京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

TOPに戻る

補足資料 前川資料より転載(4) 太平洋戦争の終戦

、戦争終結の詔書(ポツダム宣言受諾・無条件降伏)・H8.3.10記


 昭和20年8月14日、連合国が示した『ポツタム宣言』を受諾し戦争は終結した。

 同日、天皇陛下は国民に対し詔書を公布。自ら詔書の全文を録音し、翌15日ラジオ放送を通じて示された。

 天皇陛下は勿論、皇室の方々のお顔を拝し、声を聞くことなどほんの一部の人。「天皇陛下」と聞いただけで両足を揃え『気を付け』の姿勢をとった時代のこと、全国民は感激し玉音放送聞いたと思う。

 出所を明らかに出来ないが戦争終結の詔書コピーを入手した。
内閣の記名入罫紙に墨書され、陛下の御名・徹璽があり、続いて内閣総理大臣及び各大臣の連署もあり、間違いなく詔書原本がコピーされたものだと確信している。



 ポツダム宣言とは、さきの第二次世界大戦の末期、昭和20年7月26日、ベルリン郊外ポツダム市で発表された、日本の戦争終結条件を示した戦勝国・アメリカ、イギリス、中国の三か国首脳宣言。

 その後、ソ連も参戦し戦勝国に加わった。


 内容は、軍国主義権力と勢力の永久除去、完全武装解除と一時的な占領、戦争犯罪人の厳罰、基本的人権尊重を根幹とした民主国家の樹立、主権は本州・九州・四国・北海道に局限するなど13項目を即時受諾し無条件降伏を要求したものである。



 ときの総理・鈴木貫太郎は「宣言は黙殺する」と発表したが、8月8日にソ連が不可侵条約を一方的に破棄して対日宣戦布告した。広島・長崎に原子爆挙が投下される。

 8月9日最高戦争指導者会譲で、ポツダム宣言受諾を主張する外務大臣と、徹底抗戦主張の陸軍が対立、総理は和平派に立ち、宣言受諾は保留し陛下の御裁可を仰いだ。



 八月14日の御前会議で陛下は

 「自分はいかになろうとも万民の生命は助けたい、少しでも種が残れば復興も考えられる。」

と戦争終結を決断され、ポツダム宣言の受諾を打電し日本は連合国に無条件降伏し、陛下のお言葉どおり現在の繁栄を見ている。 詔書には、括弧を開いて文字の挿入するなど決断までのご苦悩がうかがえる。




 ★参考に追記=半藤一利 『聖断天皇と鈴木貫太郎』参照



@ 8月14日午前11時、宮中・地下防空壕で開かれた御前会議において 天皇陛下の決断により終戦が決定した。
 本土決戦を主張の阿南陸軍大臣 も詔書に副書した後、鈴木総理大臣のもとを訪れ、葉巻を賜り静かに去 り『一死を以って大罪を謝し奉る』との遺書を残して自決した。


A 午後11時、天皇陛下は自らマイクの前にたち、招書を2回読み上げる など録音盤作成に協力された。


B 陸軍の反乱将校が、宮城警備・陸軍の最高部隊『近衛師団長』を殺害、 鈴木総理私邸を襲撃焼き払うなどクーデターに発展した、ニセ命令を発 して一時宮城を占拠し、録音盤を捜索奪取を図るも成功しなかった。


C 8月15日午前11時55分、東部防衛司令部は最後の戦況を発表しラジオ放送した。

 『敵艦載機は3波に分かれて2時間にわたり、主として飛行場一部交通機関等に対して 攻撃を加えたり。11時までに判明せる戦果は撃墜12機、2機撃破なり・・』と。


D 正午の時報

 『天皇陛下におかれましては全国民に対して畏くもおんみずから大詔を 宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します』

 つづいて『君が代』が流れ、天皇陛下詔勅の玉昔放送が続いていく。



◎ 天皇陛下は自身のラジオの声に聴き入っておられた。お付の侍従は、後ろ姿で定かで ないが、白手袋で顔を拭かれた様子に涙しておられると感じ、号泣したと述懐される。



F 玉音放送が終って御所に戻られた陛下は、お迎えの皇后陛下に「ながみやラジオを聴 いたかね」と声かけ「はい・・」との返事のあと2人は重苦しい昼食をとられた。






資料より転載しました。

峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

TOPに戻る


平成18年6月28日作成
inserted by FC2 system