京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(1)はじめに 峯空園の赤トンボ

峯空園の赤トンボ


 平成2年11月8日。峯空一園のお世話を願っている多治見さんの病気見舞をかねて、絶好のドライブ日和に恵まれた晩秋の丹波路を京都から藤村君と二人で『峯空園』に走り込む。

 着いて見て驚いたことには公園は子ども達で一ばいだ。なにごとかと尋ねたら、近くの新山保育園から初めて保母さんに引率されて遊びに来ている園児たちだった。

 「誰にも断らずに勝手に入ってすみません」と謝られ目をしろくろ。

 どうぞどうぞと我ながら分かったような、分からないような返事に戸惑いながら、我々の立場を説明する。彼女たちがどのように理解してくれたか分からなかったが、それはそれとしてもう手放しで喜びを感じた。長い間夢にまで待ち望んでいた姿が今目の前にある。



 記念碑によじのぼる園児達、敷物の上に寝転がる子ども達、花を摘む女の子。ふと見ると何人かの子ども達が、小さな帽子で赤トンボを追いかけている。よしきた、ここは私の腕の見せどころ、トンボのつかみどりは私のとっておきの技なのだ。右手の人差し指をくるくる回しながら、そっと前方から近づき、トンボの目の玉の動きに合わせてサッとひと振り。トンボは見事に右手の中に捕らえられている。案の定それを見た園児達は、もっと捕ってもっと捕ってとついて来る。よっしやよっしやと得意になってたらきりがない。

 今の子ども達は捕らえたトンボをビニール袋に入れるか虫寵に入れるかしか知らない。そこで羽を折って指と指の間に足を外向きにして二、三匹挟んで見せる。トンボは盛んに足を動かし、ちょっと触るとぐにやぐにやと異様なタッチで絡んでくる。その感触がぞっとするような気味悪い感じなのか、新鮮な感じなのか、キャッキャッと喜ぶ子や逃げ同る子もあってテンヤワンヤ。



 思い起こせば50年前、飛行場だったこの場所を基地として、当時赤トンボと呼ばれた飛行機(九三式陸上中間練習機)に250Kgの爆弾を積み、敵艦に対し必死必殺の体当たりをする訓練をした。

 それは敗戦の色濃い祖国に殉ずるという、純粋な気持ちでの連日連夜の命がけの飛行訓練であった。果たせるかな無理な訓練の結果飛行事故が続発し多くの若者の貴い生命が失われた。


 又終戦も間近い7月30日には米軍機に空襲され、飛行場において戦死者をだすとともに、学校その他の民間施設にも被害を受けた。



 今では地元の方でさえも、この地に飛行場があったことをご存じでない方も多いと思はれる。

 それで私達の青春の軌跡として、又当時ご厄介になった地元の方々に対する感謝の気持を表すしるしとして、丹後織物工業組合様のご理解を得てこの小公園を造成した。

 昭和五51年全国各地におられる元隊員達から、呼び掛けに応じて多く方々が基金を寄せてくれた。桜の木を植え、当時海軍が作ったマンホールを記念塔とし、四国から記念碑の青右を取り寄せて『峯空園』と彫り込んで、開園にこぎつけた。

 それから早くも20年近くの歳月が流れた。風雪に耐え、雑草の猛威との戦いの連続には、地元の数多くの人々の並々ならぬご奉仕、ご支援があり、ようやく憩いの場としての条件が整って来た。



 今日ここで園児の皆さんの楽しそうに遊んでいる姿を見て、本当に良かった。平和のシンボルとしての我々の祈念がかなったのだ。その喜びを元隊員建と共に分かち合いたいと痛感した。

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峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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