京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

このページは、 『峯空会』会員で特攻隊隊員であられた
小林昭三氏への訪問記です。

小林昭三氏は峯空会の会員さんでもあり、特攻隊の隊員でもあります。
京丹後市の当地に健康で現存されていることを下の新聞記事で初めて知りました。

2014年10月にコンタクトを取り、訪問することが出来ました。

 ●新聞に出ました。

2014年9月、毎日新聞朝刊の丹後・丹波版に画像の記事が出ました。
このとき初めて私は丹後に峯空会の会員さんで特攻隊の隊員さんが丹後に現存されていることを知りました。


●訪問記


10月9日 22:08 ·

 今日はこのまえ峯山海軍航空隊の特攻隊の生き残りでいらっしゃる小林さんを訪問することが出来ました。

 戦後教育行政畑を多年に勤務されて今は夫婦とも元気で悠々自適の老後を送っていらっしゃいました。戦時中の思い出を伺うことが出来ました。()は私の注釈です。

 
 戦時中の教育で日本がアメリカに負ける、ということはなく必ず勝つと思ってきた、戦争の中ごろからはちょっとおかしいな、と思うようになった。入隊は志願兵だった。第一は飛行機乗りになりたかったこと。親は志願に反対であった。飛行機乗りになってからは、死ぬことと思っていた。そのための訓練であった。

 雪をさけて福岡の飛行場に移動して訓練したがそこで特攻隊が編成された。特攻隊になってからはすべてが突っこむ訓練に変わった。特攻隊にもれた隊員が割腹自殺した話は知らない。昭和20年3月に峯山に復帰したときは一隊が季節風に煽られて滋賀県の山中まで流されて墜落したが、自分らは無事帰れた。アルコール燃料は力が無くガソリンと比べて不安定だったが飛行中にエンストするということは無かった。

 宮津湾の駆逐艦初霜への降下訓練のとき、一隊4機の組で4番機であったが先頭の教官の乗った1番機が引き起こしが遅れて海に突っ込んで死んだが、飛行場に帰ってからそれを知った。この布張りの今の新幹線より遅い木製飛行機で250Kg爆弾を下げれば速度も運動も上がらず、あとから思えば勝てるものではなかった。(小町定氏は赤とんぼが何機いようと1機のグラマンが襲い掛かれば順番に1機づつすべて落とすと証言しています)

 岩国に展開し、朝食前に原爆を体験した。きのこ雲も見た。2日後に岩国から可部に移動するとき広島を通過した。あの体験がいちばんすごかった。広島の惨状はすごいものだった。被爆した。

 玉音放送のあと、一番感じたことは「これで家に帰れそうだ」と思ったことだった。可部飛行場から赤とんぼで遊覧飛行みたいに海岸沿いに峯空に帰った。

 戦後は確かに価値観の転換があった。最近の日本の雰囲気は「危ない」と思う。

 最後に飛行機の操縦はどうかと問うてみました。
 
 ある程度慣れれば赤とんぼは難しくない。戦後自動車運転を習ったが、自動車のほうが難しい、とそのころ言っていました、なぜなら、自動車にはバックもある。

 着陸は海軍は3点着陸である。(定点着陸、空母想定というやつ) 陸軍はすーと走りながら前輪だけの2点着陸である。着陸に失敗して飛行機の足を1本折ったことがある。

 罰直(体罰)は日常のこと。たたかれて尻は青くなり、赤くなり、あと慣れて尻の皮が厚くなる。いちばん苦しかったのは夏の炎天下のアスファルトの滑走路で腕立て伏せをやらせられること。手はやけどするし息が出来なくなる。



作成 平成26年10月19日

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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!


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