京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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峰山海軍飛行場見聞録

2014年9月おばあさんの戦時記憶

ーこれは2014年9月に近所のおばあさんから聞いた戦時の記憶ですー

 8月の終わりのことです。菜園の世話をしていたらよく知っているおばあさんが話しかけられました。このおばあさんは、腰が曲がり二重になった体で老人車につたばって運動のために毎日この道を歩いておられます。私の母親の死んだ歳を聞かれ、私の歳を聞かれたあたりから戦時中の不自由な生活を話されだしました。道端の石に腰かけて30分以上話しました。





「空襲知ってられますか?」
「知っとるで〜7月30日だ〜な〜」

 このあたりから私とおばあさんの話が始まった。御歳89歳、戦時中は18〜19歳のうら若き乙女でしたでしょう。ご主人は10年以上前に亡くなり体は不自由だが頭は呆けてはいらっしゃらない。質問すればなんぼでも話が出てくる、楽しかった。

 質問すれば出るわ出るわ話が止まらない久々の青春時代、89歳の腰の曲がったおばあさんの目が輝いていました、最後には「よう話させてもらって、いつからぶりだろう。」とお礼をいわれました。
 延々と続いた戦時中体験談ですが、その一部を書き留めましょう。


     《兵隊さんのこと》

 海軍の飛行場の兵隊さんは1週間に一度休みがあって、休みには歩いて村へきなった。私は村役場に勤めていたが、兵隊さんが白い制服を着て通ると、すごいカッコがよくて女はみんな仕事をやめて窓から兵隊さんを眺めていた。村では兵隊さんが来るとぼたもちや味噌汁作って競って飲ましていた。あの家では何杯飲みなったとかうわさ話をよう聞いた。
 白い制服で腰に長いもん下げて歩かれるえらいさん(海軍の将校さん)には惚れ惚れするほどカッコ良かった。私らも皆軍国主義だったんで。


     《予科練のこと》

 予科練に志願するのが男さんの普通だった。○○さんとこの**さんもみなこぞって志願しなった。
 ある家の二男は志願しなかった。そしたら郡役場から呼び出しを受けた、有名な話だった。そして親子で呼び出し受けて結局志願した。そしてその人は戦死しなった、かわいそうな話だった。私らも皆日本が勝つと教えられた軍国少女だった。


     《飛行機事故》

 浅夫さんげの田んぼに赤トンボが落ちた。12月に周徳寺の向こうの山に落ちた。女だてらにぐじゃ〜とつぶれた飛行機見に行った。死んなった兵隊さんは見ていない。


     《集団疎開》

 周枳の周徳寺と願成寺に都会から疎開の小学生が来ていた。願成寺では村人がえらい御馳走食べさせたと聞いていた。女の先生が引率されていた。周徳寺ではそういう話は聞かなかった。


     《将校さんの下宿》

 周枳にも将校さんが下宿しとんなる家が何軒もあった。うち(嫁ぎ先)にも来とんなった(この人は周枳から周枳に戦後嫁がれた)。
 実家の近くでは渡辺ちょっかんさん(渡辺直寛軍医大尉)が来とられた。あの人は軍医長さんだった、奥さんもお婆さんも一緒だった。奥さんは清楚で上品な人だった。私ら若かったが皆モンペはいていた頃だったが奥さんは赤い服を着とんなってびっくりした。えらいお方は違うなあ、と思った。
 奥さんは私の家に米つきに来なって親が野菜やら上げていた。ちょっかんさんの奥さんは「器」が好きなようだった。
 私げがどんぶりにおかずを入れて差し上げると、返しに来なって「こんな立派な器はおかずなんか入れんと大事にたばっときなれ、」と言われたが私ら田舎もんには器の値打ちなんて誰も知らへなんだ。


     《出撃の日のこと》

 日はよう覚えとらんが朝になると空がわんわん言うほど飛行機の音がした。練習機が何機も飛ぶのは慣れていたが、朝からわんわんといつもと違うすごい音だった。見上げると赤トンボが4機、三角になって飛んでいた。前に1機いた。そんなんが何組も何組も空に一杯回っていた。すごい数だった。それから見ていると羽を振って別れの挨拶してどこかに消えてなくなった。それからは飛行機が飛ばず、静かになった。


     《空襲のこと》

 村役場にいたので、空襲警報発令のたびに手分けして村中を「空襲警報発令」と、また解除の時も「空襲警報解除」と自転車でメガホン持って広報して廻る役目をしていた。

 忘れもしない7月30日は廻っている最中に敵の飛行機が来た。怖いのなんのって河辺の飛行場のほうではものすごい飛行機の音や機関銃の音や爆弾みたいな大きな音がしていたが、飛行場からはウンともスンとも音がしなかった。
 撃っていなかったんと違うか、やられっぱなしだったと思う。

 空襲が終わって田圃のほうから見ると、宮津方面の空に一杯ゴマ粒のようなものが、ほんとに空じゅうに浮かんでいた(宮津空襲)そりゃ〜すごいゴマ粒だった。周枳のお宮にも松縄手にも木の中に飛行機が隠してあった。それは見つからなかった。


     《東条さん》

 そりゃ、えらい人だった。悪口言うもんなら憲兵が来て連れて行かれる、という噂だったので誰も悪口は言わなんだ。日本が勝つと信じているから言わなんだだろう。


     《その他》

 終わりのころは飛行機はあまり飛ばなくなった。兵隊さんは入道峠の上に便所作ったりしていた。松根油とったりしていた。もうあんな怖い時代は来てほしくない。戦争はあかんで。







     (追記)
2018年1月にこのおばあさんは亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

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