった。

 夜間には、滑走路を示すため両側にカンテラを並べる。風の向きで着陸方向が決まると手前のエンド近くに赤灯と青灯の着陸灯が間隔を開けて並べる。飛行撥はそれを見て、南風の時は峰山の町の上空から赤青のランプを見ながら高度を落としてきて定点着陸する。まさに職人芸である。

 当時は電波誘導が無いので、天侯次第となる。定点着陸は海軍のルールであり、そのためだだっ広い飛行場は必要無かった。

 夜間飛行は当初から訓練項目に入っていたが、昭和20年4月以降、航空攻撃も昼間では無理となり、特攻隊の訓繰も夜間飛行ばかりとなって事故も続出した。しかし、峯山基地の訓練条件がよいことから、峯空の飛行隊だけでなく、他の航空隊もぞくぞくとやってきたし零戦や、大型機の銀河や、一式陸攻なども飛来した。

(−飛来した飛行機データへのリンク   零戦  銀河  一式陸攻 −)


大規模な本土決戦体制への工事

 本土各地にも空襲が激しくなり、真っ先に航空基地は攻撃の対象となって被害が続出した。戦局が厳しくなるに従い、本土決戦の準備もあって、基地施設の拡張と地下隧道への移設が緊急の課題となってきた。舞鶴鎮守府では峯山基地の大規模な工事計画を立てて逐次施工した。


           (全体図は、防衛庁保存の資料をもとに作成した−全体図−参照)


@ 河辺村では、重要な飛行機の分散留置の為、飛行場から東へ山手にかけて、誘導路が作られた。

  図面にあるように、路は幅50mで府道を越えて、東へ直線に600mも伸びていた。指揮所の北に2本あり、その先一帯に飛行機を収容する掩体が作られた。比較的に勾配が緩く、訓練の終わった飛行機は搭乗員が乗ったまま、地上滑走で疎開先まで走り、暫く使用しない機は翼を外して秘匿収容した。日常の整備作業もここで行われた。

 やがて飛行機だけでなく、基地の施設も分散され山手一帯には数多くの随道が掘られた。飛行隊指揮所、電信室、治療室、搭乗員や整備員の待機または居住の地下壕が用意されていた。

 もう一つは、河辺村役場前から東へ入る谷で集落が切れたあたりから上流1.5Km付近まで多くの随道を建設しており、基地の機能分散を計画していた。これらはどの程度完成していたかはよくわからないが多数の兵員を使っての工事であった。



A 飛行場から離れて新山村の四叉路を東に入った池の裏に送信所が設けられていた

 近くには電源施設が設けられた。



B 次に滑走路の延長である。

 南側は田園であったが、大谷川と府道を跨がなければならない。そのため木製の橋を架けた。飛行場の拡張工事は進んでいたが、この橋については滑走路の延長として使用できたかどうか定かではない。府道は南500mの所に付け替えすることになっていた。

  そして、そこから二本の誘導路が東に伸びて丘陵一帯に飛行機を分散収容するため多くの掩体や地下壕が掘られた。その辺りは、周枳兵舎と呼ぶバラックが建設されていた。ここは他の航空隊から派適されてきた兵員が使用していた。



C 周枳村には、もう一つ南方の谷に基地施設の分散のため隧道が掘られていた。これも竣工していたかはわからない。



D 口大野村にあった本部兵舎と青年山その周辺も大規模な工事が行われた。

 先に触れたように青年山は軍の中枢機能が入るように計画された。戦闘指揮官室、電信室、戦時治療所、治療品倉庫のほか鍛冶や木工の工作科の作業場や航空計器の調整場も作られた。
 数百人収容の兵員居住用の隧道も堀られていた。工事中珍しい土器が出土するようなこともあったが、工事中の落撃事故のため大須美上等水兵が殉職した。

 しかし、地下壕はコンクリートで固めるわけでもなく、素掘りに近くせいぜい杭木を組んで支える程度であり、かつ湿度が高く、あまり使用しなかった。


峯山航空基地施設と規模     防衛庁資料より

飛行場の面積 440,000u
うち、滑走路=アスファルト舗装(延長後) 1,500m×80m
回廊(エプロン、アプローチ)延長 1,270m
誘導路             延長 4,300m
隧道 813u
格納庫・工場・倉庫建築面積 4,690u
送信所 あり
掩体壕 24
飛行場を除く用地面積 508,785u
収容施設 6.600u
うち、居住施設 3,150u
収容人員(正規の施設内) 1,000名
当初の兵舎(製糸工場2群) 1,870u
施設の所要経費 7,861千円
建設の年 1942年

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峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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平成18年6月28日作成
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