京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。
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峰山海軍飛行場見聞録 | ||||||||||||
父の空襲経験はおりしも義弟の出征の朝(父の話) | ||||||||||||
(ーこれは私が幼少の頃、父から聞いた話の記憶ですー) 幼き頃から時たま聞いた戦争の話では、父から聞いた話ではやはり、飛行場の空襲の話であった。 昭和20年7月30日、戦争末期であと15日で終戦という時ではあったが河辺の飛行場が空襲にあった。その時の恐怖の話である。父は徴兵されたが幸運にも戦地には行かず、20年頃は除隊していた。そして、口大野の山の上にある「峯山防空監視哨」へ行っていたらしかった。 7月30日は、おりしも母の弟の出征の日であった。 7月30日の早朝に村のお宮で出征の祈願があり、親族、町内のお方がお宮に参拝して神主からお払いを受けたあと、突然、空襲警報が鳴り響き、同じくして敵機が姿を見せた。出征は出征、絶対命令なのでその第一波が去ってからかどうかわからないが、国鉄宮津線の口大野駅に出征兵士を送っていったが、わが村から口大野駅までは家一軒もない田んぼの一本道で「こわいのなんのって」と言う状態であったと言う。その後列車が来て乗ったそうである。 (その日は宮津空襲の日でもあり、本サイトにー列車がトンネルに隠されていた記述ーがあるが何処まで行けたか? また何処の部隊に入ったか不明) 父は駅に出征兵士を見送ってから家に帰ってみると、家族は皆、山すそに掘られた「防空壕」に入っていたということである(この防空壕は戦後は、芋を貯蔵したり夏はスイカを冷やす穴となり今もある) 家族の安全を確かめた後、父は再度、口大野への一本道を渡り、任務場所である口大野の山の上にある「峯山防空監視哨」へ上った。そこで第2波、か3波かの攻撃に遭遇することになった。 監視哨施設で見ていると、ちょうど敵機が飛行場に攻撃を加える時、口大野の山の上空は敵機の旋回地点になっていた。武器を持たない監視哨員はその旋回する敵機を見ていた。戦闘機のアメリカ兵の顔が見えたという。 |
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我が父が忘補帳に残した記録 | ||||||||||||
(戦時中に父が記述した忘補帳が出てきたのでその中からこのサイトに必要と思う部分を抜書きいたしました)
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峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物 保存運動を! |
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