京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(9)峯空園の造成から河辺区の桜まつりへ

 戦没者の慰霊と会員の親睦という目的で結成した峯空会にとって、画期的な大事業となったのが飛行場跡の一角に、桜の企園「峯空園」をつくったことであった。その経過をふりかえってみよう。

植樹祭までの経緯


 峯空在隊中、この地方の方々が純朴で隊員に対し大変親切だったこと、そして三十年近く経過し訪れた現地での第一回総会でも、予想通り心暖まる触れ合いがあった。そのために会員はますますこの地を第二の故郷と感じるようになった。

 このような背景もあり、会員の中から飛行場跡地に、何か記念になるモニュメントを立てたいという強い希望が事務局に寄せられた。戦後この地が地場産業の丹後繊物工業組合に払い下げられ、現在中央加工場の敷地になっている。たまたまご子息の関係で知合いの組合加工部の川村渡一氏に事情を説明し、意向打診をお願いした。

 幸いなことにわれわれの抱いていた趣旨に深いご理解とご賛同を得られ、事態は一歩前進することになった。昭和51年7月27日、両者の間で取り交わされた書面は次のとおりである

         −(省略)−

 内諾を受けて峯空会では全会員に飛行場跡地に、海軍の象徴でもある「桜の植樹をしよう」と呼び掛け、募金活動にはいった。

 最終的に丹後織物工業組合様から、竹野川と大谷川の合流点にそった西南の一隅の利用を認めていただくことになった。峯空会としては、この地に飛行場があったことを示す記念碑を立てるとともに、戦時中大変お世話になった地元の方々にたいする感謝の気持ちとして、憩いの園としての小公園の造成を目指すことになった。

 昭和51年11月14日、多数の峯空関係者により合計 93本の桜の苗木が植樹された。海軍の錨のマークに以せたつつじやさつきも同時に植栽、枯山水、遊歩道もつけて一応憩いの園としての体裁が整った。


晴れがましい開園式


 昭和52年4月17日、
 
 晴れがましい開園式が行われた。 すぐる太平洋戦争中ひたむきに若い血潮を燃やした思い出の地。それ故にこの地の一木一草にいたるまで、懐かしく思い返される。

 前年11月14日に植樹式を行い、その後本格的に工事が進められ、この日目出度く開園式を迎えることができた。会員達にお願いした募金活動、工事の進む中で、モニュメントとしてマンホールを嵌め込んだ記念塔。四国から取り寄せ、『峯空園』と彫り込まれた記念砕も立派に完成した。


        開  園  式  次  第


 福知山自衛隊音楽隊の隊員を先導に、会員、村人も一体になっての行進が、河辺の町を列を組んで峯空園に到着。

 午前10時峯空園人口の歓迎アーチ前で、関係者によるテープカットの後一同開園式式場に参集。
 
 開   会    − 司会者挨拶 安 田 一 郎 氏
 黙   祷
 開会挨拶    − 実行委員長 渡 辺 直 寛 氏
 挨   拶    − 元 司 令 小 関  晟 氏
 経過報告    − 事務局長 鈴 木 富 三 郎 氏
 目録贈呈    − 司令より戸田丹工理事長へ
 記念碑除幕
 記念塔除幕
 開園宣言    − 大宮町町長 坂 田   斉 氏
 挨   拶    − 丹工理事長 戸 田 演 治 氏
             峰山町町長 辻   芳 郎 氏
             河辺区区長 荒 田   昇 氏
 音楽隊演奏    福知山自衛隊音楽隊
 宮津おどり   − 宮津おどり振興会
 全員合唱    − 同期 の 桜
 記念訪問飛行 − 峯空会員 小 山 三 義 氏
 閉   会
 総員手を洗え − 観 桜 の 宴



 一つ二つと僅かに咲き初めた、か細い桜の木も、これから幾十年か先には大木となってくれよ。全員の切なる願いがこめられていた。

 折から八尾飛行場を飛び立った記念訪問飛行の小山機が会場上空をバンクを振りながら何度も通過。会場の熱気は最高に達し、感激の余り涙する会員、村人の姿があった。機は挨拶文の入った筒を投下し、帰っていった。

 峯空園開園式はまさに盛儀であった。

 これら一連の植樹事業、開園式にこぎ着けるための会員のエネルギーは凄まじいものであった。募金者の合計が 213名、2グループと多くの方々の賛同を得、募金額も 3,132,000円 に達し、他にも数多くの現物での寄付、奉仕があった。かくして善意の結晶としての『峯空園』は開園を迎えることになった。


モニュメントとしての記念塔

 『峯空園』の中に、われわれの青春の軌跡を象徴するモニュメントを建立して残したいという希望をどのような形で実現するか。事務局メンバーの思案のしどころであった。

 そんな中で取材のため訪れた雪の飛行場跡地を散策中、偶然にも真っ白な雪景色の中に、ポッカリと錨のマークの入った海軍のマンホールが黒々と雪の上に浮き上がっているのを発見した。

 これだ。これこそ海軍がこの地に残した唯一の遺産に違いない。一般の基準サイズより一回り大きいので、交換用に同じサイズのものを特注する。据え付ける台座の形は業者に委託してユニークなものが完成した。



 問題はこのモニュメントになる記念塔に、どのような魂を入れるかであった。幸い従軍画家で事情に詳しい小西氏に、下記の碑文(省略)を書いて頂くことになった。かくし て銅板に刻みこまれた碑文が、峯山海軍航空隊飛行場の跡地である『峯空園』のいわれを示す象徴として埋めこまれた。

 碑文の金属板は、平成四年、会員・藤田光明氏の尽力で新しく取り換え保存をはかった。
          (−現在の碑文−)
 記念塔を製作した峯空会の渡辺会長は、「若い飛行隊員のほとばしるような情熱に心を打たれました。それを形に残したいと願い記念塔をつくりました。」と回想す



「峯空園」の記念碑

 開園式を迎えた飛行場の跡地に出来た小公園の名称は、幾つかの侯補の中から『峯空園』と決まった。そのため『峯空園』を表示する石碑の選定にはいったところ、会員の一人から四国の青石を、飛練四十二期生の名で寄贈したいという申し入れがなされた。

 そこで当時彼等の教官であった故北村飛曹長が、選定のため四国に同行された。持ち帰えられた写真の中から現在『峯空園』に据え付けられてるものに決まった。

 三角形に近い立派な青石に、ハワイ海戦以来の名パイロットである小町副会長に墨痕鮮やかに『峯空園』の碑名をお願いした。記念碑は大変大きくて地盤が軟弱なので、台座になる基礎を充分補強して据え付けられた。砕は年月を経てどっしりと安定した見事なものとなり、記念塔と一体で『峯空園』の存在を示すシンボルとして定着していった。


恒例となった河辺区の桜まつり


 峯空園が造成されて十年余り、雑草がはびこる。水は漬く、雪に潰される。日照りに枯れる。若い桜にとって受難の年が続いた。除草をしても、雑草は背丈けを越える。何回か桜の補植も行った。

 河辺区の老人会の方々、多治見学氏のご尽力、有志の方の汗と涙の努力が繰り返された。又昭和55年4月には丹後中央ライオンズクラブ(小牧誠一郎会長)より環境浄化保全のためベンチ二台、くずかご一個の進呈を受けた。

 峯空園を支えようと、毎年、峯空会会員の会費によってささやかながら、除草と清持の足しにして頂いた。 そんな申でも、桜は少しつつ成長し、雪が消えると可憐に咲く。 そして、やがては「百花繚乱」と咲き誇る姿を見せてきた。

 昭和63年、京都で二巡目の国民体育大会が開催され、長善兵舎のあったところの南寄りに運動公園の野球場が建設された。国道三一二号から野球場への進入路が、峯空隊員の″通い慣れた“飛行場への道である。この道が整備され、大宮町(吉岡秀男町長)のご尽力で峯空園へ入りやすくなった。

 平成2年4月8日、河辺区主健の第一回桜まつりが行われた。峯空会は、渡辺会長を先頭に近隣の会員が参加した。河辺区の峯空園桜まつりは年々盛大となり、峯空会も、平成6年の第五回桜まつりには、50名の参加があり、河辺区の方々と大焚火を囲んだ。

 平成7年の第六回桜まつりには、峯空五十年祭の参加者100余名も花見を楽しむこととなった。

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峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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