京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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平成27年1月6日 

京都新聞の丹後・中丹版の
戦後70年証言記事


タイトル  

あのときここで 「戦後70年 府北部の証言」

C峯山海軍航空基地
 平成27年1月6日、京都新聞の戦後70年特集記事に4番目として掲載されました。私の知る限りでは昨年9月の毎日新聞記事以来です。
  記事を本HPに掲載して保存いたします(京都新聞社からは取材は受けておりません。)



本記事では、京丹後市弥栄町の峯空特攻隊生き残りでいらっしゃる
小林昭三さんが取材をうけていらっしゃります。

貴重な格納庫内部の写真が掲載されていました。


昨年9月の毎日新聞記事および小林さん訪問記事


布張りの複葉機 特攻訓練に明け暮れ


‐‐‐「やった。あがったぞ」 青い空に「赤とんぼ」が舞った。

 1944年夏。京丹後市大宮町河辺から同市峰山町新町にかけて、かつてあった峯山海軍航空基地。
元府丹後教育局長の小林昭三さん(87)=京丹後市弥栄町溝谷=は「赤とんぼ」と呼ばれたオレンジ色の布張りの複葉機(九三式中間練習機)で飛行訓練に明け暮れていた。

 海軍はマリアナ沖海戦などで空母と飛行機を失い各地から丹後半島に練習生を集め、パイロットの養成を急いだ。

  「地域の方が先に入隊され、自分も飛行機乗りになりたいと思った。勝手に決めたが、両親は何も言いませんでした」
 軍隊に入ることが当然の雰囲気があった。

 小林さんは、宮津中(現宮津高)の4年の時に志願、43年10月に美保海軍航空隊(鳥取県境港市)に入隊し翌年7月に峯山海軍航空隊に配属された。

  「後ろの席の教官に怒られるので、うれしくても声は出せない。脇見もできなかったが、高度を上げていくと気持ちが良かった」
 訓練は厳しく、基地から2キロ余り離れた宿舎の織物工場との往復は駆け足。
  「一人がミスをすると総員罰直(罰則)で分隊約50人全員が、丸太ん棒で尻を何度も殴られ飛行場を走らされた。尻は青黒く腫れたが、慣れて、ほかの罰直より楽になった」



 毎日のように飛んでくる赤とんぼは、子どもたちの憧れの存在だったが、岡田節子さん(85)=京丹後市丹後町間人=は44年4月3日の惨劇を忘れない。

  「自宅近くの道で、上空を旋回する赤とんぼを見上げていたら、異変に気づいた。背後から真っすぐ頭上に迫ってきて、頭を抱えしゃがみ込んだ」
 赤とんぼは、轟音を立てて民家の庭に突っ込み、あおむけに墜落した。前席の少年兵は意識が混濁し、「上官殿、上官殿」とつぶやいていた。後部座席の教官は死亡していた。
  「機体の破れた布がはためいていた。竹ひごの模型飛行機と同じ。これで人が飛ぶのかと。解体してトラックに積まれた姿は、薪のようでした」
 岡田さんは自宅の窓から、赤とんぼが迫ってきた方向を指さした。


 45年になると、航空隊の隊員たちは特攻要員となり小林さんも選抜された。宮津湾で急降下の訓練が繰り返され、事故も起こった。
  「自分も死ぬのは当たり前」
 特攻に備えて向かった出撃基地の可部(広島県)で 「玉音放送」を聞いた。



 戦後、飛行場跡地には公園が造成され、春になると、植樹された桜が花を咲かせる。近くにはショッピングセンターが建てられ、ひっそりとした遺構と対照的なにぎわいをみせている。

      (佐々木伸次)


 峯山海軍航空基地

 対ソ連戦に備え、日本海に面した軍事拠点の舞鶴を守るため、全長1・5キロの滑走路
などを整備、1944年に完成した。約3千人が訓練、1OO機以上の「赤とんぼ」があったとされる。
 格納庫や弾薬庫、燃料倉庫などの遺構が残り、専門家が保存を求めている。格納庫を倉庫として所有する吉村機業の吉村孝道社長(74)は「内部に柱が一本もなく織機が自由に置けて使いやすかった」と懐かしむ。






 
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  峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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