京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(3)峯山海軍航空隊の組織

峯空の指導部


 第二美保海軍航空隊は、昭和十九年三月の開隊時、本隊の司令は 高橋俊策海軍大佐、峯山分連隊の隊長は 久保 清少佐であった。隊の業務は、このパイロット出身の久保少佐が取り仕打っていた。

 昭和十九年 十一月に至り、二代目の分遣隊長として戦地帰りのベテラン 菅原英雄中佐が着任、昭和二十年三月、分連隊が峯山海軍航空隊に格上げされたがその 菅原中佐は初代司令を勤めた。

 同年四月、二代目の司令として軍政畑の幹部 小関 晟大佐が海軍省から着任した。小関大佐は終戦まで勤め終戦処理も鮮やかに行った。



 航空隊では、飛行長や内務長、整備長、軍医長、主計長などの上級士官が任務を分担して執行していたが、航空隊の性格上、やはり飛行長の存在が大きい。最初の飛行長(飛行隊長)はラバウル帰りの戦闘機乗り、 中島大八大尉であった。中島大尉は第一分隊長も兼ね、峯空第一期生の練習生の教育を苦労の上軌道に乗せた。

 昭和十九年六月、二代目の飛行長・ 萩野益男大尉(後少佐)が着任した。萩野大尉は海軍が制度化した大学出身の予備学生第一期で豪放な性格であり、かつ書道にも秀でた人であった。もう一人の大学出身者は軍医長の渡辺直寛大尉であった。大阪大学出身で空母翔鶴に乗り組み真珠湾から珊瑚海などの海戦を経ての勤務であった。

飛行長、軍医長は終戦まで在職した。

 教官、教員や分隊の士官・下士官にも多くの戦地帰りがおり、教育部隊とは言え、張り詰めた雰囲気の隊であった。

 航空隊では分遺隊長や司令のもとに副官部があり、トップを補佐すると共に隊の庶務、人事、渉外、経理の事務を行っていた。そこには口大野村村長の娘さんら若い女子職員が「理事生」として働いていて、男ばかりの世界の航空隊では別天地であった。


峯空の組織と機能


 峯空の組織は次のようなものであった







第一分隊・第二分隊 飛行科

 分隊長以下教官教員、練習生がここに所属していた。のち、特攻隊が編成されて搭乗員が口大野本部兵舎内に起居したことがあるが、飛行科分隊は長善兵舎が生活と教育の場であった。飛行作業は午前と午後を交互にして飛行場まで駆けて行った。

 長善兵舎は長善村にあり織物工場を買い上げて兵舎とした。地上演習機講堂、落下傘講堂などが新築された。付属して練兵場(運動場)が約二千坪あった。



第四分隊 整備科

 兵舎は河辺の飛行場にあった。飛行場には格納庫が木製二、鉄骨製二と四つ作られた。(鉄骨のひとつは昭和二十年の冬、雪のため倒壊した)

 整備科の業務は、航空機の整備、保管、器材管理など多岐にわたる。その為次のような班編成によって業務分担されていた。

 発動機班四ケ班、機体班六ケ班、射爆班、飛倉班、計器班、電補班、写真班、そのはか規律監督の甲板係や事務室担当などである。
 射爆というのは、操耗教育の中練(九三式中間練習機略称)では扱わないが、特攻隊となって二百五十キログラム爆弾搭載のため設けられた。


第六分隊 内務科

 内務科分隊には特務部、補機郡、自動車部が所属していた。隊の管理監督をする甲板士官や衛兵司令から信号担当、通信担当、気象担当、ボイラー室から陸戦隊まで含むまれた。航空隊には乗用車やトラック、燃料車、飛行機のエンジン起動に使うスターターなど多種の自動車があった。


 飛行科と整備科以外は全員即ち、第六、第七、第八、第九の各分隊(定員分隊と呼称)は口大野本部兵舎に入っていた。


第七分隊 補修分隊

 補修科分隊は、鍛治場を持つ金工科と大きな作業場の木工科があり大小様々な隊内の仕事が持ち込まれて、走り回ったり大忙しの毎日であった。


第八分隊 医務科分隊

 医務科は軍医の指揮により医療、看護業務を行い、隊員の健康管理をおこなった。
 後規模が大きくなり、又空襲に備えて、医薬品を防空壕に分散、戦時治療所が設けられた。











第九分隊 主計科分隊

 主計科には副官部、衣糧係、烹炊所があった。衣糧倉庫は時には溢れ、隊外の織物工場や倉庫を借りたり、一時駅の日通倉庫に預かって貰ったりした。

 烹炊所は口大野の本部兵舎、長善兵舎、飛行場兵舎の三ケ所に設けられた。
 食料確保のため近隣の各村にお願いしたり薪集めに与謝郡、竹野郡まで行ったりした。宮津の漁港も魚が少なくなり困ったこともあった。酒と煙草は舞鶴の軍需部で調達した。





 上部組織


 次に、峯空の上部組織について見る。

 昭和十八年海軍は航空要員養成体制を確立するため、練習聯合航空総隊を新たに編成した。峯空開隊時はその傘下の第十二聯合航空隊に所属していた。海軍航空本部の企画に基づきそこが指導していたのである。

 その後の変遷を経て、昭和二十年五月、練習航空隊は総て廃止されることになった。そして作戦部隊として連合艦隊に編入になった。峯空はその中の、第三航空艦隊(司令長官寺岡中将)傘下の第十三航空戦隊に所属した。峯空の特攻隊飛神隊が進出した中の鹿屋基地は第五航空艦隊の傘下にあった。

 昭和二十年八月をもって海軍航空隊は、「空地分離」と称する改正をすることになっていた。これは基地部隊と作戦部隊とを分けるわけで、七月には既に実質的にそうなっていた。

 基地航空隊としての峯空は多くの航空隊の訓練を引き受けていたし、移動要員も釆ていた。

 作戦部隊としての峯空は第一次特攻隊を前線各基地に展開させ、飛行隊に付随して、整備科、主計科の部隊も派遣し進出した基地では「小関部隊」と呼ばれていた。

 又第二次特攻隊も編成され、訓練に入っていた。更に多くの搭乗員が特攻隊の編成に備えて他の航空隊から着任していたのである。






終戦時の峯山基地所在の兵員数と峯空在籍隊員数


 前記のように特攻隊のメッカとなった峯山基地は自前の特攻隊を養成するはか、各地から派遣された隊員で溢れ返っていた。その数は次の通りであった。

大井海軍航空隊所属 295名
大和   〃 10名
鈴鹿   〃 342名
鹿島   〃 17名
第二河和 〃 8名
第三岡崎 〃 14名
山陰   〃 10名
神町   〃 19名
滋賀   〃 572名
九〇一  〃 145名
五三一設営隊所属 317名
峯山海軍航空隊所属 964名
2,713名

 上段の表の中で大井航空隊と、鈴鹿航空隊は本来、ともに、偵察員を養成する練習航空隊である。この頃機上作業練習機「白菊」も特攻隊として使うため搭乗員を訓練に、峯空へ派遣していた。

 滋賀海軍航空隊からの大量の派遣は同隊の予科練甲十五期を戦備作業要員として送り込んできていたのであった。

 戦備作業と言えば聞こえがよいが、滑走路延長工事、防空壕掘りなどの土方作業。それに陸戦隊員にまで繰り入れられていた。飛行機乗りを志願したのに、土方とはつれない海軍であったが、若い予科練たちは、張り切って業務に専念していたのであった。

 これらとは別に、峯空在籍の隊員で、終戦時他の基地へ展開していた隊員は次の通りであった。

鹿屋基地 181名
人吉 〃 104名
福岡 〃 107名
岩国 〃 78名
藤河 〃 57名
可部 〃 94名
  計 631名

 即ち、峯空在籍者は合計 1,585名 であり、終戦時在隊者も含めると、 3,334名 となりまさに大部隊であった。

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峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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平成18年6月28日作成
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