京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ

TOPに戻る


このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(2)峯山海軍航空隊飛行場の建設史

飛行場建設の必要な時代背景

 日中戦争が始まって、しばらくたった昭和13年の夏頃から、河辺や新町を中心とする峰山盆地の村々で、河辺に飛行場ができるそうだという噂が広がっていった。

 秋の稲刈りが終り、取り入れがすむと、土地の強制買収の交渉があったことが噂され、人々は戦争が身近なものとして迫ってさたことを感じさせられた。買収された飛行場同地は、河辺と新町にまたがる約50町歩の田畑であった。

 多くの田畑をごっそりとり上げられた農家の人たちにとっては、まさに死活問題であったと想うが、「お国のためだ、仕方がない」と買収に応じた。当時の風潮として軍の命令に逆らうことなど、とうてい出来るものではなかった。

 その頃の日本は中国こ侵入し泥沼のような戦争をしていたが、一方、満州国とソ連・外蒙古との間でも、国境をめぐる争いが絶えず、まかり間違えばソ連との間でもいつ戦争が起こるかわからない状態であった。

 そこで、対ソ戦に備え、舞鶴の軍港を守るために戦闘機を中心とした航空基地が舞鶴近辺にどうしても必要になつてきたのである。(栗田にあった航空基地は舞鶴海軍の水上機基地であった。)

 そこで軍は、若狭湾から山陰海岸にかけて、好適地を物色したが、これはと思われるような良い場所はなかなか見つからなかった。初めは弥栄盆地が候補にあがり、いろいろ検討された結果、周囲の地形や風向きがよくないということで、次にあがったのが、峰山盆地の河辺から新町にかけての竹野川南側の約0・5Kmの田んぼであった。

 1年近く、軍関係者による諸調査が行なわれ、昭和14年頃から飛行場建設の準備が始められていった。

 竹野川と大谷川の合流点(現在、中央加工場の建っている西南隅)に、うっそうと大きな木の茂っている新宮権現があった。河辺の人たちから「新宮さん」と呼ばれていた氏神であったが、その社が現在の場所に移されたのもその頃である。


第一期工事

 昭和14年9月22日、第一期工事が始まった。第一期工事は飛行場の敷地造成と大谷川の改修が主な内容であった。

 工事は舞鶴海軍建築部(後、施設部に改名)が担当し、前田技師・長崎技師.大河内技手が監督官であった。工事を請負ったのは、元請は間組、工事を請け負ったのは鳥取県米子市にある菊地組で、河辺の井野建設が引き受け業者となり、工事期間は2年間、総工費は500万円であった。

 造成地は竹野川側から河辺.新町側にかけて勾配が高くなっており、これをならすために河辺.新町側の土が削りとられ、竹野川側の低地へ埋め立てられたが、土が足らず近くの山からも運ばれた。

 大谷川の改修は、川幅を広げて石垣を積み上げ、更に水の流れが急にならないよう4〜5カ所にわたって水止めがつくられた。

 当時は、ダンプカーもブルドーザーも無いので、埋め立てや溝堀りはすべて人力であった。スコップやツルハシで穴が掘られ、モッコやトロッコで土が運ばれていった。また、大谷川に積む石は由良海岸から運ばれた。そのために、多くの工事人夫が必要になり、請負師によって朝鮮人を中心に全国から200人山500人もの人夫が集められた。

 また、近在の青年団や国防婦人会などの勤労奉仕隊、徴用の人たちが毎日入れかわり手伝いに来て突貫工事ですすめられた。舞鶴から借りて来た軍のトラック50台がフル回転で土や石を運び、今まで一等田といわれた美田や桑畑が埋め立てられていき、2t〜10tのローラー車が地ならしをし、昭和16年には南北約 1km、東西約 500mの飛行場の敷地と大谷川の改修が完成した。


第二期工事


 第一期工事に引さ続き、昭和16年から第二期工事が行われた.

 第二期工事は、滑走路の新設と格納庫、誘導路をつくることであった。

 滑走路は飛行機が離着陸するため、地中に何重にも石を敷き、その上にアスファルトで舗装しなければならなかった。地中に大量に敷くための適当な石が峰山盆地にはなく、水戸谷峠の石も試掘 されたが固すぎて掘れず、結局、間人町と竹野村の間にある玄武岩の山が選ばれ、一山150円で買収された。カナテコで岩山をくだき、手渡しでトラックへ積みおろしし、細かくくだきながら敷つめていく作業も大変な作業であった。

 更にその上からアスファルトを流すわけであるが、アスファルトを扱う業者がいなく、遠く茨城県から東亜道路という業者が来て、ドラムカンでくどをつくり、大きなナベをかけ、その中で溶かしたアスファルトを流し、ローラーをかけ滑走路がつくられた。

 最初の計画では長さ 1km、幅 120mの滑走路であったが、工事が遅れて日数がなかったこと、下に敷く石が間に合わなかったこと等から 80m幅の滑走路に変更された。(昭和19年には滑走路の延長工事が行われ、南北に 500m延長されて 1500mの滑走路になった。)


 格納庫は、飛行場の南側に滑走路と並行して建てられた。一番南側に300坪の木造大格納庫が1つ、更に北へ4つの格納庫がつくられた。

 そして、滑走路と格納庫を結ぶ誘導路は50m幅のアスファルト舗装でつくられた。

 滑走路、誘導路以外の敷地にはすべて芝生が植えられ、練習機の離着陸を可能にした。大量の芝生は伯耆の大山から貨車 15輌分が運ばれたのを初め、各地から購入された。その他若干の兵舎と通信基地も建設され飛行場が完成したのである。

(3)峯山海軍航空隊の組織のページに移動


峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



ご注意! 上記ページ内の記事、画像等は、「青春の軌跡」編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します


飛行場付近配置図 大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」より


昭和54年 大宮中学校編 「郷土と太平洋戦争」 から転載



ご注意! 上記ページ内の飛行場付近略図は、「郷土と太平洋戦争」編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します

 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

TOPに戻る


平成18年6月28日作成
inserted by FC2 system