京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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峯山海軍飛行場見聞録
峯山海軍飛行場関連の聞いた話

【宮津空襲で駆逐艦が沈没?】

 若い頃の話であるが、峯山海軍飛行場の空襲の話に関連して、昭和20年7月30日の空襲の日に、宮津も空襲にあい、多大の被害を受けたと聞いたが、

 そのとき、
宮津湾内に舞鶴軍港から避難していた駆逐艦が撃沈された。宮津湾は水深が浅いので沈まず船底が湾底に着き、船の上部が水面に顔を出して戦後もしばらく放置されていた。」

 という話を聞いた記憶があった。私より15歳ほど年上のお方から、「わしも見た」と言う言葉を複数人にわた聞いたことがあった。


今回、この 峯山海軍飛行場跡地のページを編集することになり、Web検索で関連記事があった。

宮津湾空襲の記述サイトより(記事掲載)(−詳しくは 此処を開く ー)
被害の状況
 「初霜」:戦歴に45年7月30日宮津湾で触雷沈没と表現されて居て、壊滅的打撃を受けたものと考えられます。 
 「雪風」:戦歴には小破状態で終戦を迎え、復員作業に従事後、賠償船として中国へ引き渡されたと記述されていますから、決定的なダメージは受けなかった様子です。
 「酒匂」:比較的軽傷で戦後を迎え、復員輸送艦として活躍後米軍に接収され、ビキニ環礁で原爆実験の目標艦として艦歴を閉じました。
 「長鯨」:破壊された艦橋を修復後復員船として活躍し、昭和23年に解体されました。
  関釜連絡船「慶尚丸」:被弾座礁
 人的被害:当日の海軍軍人の被害状況は、合わせて200名を越える戦死者であったと伝えられて居ます。   


なおこの時の空襲でおそらく駆逐艦からの対空砲火と思いますが、米軍機一機が撃墜されています。上記の宮津空襲の記述サイトに記述があります

空襲に襲来した米軍機の撃墜の記録

おなじく宮津湾空襲の記述サイトより(記事掲載)(−詳しくは 此処を開く ー)
この撃墜した1機は、文殊荘別館付近R178の路上へ落ち、道路をえぐり機体も無惨でした。
 文殊荘別館の道路を隔てた側に墓地があり、此処に白木のクロスが立てられてて埋葬されたと、 聞き及びました。
 最近は宮津の杉末から宮津バイパスを通ることが多く、既に朽ちかけたクロスから往時を偲ぶ機 会も少なくなりました。


 上記の墜落場所は間違いが判明しました。墜落場所は宮津側の「一杯水」といわれている国道の上です。


ここに、天橋立に撃墜墜落した艦載機のデータがあります。

米軍損失機リストより(対象記事抜粋)(−詳しくは此処を開くー)
日時 場所 機種 識別 所属 原因 乗員
45/7/30 京都府舞鶴湾 TBM 69326 CVL(空母) INDEPENDENCE 舞鶴軍港空襲中
対空砲火で墜落
3名 KIA
45/7/30 京都府与謝郡吉津村
(現 宮津市)文殊
F4U 宮津湾空襲中、
対空砲火で墜落
1名 KIA

機種「TBM」とは、TBFグラマン艦上攻撃機(ーもう一つの説明サイトー)のGM社製造機種、空母インディペンデンス所属です。
機種{F4U]とは、F4Uコルセア戦闘機(ーもう一つの説明サイトー)

舞鶴軍港空襲の記述サイトより(記事掲載)(−詳しくは此処を開く −)

 海軍の泊地となっていた宮津湾は、7月30日に米艦載機の攻撃を受けた。当時湾内には巡洋艦「酒匂」、駆逐艦「雪風」「初霜」、関釜連絡線「慶尚丸」などが停泊していたが、「慶尚丸」は被弾座礁し、「初霜」も被害を受け百数十人の乗組員が死亡した。また市内にも銃撃が行われ20人余の市民が死亡している    


 上記のように舞鶴空襲でも米軍機が撃墜されています。
昭和20年7月30日(同日)の舞鶴空襲の写真 
 

↑来襲した米軍機より写した1945.7.30am10:39の舞I空襲の様子という。 東舞鶴湾の平湾上空あたりから南向きに写している。昨年亀岡の方が米公文書館で発見されたという大変貴重な写真、




 これによれば、この艦艇は駆逐艦「初霜」である。そして、記事によれば舞鶴軍港、宮津湾とも峯山海軍航空隊の空襲以上の被害を受けていることがわかる。

駆逐艦「初霜」の記事があるサイト ウィキペディア帝国海軍艦艇山田記念病院
駆逐艦「雪風」の記事があるサイト ウィキペディア雪風物語

 これ以外に、わがサイトでも、宮津電話局に勤務されていた奥田Sさんの空襲手記があり宮津空襲についての記述があります。

 平成19年8月20日の 毎日新聞 京都丹後版 に駆逐艦「初霜」の空襲記事が載っていました。
(以下はその新聞記事より一部抜粋)


増田さんが宮津空襲サイトを作成されました。(2012、07)

http://sky.geocities.jp/toyotama2012/index.htm




平成19年8月20日の毎日新聞より
空襲により沈没した駆逐艦「初霜」
(記事掲載)
 昭和20年4月7日、沖縄海域に艦艇特攻作戦で戦艦「大和」、軽巡洋艦、駆逐艦8隻で出撃し、米機群の猛攻をうけて九州沖で沈没したが、作戦中止で帰投した、4隻の駆逐艦の一隻であったという。駆逐艦「雪風」もその一隻であった。その後、舞鶴に置かれ、6月中旬に宮津湾に入った。このとき、峯山海軍航空隊の夜間特攻訓練の標的艦の役目をしていた。

本サイトにこの記述ページあり


 7月30日の空襲当日は、湾外に出て対空戦闘を行うようと「雪風」とともに動き出したが、前日にB−29が飛来し、湾を機雷で封鎖しており、それに触雷し「雪風」は無事だったが「初霜」は大爆発を起した。艦は大損傷を受け、そのまま惰性で航行し、獅子崎の浅瀬に乗り上げたといわれる。


 駆逐艦「初霜」の記事は、このほかに当サイトの

       「宮本作成資料 駆逐艦初霜」(平成20年2月掲載)にも詳しく在ります

        そのなかに『初霜』艦長 酒勾雅三氏の生前談話があります。ご一読ください。

駆逐艦 「初霜」 と 「雪風」について補足(戦艦大和の沖縄特攻出撃)

平成20年3月12日記

 昭和20年7月30日の戦争末期に丹後各地は米軍機によって空襲を受けたわけですが、そのとき、宮津湾に隠匿停泊していた駆逐艦「初霜」と「雪風」は同時に空襲を受け、応戦し、天橋立付近に米軍機を1機撃墜しながらも、狭い宮津湾を出て応戦するべく走行を開始したが、湾口を米軍機によって機雷封鎖されており、蝕雷して大破し座礁した(雪風は無事)。

 5月-6月ごろの隠匿停泊のときは、連日にわたり、峰山海軍航空隊から特攻隊予備軍が赤トンボに乗って飛来し、夜間特攻訓練の標的艦の役割をしていたのは、本サイトの別ページに記述したとおりです。

連日、訓練のため多くの降爆が来飛しました。”もう戦争は終わった”という者と、”今から訓練して行こう”という者との感覚のズレを感じていました。私は”あんな若い人たちを死なせては絶対にいかん”と思っておりました。
上記は『初霜』艦長 酒勾雅三氏の生前談話より

 さてその駆逐艦「初霜」と「雪風」は宮津湾に来る前は、昭和環20年4月7日、帝国海軍最後の作戦といわれる「菊水作戦=戦艦大和の沖縄特攻作戦」に参加して奇跡的に生還した軍艦であるとあります。

 このたび、鹿児島旅行をいたしたとき、その海を見る機会を得ました。

場所は 枕崎市「火之神(ひのかみ)公園」のなかの
平和祈念展望台(戦艦大和殉難鎮魂之碑)
(−説明サイトー) (ー地図を表示ー)



参考

戦艦大和の沖縄特攻出撃について考えるサイト

 Imperial Fleet 最後の出撃 戦艦大和沖縄特攻の疑問に答える

斉藤氏のサイトに

宮津空襲、伊根空襲のサイト(リンクフリー)

 
があります。ご参考までにクリックください。(平成21年7月追記)
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