京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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峯山海軍飛行場跡
2013年7月24の状態写真


【夏草やつわものどもの夢の跡】
フェースブックに投稿記事を元に作成


 京丹後市大宮町河辺と峰山町新町の境付近に、六十数年前に海軍の飛行場がありました。その名残が今でもひっそりと残っています。付近のショッピングセンター・マインには連日多くの買い物客が訪れていますが、多くのお方はその存在に気づいては居られません。

 海軍の練習飛行場であったその場所は、戦時中に2年と少しの期間でしたが、死者も出す連日の猛訓練で一時は兵隊さんで3千人にもふくれ上がり、百数十名の特攻隊を練成いたしました。本部は大宮町余部に、兵舎は善王寺にあり、付近の住民はけなげな10歳代若者を温かく迎え、食べ物を与え、将校には住宅を貸与し、国家のために尽くした美談も多く残っていました。飛び立った特攻隊は鹿児島の鹿屋基地、広島の岩国基地、可部基地に赴任し、広島原爆を経験し、総攻撃直前で終戦となりました。
 特攻隊を送り出した飛行場は本土決戦のための飛行場として整備中に、終戦の半月前、昭和20年7月30日に米軍機により空襲を受けました。銃後の村として比較的平穏であった丹後が、最初で最期の戦場となった日です。

 さて、7月24日にシティーホテル峰山さんのご協力により、ホテルの8階から飛行場跡地の3箇所残っている遺構を俯瞰撮影することができました。

(シティーホテル峰山のURL http://www.cityhotel-mineyama.jp/ )

 シティーホテルの8階の南ベランダからの南東方向です。手前の小さいブロックが屋根の吹っ飛んだ弾薬庫です。その先、民家の倉庫になっている葛巻きの家が潤滑油倉庫、その向うの錆びたトタン葺きの家が格納庫の跡です。右側の道路からバイパスまでの間が南北に伸びる滑走路の跡です。飛行場は西は丹後中央加工場を含み竹野川のところまでありました。

 弾薬庫跡を俯瞰する。空襲のとき艦載機のロケット弾で屋根を吹き飛ばされました。幸いにも弾薬は攻撃を見越して、山間部に隠匿されていましたので、大爆発は免れました。

 扉を吹き飛ばされた弾薬庫の前面には、機銃掃射の弾の跡が残っています。後ろのホテルがシティーホテルです。


 油倉庫を俯瞰する。個人所有ですが、屋根まで草に覆われています。

 こちらは倉庫跡の北側の農道から見たもの、これ以上公道からは近づけません。昔はこの農道のところにも弾薬庫と同じような遺構が残っていました。農道の拡幅に伴い取り壊された様子です。


 格納庫の北側からの俯瞰撮影。持ち主の織物会社も年間に相当の維持費がかかっているみたいです。なんとか思い切られて無償で市に寄付いただけないでしょうか。久美浜の豪商稲葉家みたいに観光も含めてイベントなどで活用できるんじゃないですか。

 格納庫西面の正面写真です。中は柱の一本も無い木造のアーチ空間です。飛行機が11機格納されたとか。こんな格納庫が4棟あったらしいです。残っているのは一番北側のいまの遺構だけです。

 戦時中の格納庫前の写真(本サイト収録写真より 峯空会提供 「青春の軌跡(続)」2部4章より)この格納庫は取り壊されたそうです。特攻隊出発前の緊迫した雰囲気が出ています。

 現存する格納庫跡と比べると同じような構造がわかります。
付属情報

峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物

  保存運動を!
   開発から守れ!   まず、歴史建造物があることを知らせよう!



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平成24年4月1日作成
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