京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(4)峯山海軍航空隊の飛行教育のあらまし

開隊

 昭和19年3月15日、第二美保海軍航空隊峯山分連隊が発足した。

 戦争の流れは、いつに航空機の補給とその搭乗員の養成に懸かっており、海軍はここ京都府中郡の中心に建設した「河辺飛行場」即ち、「峯空」を陸上中間練習機による操縦員養成の教育隊として位置付け開隊した。


三十七期飛行練習生の入隊

 「〇〇習生 〇〇〇号離着陸単独 出発します」

 五月晴れの丹後の空に響けと、若い練習生の腹の底から振り絞るような大声が届く。昭和19年5月末日、この日初めて練習生の単独飛行が許された。

 思えば春浅い4月、生まれて初めて空を翔んで以来約2ケ月、手とり、足とりして教えてくれた教員の同乗でなく、たった一人で飛行機を操るのだ。こうして続々と雛鷲は若鷲へと成長の一歩が弾んでいく。2ケ月前を回想すると夢のようである。

 この年3月20日ごろ各地の航空隊から教員がぞくぞく着任してきた。施設の整った航空基地から、まだ地元の者さえ殆ど知らない「峯空」 へ尋ね尋ねの到着であった。

 練習機は第二美保空から空輸する。中には霞ヶ浦の航空廠から受領空輸するものもあった。誘導コースの設定と試験飛行を行う。

 練習生の受け入れ準備に忙殺されている3月25日、三重航空隊の予科練を卒業した乙特三期生がどっと入隊してきたのだ。
 練習生は、直ちに分隊わけをし、一人の教員と五、六人の練習生が一組となるペアの決定をするほか飛行服などの受領に大童であった。初めて憧れの飛行服に手を通してみる者も。飛行帽は人造皮革だが飛行眼鏡は正真正銘のものだ。最初は兵舎は飛行場にあった。兵舎は海軍伝統の釣床(ハンモック)でなく二段ベッドであるのを見て、釣床訓練でしごかれた予科練を思いほっとする。



 教育訓練の内容は表の通りである。

 全員を一分隊と二分隊に分け、午前飛行作業午後座学という日課を交互にしながら空中教育と地上の教育を行う。
 総員起こしは5時半。朝食も流し込むように食べ、飛行場へ駆け足。飛行作業もペアの皆が時間内に教員に同乗してもらえるように1分1秒も無駄にできない。

 整然とした飛行整列。きびきびとした動作と猛ダッシュの早駆け。作業が終われば飛行場一周だ。一日に何キロ走るのか。エンジンの音が大きく海軍では絶叫に似た大声で告げる。

 乙特三期生の単独飛行進行中、5月二29、同じく三十七期飛行術練習生として、乙十八期出身者が博多空から転入隊した。昭和17年に海軍に入隊した本来の予科練制度の卒業生である。(乙特は予科練の期間短縮コース出身)既に博多空で飛んでいるので先着の乙特出身者とは直ぐに一体化できた。
 総勢二百名の練習生と六十名の教官教員で手狭となった長善兵舎はますます緊張感が漲った。我慢と工夫の毎日でもあった。



赤トンボ

 九三式陸上中間練習機(中練)は赤トンボと呼ばれた。翼は複葉、胴体は羽布張り、プロペラは木製だが、エンジンは330馬力。500Kg積んで、巡航速力75ノットで600Km飛べる。丈夫で安全でかつ多機能を備えている名機であり、これで訓練すれば大抵の実用機に対応できる。海軍はなんと5500機も生産した。


(−海軍九三式陸上中間練習機−ホップアップ)

 教育用なので前席と教員の乗る後席がある。後席にも操縦桿があり、計器も全部ついている。翼の長さは11mあり、格納庫へ沢山の飛行機を収めるのは整備科の腕の見せ所でもある。



 さて、飛行機は風に向かって離陸し着陸する。峯空の滑走格はほぼ南北に作られていた。夏は南風が多く周枳村の方へ向けて離陸上昇する。やがて西に変進(第一旋回)高度200mとなり、水平飛行とし、口大野村の裏手を右に変進(第二旋回)北行する。飛行場を右に見つつ、上菅を越えるあたりで右に変進 (第三旋回)、降下を始め、滑走路又は着陸地点の延長線を右折南行(第四旋回)、降下を続け飛行場に入ったところで旨く着陸する。北風の時は逆となる。常に飛行場の飛行隊指揮所の反対側、峯空では西側を飛ぶのが規則で、これを誘導コースと呼ぶ。よそから来てもこのコースに従い、割り込みはいけない。


 訓練空域は概ね丹後半島とその周辺であった。時に天の橋立を見下ろし、大江山をかすめ、円山川から香住に飛ぶ。しかし常に飛行場の位置を確かめつつ風に流されないように注意する。
 高度は500から800mだが、特殊飛行をするときは、1300m以上も上がる。風防はあるが外気が当たって夏は涼しく、冬は寒い。上昇の時間を有効に使うため、編隊飛行を訓練しながら高度をとり、編隊解散後各機ごとに特殊飛行訓練を行ったりした。



教程のあらまし

 離着陸の操作を繰り返すうちに飛行機の扱いにも慣れてくると教官や別の教員が後席に乗ってチェックする。分隊長がそれを聞いて良かろうとなれば、いよいよ単独飛行許可となり先の風景が見られる。


 そして次の教程は、編隊飛行と特殊飛行である。 編隊飛行は三機が基本で、海軍では通常隊伍を組んで行動するので相当な熟達が必要。滑走路から一機づつ飛び立って、空中集合を旨く行い、編隊を組む。が、なかなか一番機が「静止」してくれない。やがては旋回したり振り回すような荒い操作にも喰らいつくようについて行けるように上達する。


 特殊飛行は、戦闘機や爆撃機にとっては不可欠の技術で、九三中練でも殆どの操作が可能である。宙返りや錐もみから、横転、反転へと進み、背面飛行で床の土を被るようになればしめたもの。だが、サーカス飛行は、よはど適性がないと飛行機がどこを向いているか分からず、後席から怒鳴られる。

 計器飛行は海軍の重要な飛行技術で夜間飛行や洋上飛行、また雲の中を飛ぶときに必要である。方法は、後席に幌を被って行う。精神を集中するためである。前方は計器しか見えない。目標も水平線も視認できず針路や傾きを計器を見て修正するのだが、退屈でついずぼらをしてしまいたくなる。

 夜間飛行も回数は少ないが、要領はマスターした。しかし空母に降りるため定点に接地着陸する海軍独特の「定着」などは、何回かやったくらいでは旨く行かない。飛行技術は高い山か深い森のようで、奥が深くまだまだ訓練を積まないとだめだと教えられた



航空隊の教官教員

 初代の飛行長兼分隊長の中島大尉は海軍兵学校出身であったが、もう一人の分隊長や、教官は下士官から上がった人で支那事変から戦を重ねたベテランであった。やがて予備学生十三期出身の士官が着任してきたが三十七期生とはまだ接触が少なかった。





 教員は下士官兵でみんな先輩である。予科練の教員のように善行章を何本も並べている人は少ない。






 大部分は甲、乙、丙の予科練出身であったが、階級や年次より飛行練習生の期によって自ずから序列ができるのがこの世界の特徴といえる。飛行経験の差が物をいうのだ。戦地帰りも多いし、数ケ月で転勤する人もある。練習機から離れていると我流になるので、古参とは言え初心に帰って教え方を学習する。自分のペアを早く単独飛行させようと教員同士が競争するような雰囲気もあった。



サイパン玉砕の衝撃の中で卒業

 昭和19年7月19日、サイパン島玉砕発表。海軍に衝撃が走った。

 そんな中、実用機に乗る機種別の希望を提出した。しかし適性を判断されて必ずしも希望どうりにはならなかった。機種別の一覧は別表の通り。戦闘機が多いのがこの時期の特徴であった。この頃には飛行場には鉄骨製の格納庫が二棟建つなど、施設もようやく充実してきた。

 卒業記念飛行は、9機、15機の複編隊飛行である。練習機とは言えなかなかの壮観であった。
 8月28日「卒業謝恩会」が開かれて全員出席。翌29日卒業、在隊者の帽振れに送られて峯山分遺隊を退隊、実用機の各航空隊に向け出発した。



戦没者



 こうして卒業した三十七期生は、戦闘機は朝鮮の元山空で、艦爆(艦上爆撃機)は名古屋空で、艦攻(艦上攻撃機) は宇佐空で、陸攻(陸上攻撃機)は松島空で教育を受け、4〜5ケ月で卒業した。これですべての練習教程を終了したわけである。

 その後は各実施部隊が手を拡げて待っていた。どこの航空隊も搭乗員が欲しいのだ。そして時期は沖縄決戦に突入する。
 終戦までの間、戦闘や訓練で二十八名の尊い人命が犠牲となった。中には沖縄への特攻隊となって出撃散華した戦友もいる。

 峯空では一名の人身事故もなかった三十七期生だが、戦没者の中に訓練中の殉職者十三名を数える。
 また、教官教員もぞくぞくと危地に投ぜられた。ベテランとて容赦はない。特攻隊に選ばれて次々と戦死した。 あの人もと思いだす顔が涙に湊む。

三十七期飛行術練習生   教育内容と時間数(地上教育の部)

教 育 内 容 時間
操縦理論 5時間
飛行要務、事故防止、落下傘取扱い 8時間
離陸着陸旋回 不時着 17時間
基本特殊飛行(直角旋回、笛返り、錐揉み、横滑り等) 2時間
応用特殊飛行(横転、上昇反転、笛返り反転、緩横転等) 2時間
編隊飛行、夜間飛行 2時間
計器地上演習機 15時間
航  法 (編流、計器自差修正、航空図等) 32時間
気   象 9時間
整備術(機体、発動機、プロペラ、付属兵器) 12時間
航空計器 6時間
応急処置、点検整備、運転 8時間
兵   術 航空戦術、戦務等 15時間
合    計 133時間

飛行内容 回数 時間
離  着  陸  飛  行 47回 12.45時間
特   殊   飛   行 34回 7.48時間
編   隊   飛   行 49回 15.04時間
計   器   飛   行 11回 4.05時間
夜   間   飛   行 4回 0.36時間
互 乗 飛 行 後 席 14回 3.42時間
合   計 159回 44.00時間
(注 内 単独飛行時間は 5.17時間)
◎総評
  教育は順当に経過、技術の進歩は極めて良好にして所期の成果を
収めたり
                第二美保海軍航空隊峯山分遣隊

三十七期飛行術練習生終業者詮衡機種別人員
機  種 乙特三期 乙一八期 合  計
戦   闘   機 87人 34人 121人
(艦上) 爆撃機 26人 12人 38人
(艦上) 攻撃機 14人 6人 20人
陸 上 攻 撃 機 13人 6人 19人
合  計 140人 58人 198人

 

三十九期飛行術練習生の入隊

 峯山分遺隊の二期生として三十九期生が入隊してきたのは、昭和19年7月25日、美保海軍航空隊の予科練甲十三期(前期)卒業生の120名である。

三十七期生が卒業前で大変な張り切りようで良い手本となり、飛行作業でも列線作業や風向きが変わったときの処置などいろんなことを教わった。三十七期生の訓練は計器飛行や特殊飛行で遠くに出掛けている事が多く、離着陸中心の三十九期生との競合も少なかった。

 長善兵舎ではベッドが足りず、波り廊下で寝るなど不便と暑さに苦労したが九月になると練習生は三十九期生のみとなった。

教育訓練のあらまし

 三十九期生のみとなった飛行科では、逞しい兵隊に育てるため心身の鍛練が厳しさを加えていた。教員の異動も開隊時から見ると増えており、代わって若い教員が目立つようになった。

 厳しい教員もそれぞれに育て方の秘訣を持ち合わせており、次第に一体感が漲ってきた頃、待望の単独飛行が見込まれた。9月20日から、殆ど1週問ほどの問に許可された。

 初単独実施時の飛行回数と時間は平均48回で16時間であり、やや多い。この中には編隊飛行や特殊飛行の時間もあり飛行場の効率利用と空中感覚を養うためであった。同時に教程を進める上でそこそこ足並みが揃ったほうがよいからである。

 8月15日には早くも編隊飛行が始まり、9月11日には編隊特殊飛行も行われている。

三十九期生の生年月日
大正13年生まれ 6人
〃14年 〃 10人
〃15年 〃 22人
昭和2年 〃 49人
〃 3年 〃 33人
終戦時の平均年齢 18.5才
 注 甲種予科練の採用は本来中学四年以上であったが、十三期から三年以上となった

三十九期生月別飛行教育と時間数
年    月 飛 行 回 数 飛 行 時 間 数
19年 8月 20回 6.42時間
9月 41回 12.34時間
10月 35回 12.04時間
11月 9回 3.12時間
12月 12回 4.13時間
20年 1月 24回 7.34時間
2月 20回 10.53時間
飛行教育中止命令の20年2月17日現在の累計
              150回     49.32時間

 
飛行教育の種別同数と時間数
離  着  陸  飛  行 42回 110.32時間
同       互   乗 17回 3.17時間
編   隊   飛   行 33回 12.58時間
編 隊 特 殊 飛 行 42回 17.05時間
同       互   乗 6回 2.36時間
夜  間   飛   行 2回 0.14時間
計   器   飛   行 7回 2.36時間

燃料欠乏と冬将軍の到来


 比島では厳しい艦隊決戦が展開されていたが、峯山の飛行訓練は順調に進み、別表のように練習生同士で前席後席に別れて搭乗する互乗飛行も行われていた。

ちょっとした教員気分を味わってみたり、同僚の意外なテクニックに驚いたりした。そんな頃の11月7日、分隊長が意外な宣告を行った。

  「予てから燃料節約は喧しく言ってきた。ガソリンの一満は血の一滴だと。ついにガソリンを使わないことになった」。
 練習生は驚いた。我々の飛行訓練はどうなるのだ。聞くところではアルコールを燃料にして飛ばしてみようとのこと。気化器を調整して実際に飛ぶようになったのは11月末であった。いわゆるア号燃料である。

 悪いことが重なる。例年に無く早い冬の訪れである。しぐれ、みぞれ、突風、横風。そこへ大雪がやってきた。

初めはなんとか飛行作業を続けたが着陸して回される機が続出する。特殊飛行に1300mまで上がると狂烈に寒い。

 西に向かってスタントに入るが直ぐに天の橋立まで流されている。雪を運ぶ鉛色の分厚い雲が次から次へと押し寄せる。地上も大変。除雪作業で靴もぐっしょり。手も足もしもやけだらけとなる。

 寒さでア号燃料のエンジンは掛りが悪く空中でもエンストが続発する。

 11月から12月は単独、互乗どころかすべて教員同乗で特殊飛行は一切なく教程は完全に足踏みとなった。記録がそれを物語っている。



 12月9日、森教員と湯川練習生の殉職事故はそのような環境で起こった。たまたま事故の時は穏やかな天気であって編隊飛行同乗の訓練中であった。一番機を交替する操作の際僚機が尾翼に接触し、森機は墜落。場川練習生は落下傘で飛び出したが残念なことにバンドに掛かってなく両名とも殉職した。誠に痛惜の極みであった。


雪を避けて福岡へそして無念の飛行作業中止

 雪には勝てず、1月には遂に福岡航空隊へ移動して訓練が実施さることになった。寒さは寒いが遅れていた教程が一気に進み、応用特殊飛行や卒業前の複編隊もやった。延長教育での機種別の専攻コースの話も出た。が戦争の実態は三十九期生を受け入れる実用機教程の航空隊は無くなっていたのだ。




 昭和20年2月20日、突如特攻隊編成が発表された。そして直ちに教育中止。編成に漏れたものは飛行作業から外された形となり、しかも翼端補助などをやらされて面白くない。特攻隊員に漏れたと言う不名誉と重なり、教員を激しく突き上げた。

 ともあれ、飛行時間数と内容から見ても中練教程卒業を認定すべきであった。画一的な航空本部の官僚主義は軍の体質か。

 特攻隊要員3月、空輸で峯山へ帰り、特攻訓練に集中する。 外れた42名は隊内で戦備作業や飛行作業の補助をやりながら第二次特攻隊の発表を待ったが遂にその機会は訪れなかった。


 5月、神町空と霞ヶ浦空へ転勤が発令になった。 神町空では峯空と同じ様に中練の特攻訓練が行われた。夜間飛行でいきなり二十五番爆装して急降下したりした。

 霞ヶ浦空では米艦載機による大空襲に見舞われたり、あまりにも多くの搭乗員を集めたためか十分な飛行訓練はできなかった。

 神町空ではさらに特攻隊員の選抜が行われた。七二二空へ4名、三一二空へ2名、七二四空へ1名。それらは、最後の秘密兵器秋水特攻隊であり、橘花特攻隊であり、零戦や、九九艦爆による訓練に入った。

 幸い転出した三十九期生は終戦まで特攻隊の発動を見ること無く終戦を迎えた。



四十一期飛行練習生の入隊

 昭和19年9月20日、長善兵舎に入隊したのは四十一期生90名である。奈良空甲十三期後期出身で、11,000名から初めて、しかも少数が選抜されたものであった。


 入隊後直ちに、一、二分隊に分かれてそれぞれ三十九期生との合同の日課が始まった。三十九期生が単独飛行実施中であったためか10日間待って飛行教育が始められた。峯山分連隊では既に三十七期生からの実績があるので飛行作業も座学も居住区での日常にも淀みはなかった。


飛行訓練のあらまし


 十月は天候に恵まれて毎日のように飛んだ。

 飛行場では飛行整列と列線作業は一緒に行うが三十九期生がリードしてやるので1ケ月もすると戸惑いはなくなった。教員もベテランは若手と組んで両方掛け持ちのペアもあった。三十九期生は単独飛行は終了して特殊飛行を習っていたので教程は別メニューである。

 秋の空気を胸一杯に吸って大空を駆けた。行軍で行った天の橋立も上空から見るとまるで箱庭のようで可愛らしい。訓練は順調であった。

 10月末には離着陸に編隊飛行も加わり、11月に入ると優秀なものは単独飛行の噂も聞こえてきた。

 その最も大事なとき突如として飛行作業が中断された。ガソリンが無くなったのだ。ア号に燃料に切り替える為であった。アルコールで飛ぶのか。不安が横切る。芋から取ったアルコールなら空中で屁のようにプスンプスンと言うんじゃ叶わない。

 座学ばかりも退屈する。がっかりする練習生に別の角度から気合いを入れようと体育が盛んに行われた。相撲にバレーボール。中には恐ろしいアタッカーがいたり、長距離では一万メートルのタイトル持ちもいた。
 運動会が開催されて二分隊が総合優勝した。後に雪シーズンになってからだが、スキーも楽しんだ。海軍には何でもあるのだ。南国育ちは雪だるまのようになって転んでしまうだけだが北国生まれは嬉しかった。

 結局11月は飛行教育はそれだけで終わった。12月になるととびとびながら飛行作業が実施された。しかし、1時間も続けるとしぐれやみぞれが降ってくるし、上空は雲ばかり、横風も強く飛行作業が一旦中止になってそのまま再開できず、ペア全員が乗れない日が多くなった。指揮所のテントに待機している時は寒さがこたえた。


 そんな頃、12月9日午後、二分隊の飛行作業中に大事故が発生した。森教員と三十九期の湯川練習生が殉職した。接触した飛行機が墜落していくのを、落下傘が開いて流れていくのを飛行場で目撃した練習生には強い衝撃だった。分隊長は「救援隊用意!直ちに出動」と号令。教員たちは「なにをぼやぼやしてるんだ!」と叫び、スターターとトラックに乗って飛び出した。

 海軍葬に出席した練習生たちは、衛兵の吹くラッパの音と弔銃を聞きながら搭乗員の任務の厳しさを痛感した。

四十一期生の生年月日 判明分のみ
大正12年生まれ 2人
〃13年 〃 10人
〃14年 〃 11人
〃15年 〃 23人
昭和2年 〃 10人
〃 3年 〃 2人
終戦時の平均年齢 19.6才

四十一期生月別飛行教育と時間数
年    月 飛 行 回 数 飛 行 時 間 数
19年 10月 25回 9.14時間
11月 3回 0.52時間
12月 5回 1.19時間
20年 1月 5回 1.33時間
2月 9回 2.52時間
合  計 47回 15.53時間
飛行種別では、
     離着陸同乗(慣熟飛行を含む) 35回
     編隊飛行同乗           12回


四十二期飛行術練習生の入隊と福岡空での教育

 さて、この雪では飛行訓練はできぬと、三十九期は20年1月に福岡海軍航空隊に移動して訓練を始めた。当初は三十九期生はそのまま福岡で卒業して実用機の延長教育に進む予定であった。従って全員が一分隊に統合した。そして四十一期生全員が二分隊に統合した。しかし峯山に残った四十一期生も大雪でとても訓練はできぬと二分隊全員福岡へ移動した。


 そんな頃、昭和20年2月5日、四十二期生が50名人隊した。長善兵舎へ入るのも苦労であった。恐ろしいばかりの豪雪に驚いた。数日後福岡へ移動、四十一期生と合流した。これがこの時点の二分隊である。

 四十二期生も四十一期生と同じ奈良空の甲十三期出身であった。
 これにはわけがある。戦局は日々悪化し、基地の都合や飛行学生の養成が優先されたりまた、燃料の不足などで海軍の教育計画は軒並み遅れた。各航空隊の三十九期生もその先の実用機教程が受入れ困難で進めない。

 当初11月に四十二期生を各航空隊に送り込む予定は大幅に狂い、どこの四十二期生も20年2月にずれ込んだ。これが永い予科練を余儀なくされた理由である。

 海軍航空に命を捧げんと志願したものの遂に飛行機に乗れなかった不運と悔しさは余人には計り知れないものがあるのだ。 2月に入って四十一期生の教育は順調に進んだ。福岡空の空域にも慣れてきたし、特に九州出身者が多かっただけに一層力が入った。分隊長は2月20日内外に単独飛行を許すと言明した。当然だと皆が思った。



飛行中止の遺憾千万


 2月20日、突如飛行教育中止が発表され、同時に特攻隊編成が告げられた。

 特攻隊に入れて貰えるのは教官教員と三十九期生だけであった。三十九期生の中からも三分の一は特攻隊の選に漏れ二分隊に移って来た。大きなショックだった。あんなに旨く飛んでいたのにと思うと夜も寝られない。

 四十二期生は来たばかり。何のことかさっぱり分からぬ。ただ唖然とするのみ。

 後で搭乗員として使うんだから、画一にやらず四十一期生に、せめて単独飛行を実施すべきであった。これは三十九期生の飛練卒業についても言える事である。

 2月20日、意外な事件が起こった。四十一期の練習生が割腹自殺を遂げたのだ。特攻隊から外された惜しさとも思えたが、直接の動機は個人的なことと判断される。なにしろ責任感の強い真面目な九州男児であったからだろう。うちひしがれる四十一期生に、さらに追い討ちを掛けるように、直ちに峯山へ帰って飛行場が使えるょう雪掻きをせよと言う命令がおりた。


壮絶な除雪戦隊

 どこが飛行場の端か分からず峯山盆地がそっくり飛行場に見えた。
一同はただ呆然とするのみ。福岡で訓練申の飛行隊を受け入れるため、四十一期生と四十二期生の140名は、2月未に帰隊して飛行場の雪を取り除けと言われたが・・・。

 しかし2人の教員の指導と暖かい気配りに励まされて動きだした。寒さを凌ぐ為長善兵舎の屋根裏の板張りに引っ越し毛布を掛けて寝る。除雪でびっしょりに濡れ凍りついたズボン、上着、脚絆、ズック靴を乾かすため二人の教員は夜も寝ずにストープを焚き続けた。

 燃料は農家に頼んで買付けた。
 練習生だけではない。隊員も加わった。地元の住民も勤労報国隊と言う名で動員された。大八車ともっこで運んで川に捨てる。雪を積むのも走るのも待ち時間無しの作業。巨大な滑走路は雪の山から氷水の川に変わった。その川は水深 50Cm、水温零度だ。大八車は氷飛沫を上げて走る。皆足を挙げて走る。氷水は三種軍装の背中まで撥ねる。

 そこへ寒風が吹きみぞれが襲う。休憩も氷水の中に庁んで過ごす。凍傷もジンマシンも増える。夕暮れ、「若鷲の歌」を歌って長善兵舎へ引き揚げる。


 そんな日が続いた。教員は藁集めに加えて米集めもやった。少しでも飯を増やしてやろうと。 芋のつるばかりの副食も、烹炊所では今日は吸い物、明日は茶碗蒸し、そしてさつま汁と工夫の限りを尽くして励ました。 二十日間の闘いで氷の川の量が減り始めた。もう、練習生の頻は痩せて真っ黒。だが目は澄んでいた。


 明後日は福岡空からいよいよ特攻横が、ミネナンバーを付けて帰る。あと二日間だ。広い飛行場全部はともかく滑走措の除雪は終わると見た。 その夜、気圧転置が変わった。風が変わり雪が見る見る溶け始め、真っ白の芝生のあちこちに青い斑点が現れてきた。 二人の教員と練習生たちが全力を導くした汗と涙の結晶は雪とともに消え去ろうとしていた。


 分隊士、教員、見慣れた三十九期生が着陸する。列線作業は四十一期と四十二期が受け持った。機上から降り立った一人が「みんな真っ黒だ苦労したようだな」事情を知らず、細やかながら労いの言葉だ。

戦備作業に陸戦隊

 除雪のあとは作業作業の毎日が続いた。時に特攻隊の飛行作業に列線作業を行う。訓練の終わる飛行機を誘導路を経て掩体壕まで地上滑走するのに操縦席に乗ることができた。僅かに飛行機の感触を味わえると自らを慰める。度重なる海軍葬に緊張感が漂う。自分たちより年少の三十九期生が殉職すると切ない気持ちになったりする。


 作業のなかに囮飛行機の製作がある。

 まず器用な者が模型を作る。木と竹で骨組みをつくる。次は胴の輪、風房プロペラ、主翼尾翼の各リプを作る。こうして竹組み筵張りの零戦や彩雲が出来上がる。大八車で飛行場に運ぶともうすっかり新鋭機?に見えるから不思議だ。後日空襲の時、米軍は囮機には目もくれなかったが・・・。

 掩体の偽装作業がある。防空壕掘りはしょっちゅうだ。誘導路の土方も多い。山へ入って松根油掘りもつらい。食料難で芋造りもやった。

 6月6日、峯空に陸戦隊が編成された。四十一期生から20名、四十二期生がら5名が選ばれた。おれは飛行兵だと不愉快な思いもあった。任務は兵10名の班長だ。または機銃員の長だ。部下は滋賀空派遣隊の甲十五期生だ。下士官だから当然だが・・・。警戒警報が入ると配置に付く。夜半や早朝は叶わない。解除まで兵舎には帰れない。時には下宿から1里の道を駆け足で帰隊したこともあった。




転勤! 退隊、 だが・・・・

健在ぶりを発揮した長善二分隊も転勤命令が下りた。

昭和20年5月11日が一番。 霞ヶ浦空へ四十一期生が44名向かった。しかしこの組はそ後飛行作業には恵まれず日々これ土方であった。大空襲にも遭った。挙句の果て、6月25日に神町空へ転勤した。


 同じ5月11日、三十九期生も14名が霞ヶ浦空へ向かったが戦備作業ばかりであった。さんざ意見を申し立ててやっと飛行訓練が始まったが、何を取り違えたのか単独飛行をやってない者と間違っていたらしい。混乱していたのだ。


 5月14日、四十一期生9名が霞ヶ浦空入りしたがこの組は覚えがよく直ぐに飛行訓練が行われた。


 この日三十九期生26名が神町空へ向けて退隊した。 7月20日、四十二期生50名は霞ヶ浦空を経て8月4日、第三郡山空へ転勤した。


 四十二期生は福岡空への派遣を含め5ケ月という短い在隊期間ではあったが、海軍の四十二期飛行術練習生という誇りと、何物にも代えがたい堅い団結の心、そして耐えるという心を得たのである。


 7月20日、最後の四十一期生40名が霞ヶ浦空へ転勤、思い出多い峯山航空隊を退隊したのである。その時はもう特攻隊も前進基地へ展開して誰も残っていない。


(5)峯空特攻隊の猛訓練のページに移動




峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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平成18年6月28日作成
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