京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。
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峯山海軍飛行場見聞録 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
峯山海軍飛行場関連の聞いた話 【宮津空襲で駆逐艦が沈没?】 |
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若い頃の話であるが、峯山海軍飛行場の空襲の話に関連して、昭和20年7月30日の空襲の日に、宮津も空襲にあい、多大の被害を受けたと聞いたが、 そのとき、 「宮津湾内に舞鶴軍港から避難していた駆逐艦が撃沈された。宮津湾は水深が浅いので沈まず船底が湾底に着き、船の上部が水面に顔を出して戦後もしばらく放置されていた。」 という話を聞いた記憶があった。私より15歳ほど年上のお方から、「わしも見た」と言う言葉を複数人にわた聞いたことがあった。 今回、この 峯山海軍飛行場跡地のページを編集することになり、Web検索で関連記事があった。
なおこの時の空襲でおそらく駆逐艦からの対空砲火と思いますが、米軍機一機が撃墜されています。上記の宮津空襲の記述サイトに記述があります
ここに、天橋立に撃墜墜落した艦載機のデータがあります。
機種「TBM」とは、TBFグラマン艦上攻撃機(ーもう一つの説明サイトー)のGM社製造機種、空母インディペンデンス所属です。 機種{F4U]とは、F4Uコルセア戦闘機(ーもう一つの説明サイトー)
上記のように舞鶴空襲でも米軍機が撃墜されています。
これによれば、この艦艇は駆逐艦「初霜」である。そして、記事によれば舞鶴軍港、宮津湾とも峯山海軍航空隊の空襲以上の被害を受けていることがわかる。 駆逐艦「初霜」の記事があるサイト ウィキペディア、帝国海軍艦艇、山田記念病院、 これ以外に、わがサイトでも、宮津電話局に勤務されていた奥田Sさんの空襲手記があり宮津空襲についての記述があります。 平成19年8月20日の 毎日新聞 京都丹後版 に駆逐艦「初霜」の空襲記事が載っていました。 (以下はその新聞記事より一部抜粋) 増田さんが宮津空襲サイトを作成されました。(2012、07)
駆逐艦「初霜」の記事は、このほかに当サイトの 「宮本作成資料 駆逐艦初霜」(平成20年2月掲載)にも詳しく在ります そのなかに『初霜』艦長 酒勾雅三氏の生前談話があります。ご一読ください。 |
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駆逐艦 「初霜」 と 「雪風」について補足(戦艦大和の沖縄特攻出撃) 平成20年3月12日記 |
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昭和20年7月30日の戦争末期に丹後各地は米軍機によって空襲を受けたわけですが、そのとき、宮津湾に隠匿停泊していた駆逐艦「初霜」と「雪風」は同時に空襲を受け、応戦し、天橋立付近に米軍機を1機撃墜しながらも、狭い宮津湾を出て応戦するべく走行を開始したが、湾口を米軍機によって機雷封鎖されており、蝕雷して大破し座礁した(雪風は無事)。 5月-6月ごろの隠匿停泊のときは、連日にわたり、峰山海軍航空隊から特攻隊予備軍が赤トンボに乗って飛来し、夜間特攻訓練の標的艦の役割をしていたのは、本サイトの別ページに記述したとおりです。
さてその駆逐艦「初霜」と「雪風」は宮津湾に来る前は、昭和環20年4月7日、帝国海軍最後の作戦といわれる「菊水作戦=戦艦大和の沖縄特攻作戦」に参加して奇跡的に生還した軍艦であるとあります。 このたび、鹿児島旅行をいたしたとき、その海を見る機会を得ました。 場所は 枕崎市「火之神(ひのかみ)公園」のなかの 「平和祈念展望台(戦艦大和殉難鎮魂之碑)」(−説明サイトー) (ー地図を表示ー) 参考 |
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斉藤氏のサイトに 「宮津空襲、伊根空襲のサイト」(リンクフリー) があります。ご参考までにクリックください。(平成21年7月追記) |
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峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物 保存運動を! |
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