京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(6)空襲の記録

7月30日 峯山基地空襲!

 昭和20年6月、沖縄失陥とともに米軍の本土空襲は一層激しくなった。舞鶴軍港と指呼の問にあるが、平和そのものであった中郡一帯。戦火のない基地として百パーセント機能していた峯空もいよいよ慌しくなってきた。

 果たせるかな、7月30日米軍の空母から発進したと思われる艦載機による空襲に見舞われた。当時の状況と隊の雰囲気を、軍医長だった渡辺直寛大尉の日記にみてみる。



渡辺直寛大尉の日記

 7月27日(金)快晴

 最後に残った『峯山海軍航空隊飛神隊義部隊』岩国基地に向け発進す。

 夜11時頃、空襲警報と共に爆音聞こえ、舞鶴方面の空に曳痕見え、高角砲の発射音しきりに聞ゆ。現在主なる都市中、舞鶴は数少ない残された都市であり、且つ軍港である故、必ず来襲することは必至。ただ時間の問題のみ。



 7月30日(月)快晴
 04:30 B29一機上空通過に起こされ、05:45 頃、士官室にて朝食中、突如爆音頭上を飛びさるを聞き屋外に飛び出せば、F6Fらしき戦闘機7機編隊高度1000mにて舞鶴方面に飛び去るを見る。もし、銃撃されておれば士官室の損害多大。我輩等戦死やも知れず。

 直ちに第一警戒配備。その後午前と午後の三回にわたり、敵機約55機の来襲を受けた。飛行場の銃撃、爆撃により九三中練2機炎上、1機大破、二式中練1機小破、木造格納庫小破、戦死三名戦傷六名。飛行場滑走路に250Kg爆弾一発。誘導路畠中に一発。ロケット弾6個。火薬庫(火薬なし)大破。格納庫、兵舎、車庫に、弾痕無数の被害ありたり。概して敵機数に比し被害軽微なり。民間にては河辺国民学校にロケット弾一ケ命中炎上。空襲に遭うは我等南太平洋海戦以来なり。

       (註 渡辺軍医大尉はハワイ海戦以来空母翔鶴乗組み)

 敵機動部隊は本土を去る60哩ばかりにして、延二千数百機来襲。舞鶴、宮津湾に二百数十機、主に工廠、艦船を攻撃せり。日没漸く解除となる。夜B29の大挙来襲を予想せしも来らず。



 7月31日(火)
昨日の敵空襲により比較的平和なりし盆地も一日にして倫安の夢醒め、戦争の苛酷さを痛感せし為か、疎開の荷物運搬する者多しと。


(来襲した米軍機の詳細サイト)

グラマン F6F ヘルキャット(艦載機) 1−2回目来襲
ロッキード Pー38 ライトニング(陸上機) 3回目来襲
ボーイング Bー29 スーパーフォートレス(爆撃機) 偵察のみ

空襲を飛行場で体験した滋賀空派遣隊の予科練習生粕谷飛行兵長の回顧

粕谷飛行兵長の回顧


 誘導路を行進中、警報もなく突如十数機が銃撃と共に突っ込んできた。 溝へ飛び込み、山へ逃げ込んだわれわれは松林にひそんで成り行きを見守った。

 爆弾が滑走路におち、ロケット弾がきれいな糸を引いて格納庫に当たったが、大した威力はない。澄み切った青空にキラリと、白い機体を反転させて再び急降下してくる。高射機銃をバリバリ射っていたが全く当たらない。

河辺国民学校の被爆

学校日誌による空漠の状況と被害状況調べ


 午前五時五十八分空襲警報受領。恰モ村社前二於テ、応召兵出発式ニ、校代表トシテ参列セル高等科児童全員退避二移り、同午前六時〇分完了。

 午前七時二十分校舎二対シ第一回ノ機銃掃射ヲ受ク(児童登校以前)学校長残留職員ヲ督シ謄本並二重要書類ヲ搬出壕内二退避ス。

午前八時五十三分空襲警報受領卜同時二全員退避。五十五分完了。
九時三分警報解除卜共二遠隔ノ大谷部落児童ヲ残シ全員帰宅セシム。

午前九時四十五分空襲警報受領。残留児童全職員壕内二退避ス。
午前九時五十分第二回ノ機銃掃射ヲ受ケ、爆弾二個南側校舎ニ命中、半壊ス。

午後○時四十九分空襲警報受領卜同時二全職員退避中第三回ノ機銃掃射ヲ受ク。

被 害 状 況

 一、教育勅語謄本、青少年学徒二賜リタル勅語謄本異常ナシ(舟山第一奉遷所に奉遷ス)
 二、重要書類異常ナシ。
 三、破壊校舎下ノ如シ。
   イ、初二普通教室(二十坪)半壊ス。
   ロ、初三(同前)。
   ハ、窓硝子戸破壊百三十枚。
 四、死傷者 無シ。
 五、授業継続支障ナキモ現地二於テハ不安困難ナルニ付キ、山間部ニテ地域隊組織二依り授業継続中ナリ。

爆弾投下! 恐怖の追憶

                      手記  嶋 田 T さん

 忘れもしない昭和20年7月30日、恐れていた空襲があった。警戒警報のサイレンも鳴らないので、訓練かなと思っているうちにドカーンという音や、バンパンと銃声がしだし、これは本物だと身仕度をすると、防空壕ならぬ土蔵の中に姑、義妹、隣の家に間借りしておられた航空隊勤務安川兵曹の奥様と共に、当時満一歳の長男を抱いて退避していたが、爆音は去らず、いりまじって銃声がつづき、まったく生きた心地がなく、まかり間違えばと覚悟していた。

 突如耳をつんざく音響と共に、爆風で土蔵が揺れたとたん、壁土が落ちてきて、抱いてうつぶせになっている子供が、音響のたびに飛び上がり、私は必死になっておさえつけていたのを記憶している。

 少し小やみになったので、倉戸をあけてみると、爆弾は私の家の母屋の横の庭に落下して、畳三枚くらいの大きさの穴がぼっかりとあき、隠居がきれいにつぶれてしまい、収穫した玉葱やじゃが芋が、ころころところがっていた。

 母屋づたいにあった私の部屋も、マッチ箱を踏みつぶしたようで、幸い火災にこそならなかったが破壊されてしまった。村葬を前に母屋に祭壇をつくって安置していた夫の写真一枚をいれた白木の箱が、土間に転がっていたのを覚えている。右往左往、村の人達は、それぞれのところに避難すべくひしめいていた。わたくしも子供を背に、両手に食料と着替をもって、寺山の下の航空隊の防空壕にいれてもらった。

 隊員の方が亡くなられ事も聞かされたし、防空壕の入口近くに爆弾が投下され、また、ぱらばらと山土が頭上に落ちてきた。もしここで生き埋めになったらと思うと、姑が梅干しを入れて作ってくれたお握りも、まったく砂をかむ心地がして、のどを通らなかった。


 語りかけ、つづりかければ、数限りないいやな記憶ばかりであるが、あの時、一緒に防空壕におられた兵隊さんは、今もきっとご健在でどこかにおられるだろうと、時折、思うことがある。

 終戦後、間なしに、いまの丹後大宮の駅から、この空襲で亡くなられた兵隊さんのお骨が、肉親の方に抱かれて故郷に無言の帰郷をされた。くしくも同じ車に乗り合わせた私は、英霊に心からご冥福を祈り、黙祷をささげたのである。

 あれから長い年月が経ったが、何事もなかったように一部格納庫や油庫の残骸をとどめているが、余生をつつがなく過ごされることを祈り、戦没者のご冥福をあらためて祈りたい。

     (昭和四十八年、峯空会発行の「青春群像」より抜粋)


(7)基地建設とその規模へ移る


峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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平成18年6月28日作成
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