京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました

(5)峯空特攻隊の猛訓練

峯山海軍航空隊の特別攻撃隊の全貌

  昭和二十年初頑フィリピン方面の戦闘は終わり、水上部隊の壊滅した日本海軍は、基地航空部隊をもって対抗するため、練習航空隊をも聯合艦隊に編入した。


 3月1日、峯山海軍航空隊は聯合艦隊第十航空艦隊第十二聯合航空 隊に編入された。



 峯山空の主力は冬季の降雪を避けて、遠く福岡での飛行訓練に励んでいたが、峯山空でもいよいよ特別攻撃隊が編成されることになった。それは練成中の三十九期練習生を中心に、教官教員をもって編成され、主力は3月22日大編隊を組んで残雪の峯山空に帰投した。



 3月30日軍務一機密第二五四号により、海軍練習聯合航空隊総隊解散。


 4月1日司令小関晟大佐着任。甲十三期練習生は海軍二等飛行兵曹に任ぜられた。


 特攻隊は100機編成、4機で1ケ小隊、8機で1ケ中隊。各1番機には偵察員が同乗する。操縦員は100名。殉職事故で一部が欠けたが最後の編成表は別項の通りである。

     (−神風特別攻撃隊飛神隊編成表および当時の記録より抜粋した訓練内容−)

 本格的な訓練に入り、編隊飛行、黎明、薄暮飛行、夜間定着、計器飛行。更に航法、索敵、攻撃訓練と順調に進み、4月26日には二十五番爆装(259Kgの爆弾搭載)での試飛行も行われた。


 20年5月5日練習航空隊指定削除。峯山海軍航空隊は、第三航空艦隊第十三航空戦隊に編入された。   .


 この頃より降爆は突入角度50度となっていたが、4機が次々と石を落とすように続いて突っ込むため、最後の4番機はどうしても急角度になり、肩のベルトが食い込むようになる。左手でスロットレバーを絞り、操縦桿を握る右手に添えて必死に押さえ、掩体壕に目標をセットする。

 地上すれすれまで、自分の納得の行くまで降下姿勢を続ける。見る鬼る掩体壕が大きく浮き上がってくる。一瞬危険を知らせる赤旗が振られたのが見える。旗は必死で振られている、振りながら身の危険を感じて飛び出そうとしている。まさに一瞬で激突だろう。
 思いきって操縦桿を一杯き起こす。プラス3Gの重みで首ががくんと下がり体の中に食い入る。両足は機体にくっついて離れない。一瞬目の前が真っ白になる。ひょっと前を見ると上に電線が見えるではないか。国鉄宮津線の側にある電線だった。着陸してホットした。口が乾いてからからだった。


 間人沖にチャーターされて、標的の役目を命じられた漁船は、訓練機の猛烈な突っ込みが恐ろしいばかりでなく、上空通過の際のプロペラの後流に翻弄されて、あまりの恐ろしさにご用御免を申し出る始末。

 五月に入ると、訓練は非力な練習機では敵艦に遭遇するまでに、敵の戦闘機の餌食になる公算が大であり、飛行作業は全面的に夜間飛行に切り替えられた。



 一部の熟練搭乗員を除き全員夜間飛行は初めてであった。しかも250Kg爆弾を搭載しての訓練まで行った。夜間定着、計器飛行、編隊訓練、航法攻撃訓練が、連夜繰り返し繰り返し強行された。
 それがいかに苛酷な訓練であったか。当時の戦況からして軍の指導部が、一日、一刻も早く錬成を終り、米軍が本土上陸作戦を開始するまでに、前線基地に展開待機を急いだためであった。

 何しろ百余名の搭乗員が毎夜一度ならず二度も訓練に加わるのである。全機の訓練が終了するのは、日付が替わることもしばしばであった。学習し、実技し、命かけての深夜の猛訓練が続いた。

 だが、夜空にはロマンチックな満天の星とばかりは限らない。霞がかかり、雲に覆われ、月明かりのない夜もあり、飛行機の姿勢や航空計器に擬念を感ずることもある。恐ろしい錯覚が走るのだ。訓練の模様は別項の航空記録抜粋の通りである。

   (−神風特別攻撃隊飛神隊編成表および当時の記録より抜粋した訓練内容−)

 無理、無謀な訓練の結果、5月7日から7月5日迄の僅か2か月間に、百余名の搭乗貝中8名もの殉職磯者を出してしまった。一つ間違えば自分がやられていたかもしれない。彼等は自分の身代わりになって死んでいったのだ。心の底に何時も負い目を抱えて離れない。

 昭和20年5月27日、朝日新聞に掲載された峯山空を取材した朝日新聞の記事があるので、原文のまま記載する。

 
荘 厳 な 神 鷲 達 の 姿
   捧げよ う優秀な 特攻機
        神風特別攻撃隊某基地にて首藤特務員(本社特務員)発
 
 沖縄の戦ひはあと一押しだ。今こそ一億の総力を結集して押し切らねばならない。「何が足らぬ」などといふ言葉は禁句にして、足らぬところはぐっと我慢し、勝利への大道を邁進しなければならない。一命を投げ出して神風を吹かしっつある特攻隊貝に応えるために・・・この基地で必中必沈の神風戦法を身につけるため、猛訓練に励んでいる神鷲達は、この問、二等飛行兵曹に任官したばかりの予科練出身者であるが、特攻隊員を志願して採用されたその日から、みんな澄みきった心境になりきり、物欲といったやうなものは微塵も持ってゐない。「この若さのみなぎった身体を敵艦に投げつけて、皇土を護り抜かう」と盡忠愛国の一念にこり固まってゐるのである。

 赤とんぼの練習機に性能の足らぬところは、精神力と技量で補はうと頑張っている。飛行機が要るといふことは、もういわなくてもみんな知っているのだ。練習機だって立派な飛行機だからやってやれぬことはない。赤とんぼで我慢するのだ!

 何といふ尊い気持であらうか。
 昼間訓練だけはない。黎明もやる。夜間もやる。旅館に入り、とろとろと一寝入りしたとさ、勇ましい爆音に目が醒めた。窓から顔を出すと、遥か上空に翼灯が走っている。かと思ふと突然キーンといった鋭い爆音に変わると同時に、排気管から火花を吹きながら、殆ど直角に突っ込んで来た。アッと思はず拳を握ったとたんに、ブルンブルンと旅館の屋根をすれすれに飛び去っていった。

 続いて一機、また一機・・・・昼間隊長丁大尉(高知県出身)が「お前たちのやってゐるのを見てゐるとまだ生ぬるい。今夜にも出動命令が下れば、爆弾を抱へて突っ込まなければならないんだ。いまやった訓練が最後になるのだ。さらに一層死力を尽くして技量の練磨に邁進せよ」と激励してゐるのを思ひ出した。



増田、曽根機事故

 昭和20年5月7日の薄暮飛行で、曽根二飛曹は、平田二飛曹の前席で互乗の計器航法訓練に飛び立った。大江山方向より予定のコースを大きく外れ、綾部市の自分の家の上を低空飛行したくなり、後席に見張りを頼んでこれ を実行した。

 続く夜間飛行では、後席に増田少尉同乗で区隊航法訓練に出発。両名はこのまま還らぬ人となった。死の数時間前、違反行為ではあるが郷土訪問飛行をしたこと− 目に見えぬ親子の絆のなせるわざであったのだろうか。これが肉親への別れの挨拶になろうとは、神のみの知り給うところであった。



 20:30、4機編隊で離陸。初めて体験する暗夜の洋上飛行となった。しかも気流が悪く、列機は常に遅れがちで一番機は編隊掌握に腐心していた。増田機は3番機であったが、20:55 に短符連送(我レ発動機不調不時着スルヤモ知レズの規約信号)を繰り返した。編隊は大きくコースを外れ、暗夜洋上の不安定な気流に翻弄され、機位不明のまま編隊は離散してしまった。

 指揮官機は列機と会合しょうと、洋上で不規則な旋回を繰り返したが列機を視認し得ず、単機帰投。増田機を除く他の2機も、それぞれ別個にばらばらに飛行場に帰着しが、短符連送のまま視界から消えた増田機は消息を絶った。



 予定時刻を遥かに過ぎても、増田・曽根機が帰投しないので、飛行作業は中止され、戸梶分隊長操縦、谷川上飛曹同乗の捜索機が発進。増田機に飛行場の位置を知らせるため、滑走路では深照灯を垂直方向に照射。大焚火をして全員不安と焦慮、重苦しい緊張感に包まれて夜空を仰いで待ったが全燃料消費時刻を過ぎても帰投しなかった。分隊長機も手掛かりを掴めないまま帰投。

 翌8日早朝より捜索飛行が洋上を主体に広範囲に行われたが、何物も発見出来ずに捜索は打ち切られた。特攻訓練開始後初めての事故による殉職となった。





飛行機事故続発

その2
 増田、曽根機の事故から僅か1週問の5月14日、同じ夜間区隊編隊航法訓練中、離陸間もなくエンジントラブルと技量未熟による錯覚からか、操縦を誤り山腹に激突。前席で操縦していた鐘築二飛曹は殉職、後席同乗の藤田一飛曹は重傷を負った。

 この事故で藤田一飛曹は大破した機体に手足を挟まれ宙吊りのまま、片手で鐘築二飛曹を励ますこと数時間、鐘築二飛曹は息を引き取った。藤田一飛曹はさらに数時間後早朝に村民に救助された。


 5月17日、第二格納庫において前期3名の合同海軍葬が厳粛に執り行われた。これらの遭難事故のため、「二度あるることは三度」と暗夜の、目標も、上下も分かりにくい夜間の洋上飛行は経験不足の搭乗員にとって、極めて不安な気持が各自の胸に去来したことは事実である。だが緊迫した戦局はそんな気持を持ち続けることを許さなかった。海軍葬が終わるや否や、重苦しい気持を吹き飛ばして再び連日連夜の夜間訓練が強行された。


その3
 遭難事故は更に続き1週問後の5月23日、重村上飛曹操縦、西屋上飛曹同乗の1機が宮津湾頭府中村江尻付近の海上にて、夜間降爆訓練中殉職。



その4
 6月5日には、野村二飛曹と浅谷二飛曹同乗機が、宮津湾内で停泊中の駆逐艦「初霜」(同艦は戦濫大和に随伴して沖縄へ突入を試み、運よく無傷で帰投したばかりであった)を標的艦とする夜間降爆訓練中、近くの海面に自爆殉職した。

その時標的艦「初霜」で事故を目撃した高木中尉の手記が残されている


 昭和20年6月、当時すでに沖縄が落ち、戦力のはとんどを消耗して、もはや、誰もが本土決戦を覚悟していた。そしてわれわれ峯山空の若い生命は、結集して、赤とんぼとはいえ、この九三中練による特攻攻撃で、水際作戦を成功させることに命を躾けていた。

 その日の急降下攻撃訓練を標的艦上から観測するため小関司令、萩野飛行長永野中尉等と「初霜」の艦橋後部の狭い甲板に、照準器、眼鏡、オルジス、搭乗割りなどを準備して待機していた。
 月明かりはあったが、灯火管制中の「初霜」は、視認しにくいことであろう。しかし下からは目標上空で降下姿勢に入る機影はよく視認出来た。

 何回日の降下機であったか、60度の急降下に入り、次第に増速してきたが、軸線が外れて浮いたかに見えた。今に引き起こすかとみるまもなく、爆音が高くなり、なおも突っ込んでくる。起こせないのか、突っ込む気なのか?起こせ、起こせ、と皆の声になった。

 異様な音がかぶさり、艦橋に突入した!と首が縮まったとたん「初霜」の左舷側僅か数メートルの海面にズサッと水しぶきが飛散した。 「初霜」から数条の探照灯が、真っ黒な海面に集まった。そこには一面白い泡立ちがあり、その周囲からあざやかな緑色に変わっていった。



その5
 また7月5日には敵の本土上陸に備えて展開予定の、九州方面の前線基地視察の帰路、単機空路帰投中の寺井中尉機が、峯山空飛行場を指呼の間に見る郷村山中にて、山腹に激突殉職した。立教大学出身、アメリカンフットボール部に所属した好青年であった。



 これら特攻訓練中事故により殉職した八名の若者達の死は、苛酷な戦争の悲劇を物語るものであり、『明日は我が身』 の立場で終始した我々にとっては終生忘れることの出来ない事であり、心から国に殉じた彼等の冥福を祈るものである。

前線への展開


 峯山海軍航空隊特別攻撃隊は飛神隊と命名され、

 昭和20年7月14日まず忠部隊が鹿児島鹿屋基地に向けて発進、

 19日には禮隊、武部隊が、

 27日には義部隊が岩国基地に展開を完了した。



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峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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