京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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峰山海軍飛行場見聞録 付録

【 戦いの翳  (ー銃後・戦後の部ー)】

ーこれは2019年5月 フィリピンの(第一次バターン攻略戦でジャングルでの戦争で熾烈な米軍と交戦し肩部損傷で搬送され幸運にも生還された我が地区の現在生存されている戦争体験者が手記を残されています。
それを読ましていただき、その一部を許可を得て貼り付けます。内容はフィリピンでの熾烈な戦闘の部分では無くは無く丹後へ復員されてからの部分です。峯山海軍航空隊の空襲記事もあります。戦時中、戦後の暮らしもありますー

   我が地区に現存されている戦争体験者 T氏 の手記より。               

銃  後


 緒戦の勝利に酔っているうちに米軍の大反攻が始まり、日本軍は各戦線に於いて圧迫される状況となってきた。 即中国大陸のみならず、ラオス、タイ、ビルマ果てはインドまでを窺い、フィリピン、マレーシア、ニューギニアと伸びきった戦線に補給も絶え、各所で地獄図の戦闘を強い、北方でアッツ、南方でもトラック、グアム、サイパンと次々に玉砕し、海軍亦ミッドウエイ、ソロモン、レイテ沖と敗戦を続けるが、軍部・政府は国民に詳細な実情を報せず士気高揚の報道を繰り返す。


 村でも出征兵士の歓送が頻繁に繰り返され出征と徴用で壮丁の姿は見られなくなる。学徒出陣学徒動員が相次ぎ、女子挺身隊も組織され軍需工場へ。

 「欲しがりません勝つまでは=ぜいたくは敵だ=」「一億火の玉」などのポスターが町に村に氾濫する。 この様な状況に至ると男子は村に留まるのが何か非国民と謗られているかのように卑下し召集を待ち望んだり海軍工廠などへ行<。 非軍需産業従事者は逐次徴用令を受け、出村して行<。ガソリン代用とかで松の根を掘って松根油を作ったりする。

 或る記録では、当時日本の総人口8千余万人、総人口の16.8%召集を受け、20〜40才男子では61%に達したと。

 生産高も米80%、味噌・醤油50%、綿布・肉・魚何れも20%、地下足袋10%、紙8%、石鹸4%、油・砂糖・革靴0%とあり、この数字が示すように国民生活は極度に窮迫し、菓子等はるかの昔に姿を消し、ショーウインドーは埃に埋まっている。

 農家の水田も一毎に詳細な現況調査がなされ、地方等級を設定、反収予定量を策定して一定量の農家保有米を認めて全員供出さす。 篤農家で予定量以上の収穫があれば何かの余剰米が得られるが、目標額に達しない農家や地力等級設定が不当である場合は保有米も確保できない。 農業に欠く事の出来ない肥料は農家組合などを通じて配給になるが最低必要量にも遠く及ばない。 政府は増産増産と叫べども減産の一途をたどり、私達の村のような耕地整理田は不利でついには政府割り当てが達成できず農家保有米を供出して配給を受けるという苛酷状態に追い込まれて担当職員が農家の面罵を受けるに至る。 配給は一人一日成人で2合1勺で食生活の貧困な当時耐え得られる量ではなかった。 配給米は二分づきで玄米に等しくうす暗い電灯の下で一升瓶に米を入れ木の棒で突っついて白<するのがどこの家庭でも見られた。それが日課であった。 庶民は皆誰もがいつも腹を空かせていた。魚・煙草が時折配給になると皆眼の色を変えて内心配分方法を謗る。

 丹後ちりめんも開戦間もな<七、七禁止令で遍塞し、それを期に廃業した人もあり、残った人も六和組合、八紘組合など統合し絹地などを織り、女子従業員の中には西脇、加古川へ勤労動員で出向く人もある。



 サイパン失陥以来敵機来襲の頻度が増し、警戒警報、空襲警報のサイレンが頻繁に鳴り胸をしめっけ、灯火統制は厳重を極め毎夜暗い夜をすごす。 硝子窓には飛散防止のため細く切った紙を図案を凝らして貼る。 家の白壁は月光を反射するとて黒<塗り潰される。敵機もB24よりはるかに大きいB29が高々度を白い飛行機雲を引きながら来襲するが日本の高射砲弾も届かず、戦闘機もその高度まで昇れぬとかで無人の野を行<が如く跳梁を恣にしている。 私達田舎の村でも空襲に備えて共同防空壕を白杉本店裏山より薬師堂裏まで本丸山を横切る設計で掘削にかかリ素人工事ながら見事に完成、又緊急に備えて個人待避壕を松畷の寝た松の陰に掘る。その松は今は無い。 日中は勿論夜も巻脚絆で眠る生活である。


 内閣も東條から小磯・鈴木と目まぐるし<変わり、戦況も小笠原諸島の硫黄島が玉砕して身体の一部に敵の手が届いた感じ。 各地に縁故疎開やいたいけな子供の学童疎開が行われる。本土防衛に備えて国土防衛隊が組織され中郡部隊隊長に中郡在郷軍人会分会長である川村準示砲兵少尉、他に2〜3の百姓のオッサン商店のダンナ連が白紙召集を受け、峰山女学校の一部を兵舎に何日間かずつ繰り返し訓練を受ける。 服装は個人の国民服や作業服、兵器?竹槍……。 表門立哨の兵隊「オ一イオーイ」と大声に何だと問うと「小便だ代わってくれ」

 敵上陸に備えて陣地構築とかで網野町下岡へ自転車で…だが、資材も何も来ず連絡もないまま一日ブラブラして帰る。 冬にもこんな無駄が繰り返された。弁当持参で河辺飛行場へ除雪に出動、降リしきる雪の中で作業しても一夜で元通り積もる。 こんな雪の中飛行機飛べる筈もあるまいに……。

 金属の供出も盛んに行われ鉄屑は元よりせんとく火鉢うすばた等山積破砕され各寺院の鐘も供出になり、鐘楼の鐘の姿は見られなくなる。 戦況はますます急迫し福知山元20聯隊営内にある20聯隊戦没将兵の霊が祀られる靖国神社の英霊分骨遺族に返還奉祀願う旨連絡に接し伝達場所である峰山町役場へ自転車で出向く。 この頃自転車は貴重品部品などがないので空気入れポンプを携帯していなければ乗れなかった。 指定の時刻になっても軍関係の人も遺族の方も見えない。役場の人の話に汽車が不通とのことであったが…。


(空襲、飛行場部分の記述)


 けたたましい空襲警報のサイレンが鳴り響<が毎度の事なので無関心に二階の窓から南の方を見ていると、はるか遠くに豆粒の様な黒点が変に散らばっている。 何だろうと見ているとぐんぐん大きくなり 「アッ」 敵の飛行機と気付いたとき空一面に蜂の巣を突いた様にグラマンと双胴のロッキードが乱舞する。 機首を此方に向けたときは機銃弾が尾を引いて飛んでくるかと緊張するが、幸い弾丸は飛んで来ず、胴体を見せて舞い上がり飛び去る。 こんな多<の飛行機を見るのは初めてだ。 舞鶴と河辺飛行場が攻撃の標的らしい。 乱舞する飛行機に対して、日本軍の高射砲陣地から見事な弾幕を張るが実効は少なく三機が白煙を噴<のを視認した。 宮津街道犬の堂付近に発動機の一部らしいものが長い間放置になっていた。 日本機の迎撃もな<、敵機の銃撃が恣にしていた。

 河辺飛行場は昭和17年頃完成した小さな飛行場で美保航空隊所属とか、赤とんぼと呼ぶ練習機で訓練を受けており、飛行中の機上で大きな声で怒鳴られているのが地上までよ<聞こえた。 此処で訓練を受けた何人かは特攻機で還らぬ攻撃に出たと聞く。 この部隊とは別に町ロ部隊と呼ぶ施設部隊がソワから今市にかけて仮兵舎を設へ、飛行機の待避壕や入道峠などに横穴壕を掘削していたが完成を待たずに終戦となる。




 広島・長崎に原爆が役下され街が殲滅したのも沖繩の悲惨な状況も判らず東京・大阪・名古屋を始め大都市が焼け野原と化している実態も報されず新聞記事の裏側を洞察する能力もないままに日々の窮屈な暮らしも当然な事で人並みだと思って生活する。



 8月15日暑い日だった。 近所に葬式があって何か重大な放送があるらしいと伝わる。 近所でラジオが聞けるのは松村理髪店、何の事かと軒先で聞くが雑音ばかりで聞き取れない。 意にも止めずにいると午後になって戦争が終わったらしい降伏したらしいと伝わる。 戦後になって、敗戦は予知できたという人もいられるが私には負けるとは思いたくな<、勝つとも判らず要するに判断能力はなかった。 一般の民衆はそうであった。

 戦費調達で戦時国債が半強制的に個人に割り当てられて多額の国債債権を持っている人もあったが敗戦で反古紙となる。

 加悦谷平野を流れ阿蘇海に注ぐ野田川尻に粗末な建物の捕虜収容所があった。 彼らは戦時重要物資であるニッケルの採掘に大江山鉱山への労役にかり出されていた。 庶民皆が物資乏し<食に飢え生きるのがやっとの状態である。 収容所内の様子も想像に難くない。 又捕虜という言葉に対する歪んだ感覚の相違もあろうが、彼らにすれば虐待以外のなにものでもなかったかも…栄養失調と過労で斃れた人も多く……。


 終戦と同時に境遇逆転して彼等は戦勝国となり、救援物資が空輸投下され、又身の安全も保証となり、日本人に対する態度一変とか。 この収容所でかつて苦難の日々を送られた英人エバンスさん、40余年を経たある日機会を得られて来日され加悦町と大江山鉱業所の協力を得られて鉱山跡である町民グラウンドの一角に立派な御影石の慰霊碑を建立され除幕式に訪町されると紙上に報道になる。

 8月15日を境にして心胆を寒からしめた連日連夜の警報サイレンからは解放になったが、今度は外
国権カ者が君臨していかにして生きていくべきかが重大な問題となる。進駐軍は「日本の苦境は日本
国自らの行為の直接の結果にして連合国はその蒙りたる損害復旧の負担を受けざるべじ」と発表して日本経済自力更生を指示、飢餓による生死の境におかれた日本国民は尚その上に進駐軍80万
人の占領費と賠償費が加重になったのだった。 昭和20年8月鈴木内閣に代わり東久邇宮稔彦内閣、10月幣原内閣、そして吉田(一次)、片山と代わってい<。



 8月14日最後の御前会議でポツダム宣言受諾が決定になり、無条件降伏が確定となるや翌15日阿南陸相、特攻隊生みの親と云われる大西軍全部次長が自決、9月に入って進駐軍より戦争犯罪者第一弾として東條内閣当時の閣僚39人に逮捕状が出され小泉厚相・橋田文相自決、又、杉山元元帥夫妻、本間第14軍司令官の後任でもあリ終戦時東部軍司令官であった日中静壱大将、近衛文麿公何れも自決、8月から10月にかけて陸海軍の将校、参謀クラスの軍人34名自決されると
 
一ーー開戦時に首相、陸相、戦陣訓の訓令者、生きて虜囚の辱めを受けず云々の権力を翳し全軍を叱咤した陸軍大将東條英機は未遂ーーー。

 戦争犯罪者はABC等とランクされ戦争遂行指導者、現地部隊指揮官、捕虜収容所長或いは現地の一兵士に至るまで広範囲に亙り、中には無実の断罪を受けし人もあると聞く。 勝てば官軍負ければ賊軍の思想は洋の東西を問わぬらしい。



戦  後



 戦争に敗けると男達は何処かへ連れて行かれて重労働使役させられるとか、大和民族絶滅のために去勢されるとか様々な噂があったがそれは噂だけにとどまったけれども、ある日小学校和裁室で峰山警察署長の話があるとて出掛ける。 いろいろ話されたが要旨は戦争完遂に協力してきたがこのような結果になって治安維持も難しい面もあり、絶対権力者である米軍が進駐してきて横浜などでは婦女暴行など不祥事が頻発しているが警察力の及ばない事情もあリ自分の身は自分で護ってほしいとの話に敗戦の実感を強<する。

 辺鄙な山村では都市の様なトラブルはないが相変わらず空腹の毎日である。小学校のグラウンドも耕して甘藷蔓などを挿すが収穫は無に等しい。 食糧事情は極度に窮迫して零細農家ではムシコと云う木の若葉などを栄養価など皆無だがただ食えるというだけの代物を飯が黒<なる程混入して常食とする。 農家でもこうだから都市などでは想像に絶する食糧事情で遅配欠配が続き闇行為を拒否し政府の規制を志実に守った教授か判事かが餓死したニュースを聞く。 取り締まりの目を盗んででも闇行為をしなければ生きていけなかった。 都会の人が焼け残った衣類を食物と交換になるのは普通の事で悲惨な話なども聞く。


 大根の泥だらけの汚い下葉、青葉はもちろん食べるが食用にならない朽葉は肥料にするより利用法がな<縄に絡んで軒下に干してあったのを年配の女の人が「下さい」と頭を下げられる。 牛も食わないこんな物をと気の毒に思ったが他に上げられる物は何もなかった。

 物資も底をつき地下足袋は勿論作業着から石鹸タオルなど日用品も手に入らず然し物資がなければそれを掘り起こして金儲けする人も現れる。 戦中一日本人として努めてこられた韓国の人たち終戦と共に第三国人として何処からかいろいろの品物を動かして金回りがよさそう。 日本人も闇ブローカーとして品物を動かし巨富を得し人有りと噂に聞く。

 空襲で愛児を亡<した人、家も両親もなくした孤児達、膨大な数であるとか、外征の将兵南方から中国から、ソ達抑留の人はずっと遅れて何れも傷心の身で祖国の土を踏む。 軍人軍属は元より満蒙開拓の人びと、外地在留の方々、筆舌に尽<せぬ難難辛苦の行路、悲話限りなし。 引き揚げ港も横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島、舞鶴の各港で、舞鶴だけでも昭和21年12月8日第一船後中断24年から再開、最終は33年9月で延べ426隻、人員は664、531人遺骨16、296柱と記される。



 それにつけても特攻機を飛び立たせ部下を死に進いやり自らは内地に逃げ帰った高級将官とか、敗戦の責任を部下が弱兵で頼りにならずと囁く将軍、自らは後方で徒に進め進めと叱咤した参謀などと噂に聞くたび、憤懣やるかたない想いがする。

 終戦後何ケ月か経て峰山小学校で木村惇知事の話があるとて出掛ける。細目はさておきロ大野の高橋志賀婦人会長が発言を求めて、「台所を預かる主婦として食料状況極度の困窮を訴え米の代替えに甘藷が配給になるが甘藷の主食扱いは問題である、主食には米が配給して欲しい」と訴える。 米軍将校通訳より聞き終わり「おいも大いに結構食べなさい」

 日が経つにつれて沖縄の悲惨な戦いや広島・長崎の原爆の話も伝わリ長崎で被爆した永井博士が原爆症で死没、愛児に託した遺言が読者の涙を誘う。


 汽車に来るのも決死? 窓から乗り込むのが常、車内は超満員で身動きも出来ない。客車の屋根や炭水車に乗り死者まで出る。車内は荒れ放題で椅子のシートは切り取られて板骨露出して網棚の網はボロボロで垂れ下がり敗戦国の列車に相応しい。

 京都市内には進駐軍、米軍の白人兵や黒人兵・中国兵などがボディに美人ヌードなど画かれたジープで走り回る。道端にシチュー有りの看板、覗いてみると葉っぱが4、5枚浮いた塩汁、それに人が列をなしている。

 終戦で膨大な軍需物資は軍需財閥と政治家の手中とか…。多額の軍事費が不必要となった兵器未納のまま軍需産業に先渡しで支払われたとかー--一真っ先に街に現れたのは鍋釜だった。

 昭和21年2月金融緊急措置令に依って旧札は封鎖になり新円が発行され貨幣流通が制約され物々交換が一般化する反面、闇市が大繁盛し閥成金、新円成金などの言葉がきかれる。

 4月には婦人参政権が認められて第一回の総選挙が行われて新しい制度による婦人を含む新代議士が誕生する。

 21年は食料窮迫が頂点に達し、米寄越せ運動が活発になり全国的拡がりを見せるに至り総司令部は切迫した食糧危機に対処するため小麦粉を放出する。 「朕はたら腹食っている。汝臣民飢えて死ね。」とのプラカード事件が発生したのもこの頃のことである。

 米の収穫量57%の減に生産意欲の向上を図るため21年2月第一次農地改革が試案されたが不十分なりと総司令部に指摘され、又このまま推移すると農民層の左傾化を懸念するとの見地から総司令部の勧告があり6月第二次農地改革が立案になり22年3月実施。 従来小作農は収穫量の約半分を年貢として地主に納入する習わしであったが一転して自作農となり営農形態一変する。


 記録によると

 終戦時兵員  出征 330万人  本土動員 370万人
 
 引き揚げ総概数   536万人
(満州地区民間人)  100万人  推定死亡 50万人

 戦災被都市     119  住宅 225万戸  1000万人

 戦争による人的損失
        ソ連      2000万人
        中国      1000万人〜1500万人
        ペトナム    200万人
        インドネシア  200万人
        フィリピン   1000万人

        日本  軍人 230万人 民間人 100万人



 昭和55年、私は眼を患って京都府立病院へ通う。病院で診察検査のため薬を眼に注入され瞳孔拡大の状態で帰途につき、京都駅待合室で視力がかすんで弱<難儀なので頭をかかえこんでいると、見知らぬ人が「どうされました、胃の具合でも悪いんですか」と問われ。 「いいえ目が悪いんです」と云うと「そうですか、お大事に 私は胃が悪いんです。 ところで貴方兵役は」「はい、短い間ですがフィリピンに行っていました」それから、彼は問わず語りに「僕は海軍でした。ご存じだろうけど昔は300円納めて少尉になれる制度がありました。 僕はそのロです。」 と云われる。

 一見してそんな年配に見えないし軍の組織制度も知らないがその人の云われるには、「入隊したときは艦隊勤務でいろいろとあって、その後航空隊へ、そして、クラーク基地にいて部下を特攻機として飛び立たせていたが、飛行機で内地へ飛ぶ事になり、その時参謀将校が強引に乗り込み、小型機のため非常に危険な飛行を強いられた。 参謀将校のー切の責務を放棄して権力を笠に無理強いする態度に反感を覚え、それからは少佐、中佐クラスの人を見ると虫酸がはしる。


 僕は胃がんで医者より2、3ヶ月の命と云われている。 ずっと心の底に沈んでいる特攻に飛び立った彼等にもう暫<して逢えると思うと却って心が軽く、間もな<死ぬんだと思うと街の景色も目新しく感じ、駅にもよ<来て人の流れを眺めるんです。 洋上に飛び立った部下に香華をたむける事も出来ずあの世とかでの再会を楽しみにしているんです。」 としみじみ話される。

 「私も機会があって戦友の慰霊に2回フィリピンに行きました。」 と云うと、「それはよい事をされました。 僕からも礼を云います。」 と、突然膝をついて人目も憚らず頭を下げられる。 特攻に飛び立たせたにもせよ彼の罪でもなかろうけれども悩んでいられる人もある。



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