京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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宮本作成資料 1 峯山海軍航空隊 
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 このページは、京丹後市峰山町 宮本氏の調査により作成された

   「峯山海軍航空隊(跡地)」の紹介冊子(宮本氏作成)

の内容をご本人の許可を受けて掲載するものです。
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記載内容は本サイトの他のページである
峯空会編 「青春の軌跡」 および
大宮中学校昭和54年版 「郷土と太平洋戦争」ー河辺飛行場と被爆の記録
   と同一内容が主体となっております

 
これらすべて、峯山海軍航空隊関係者がまとめられた「青春の群像」および峯空会事務局の「青春の軌跡」の文面が元ではないかと思われます。したがい、記述内容が重複しますが、宮本氏がまとめ、作成された冊子にしたがい、記載いたしますのでよろしくお願いします。

河辺飛行場

飛行場の建設

 日中戦争が始まって、しばらくたった昭和13年の夏頃から、河辺や新町を中心とする峰山盆地の村々で、河辺に飛行場ができるそうだという噂が広がっていった。

 秋の稲刈りが終り、取り入れがすむと、土地の強制買収の交渉があったことが噂され、人々は戦争が身近なものとして迫ってさたことを感じさせられた。買収された飛行場同地は、河辺と新町にまたがる約50町歩の田畑であった。 多くの田畑をごっそりとり上げられた農家の人たちにとっては、まさに死活問題であったと想うが、「お国のためだ、仕方がない」と買収に応じた。当時の風潮として軍の命令に逆らうことなど、とうてい出来るものではなかった。

 その頃の日本は中国こ侵入し泥沼のような戦争をしていたが、一方、満州国とソ連・外蒙古との間でも、国境をめぐる争いが絶えず、まかり間違えばソ連との間でもいつ戦争が起こるかわからない状態であった。 そこで、対ソ戦に備え、舞鶴の軍港を守るために戦闘機を中心とした航空基地が舞鶴近辺にどうしても必要になつてきたのである。(栗田にあった航空基地は舞鶴海軍の水上機基地であった。)

 そこで軍は、若狭湾から山陰海岸にかけて、好適地を物色したが、これはと思われるような良い場所はなかなか見つからなかった。初めは弥栄盆地が候補にあがり、いろいろ検討された結果、周囲の地形や風向きがよくないということで、次にあがったのが、峰山盆地の河辺から新町にかけての竹野川南側の約0・5Kmの田んぼであった。

 1年近く、軍関係者による諸調査が行なわれ、昭和14年頃から飛行場建設の準備が始められていった。

 竹野川と大谷川の合流点(現在、中央加工場の建っている西南隅)に、うっそうと大きな木の茂っている新宮権現があった。河辺の人たちから「新宮さん」と呼ばれていた氏神であったが、その社が現在の場所に移されたのもその頃である。

 昭和14年9月22日、第一期工事が始まった。第一期工事は飛行場の敷地造成と大谷川の改修が主な内容であった。 工事は舞鶴海軍建築部(後、施設部に改名)が担当し、前田技師・長崎技師.大河内技手が監督官であった。工事を請負ったのは、元請は間組、工事を請け負ったのは鳥取県米子市にある菊地組で、河辺の井野建設が引き受け業者となり、工事期間は2年間、総工費は500万円であった。

 造成地は竹野川側から河辺.新町側にかけて勾配が高くなっており、これをならすために河辺.新町側の土が削りとられ、竹野川側の低地へ埋め立てられたが、土が足らず近くの山からも運ばれた。

 大谷川の改修は、川幅を広げて石垣を積み上げ、更に水の流れが急にならないよう4〜5カ所にわたって水止めがつくられた。

 当時は、ダンプカーもブルドーザーも無いので、埋め立てや溝堀りはすべて人力であった。スコップやツルハシで穴が掘られ、モッコやトロッコで土が運ばれていった。また、大谷川に積む石は由良海岸から運ばれた。そのために、多くの工事人夫が必要になり、請負師によって朝鮮人を中心に全国から200人山500人もの人夫が集められた。 また、近在の青年団や国防婦人会などの勤労奉仕隊、徴用の人たちが毎日入れかわり手伝いに来て突貫工事ですすめられた。舞鶴から借りて来た軍のトラック50台がフル回転で土や石を運び、今まで一等田といわれた美田や桑畑が埋め立てられていき、2t〜10tのローラー車が地ならしをし、昭和16年には南北約 1km、東西約 500mの飛行場の敷地と大谷川の改修が完成した。

 第一期工事に引さ続き、昭和16年から第二期工事が行われた。 第二期工事は、滑走路の新設と格納庫、誘導路をつくることであった。

 滑走路は飛行機が離着陸するため、地中に何重にも石を敷き、その上にアスファルトで舗装しなければならなかった。地中に大量に敷くための適当な石が峰山盆地にはなく、水戸谷峠の石も試掘 されたが固すぎて掘れず、結局、間人町と竹野村の間にある玄武岩の山が選ばれ、一山150円で買収された。カナテコで岩山をくだき、手渡しでトラックへ積みおろしし、細かくくだきながら敷つめていく作業も大変な作業であった。 更にその上からアスファルトを流すわけであるが、アスファルトを扱う業者がいなく、遠く茨城県から東亜道路という業者が来て、ドラムカンでくどをつくり、大きなナベをかけ、その中で溶かしたアスファルトを流し、ローラーをかけ滑走路がつくられた。

 最初の計画では長さ 1km、幅 120mの滑走路であったが、工事が遅れて日数がなかったこと、下に敷く石が間に合わなかったこと等から 80m幅の滑走路に変更された。(昭和19年には滑走路の延長工事が行われ、南北に 500m延長されて 1500mの滑走路になった。)

 格納庫は、飛行場の南側に滑走路と並行して建てられた。一番南側に300坪の木造大格納庫が1つ、更に北へ4つの格納庫がつくられた。

 そして、滑走路と格納庫を結ぶ誘導路は50m幅のアスファルト舗装でつくられた。

 滑走路、誘導路以外の敷地にはすべて芝生が植えられ、練習機の離着陸を可能にした。大量の芝生は伯耆の大山から貨車 15輌分が運ばれたのを初め、各地から購入された。その他若干の兵舎と通信基地も建設され飛行場が完成したのである。










峰山航空隊

航空隊のあゆみ


 峰山海軍航空隊は、昭和19年3月15日、 第2美保海軍航空隊峰山分遣隊 として発足した。 峰山分遣隊の任務は陸上中間練習機による操縦練習航空隊であった。 当時このような隊は内地に6カ所、外地に2カ所あり、筑城空(福岡県)、篤2郡山空(鹿児島県)、峰山空の3隊が同時に新設された。

 指導にあたる教官.教員は全国の航空隊から、また、南方の第一線から赴任してきたほか、乗るべき空母がなくなった者、飛行機不足のため再転属を命ぜられた者、戦争で傷つき再び第一線へ帰っていくしばらくの期間教育部隊に配置された者等、さまざまであった。

 教育を受ける練習生は、予科練を卒業してきた飛行術練習生たらであるが、飛練第37期生として3月に141名が入隊した。 彼らは乙特出身の短期教育で予科練を卒業してきた練習生であった。 やがて5月になると乙18期予科練出身で土浦入隊以来2年間訓練を受け、博多空ですでに単独飛行をすませた第37朝生60名が合流し、約200名となった。  7月には第39期練習生120名が入隊。また、9月には第41期練習生90名が入隊するなど遂次練習生の数が増えていった。

 発足当時の隊長は久保少佐であったが、10月に退隊、後任に菅原中佐が着任した。

 昭和20年2月1日、所管が第2美保海軍航空隊峰山分遣隊から 姫路海軍航空隊峰山分遣隊 に変更され、第42期練習生46名が入隊、開隊時600名くらいだった兵員は1200名を越えるに至った。

 昭和20年3月1日、正式に 峰山航空隊 として独立。航空隊司令として小関大佐が着任し、練習機も約100機余りが揃えられた。

 昭和20年5月5日、 作戦航空部隊第3航空隊(木更津基地)第13航空戦隊(大井隊) の指揮下に入り、1,500名の隊員の外、他部隊よりの訓練要員、戦備作業要員を含む3,000名の大世帯にふくれあがり、特攻部隊もつくられたが、出撃するに至らぬまま終戦を迎えた。




訓練の様子



 海軍では「日月火水木金金」ということばがあったように、練習さえやれば決して負けることはないと、相当きびしい訓練で鍛えられた。 海軍航空隊は予科練教程を終了した者を「操縦」「偵察」「通信」の3つに分け、その中の操縦術を教えたのが峰山航空隊であつた。

 峰山航空隊の飛行練習生たちは、4カ月間の教程の中で地上教育と空中教育を学んだ。

 地上教育というのは理論学習で、飛行機を操縦するための必要な知識から、落下傘の取り扱い万、飛行機の整備.点検や応急処置の仕方、空中戦の仕方、更には航空図誌や気象学に至るまでの幅広い内容の勉強であった。

 空中教育というのは実際に練習機に乗り、離着陸、旋回、錐揉、宙返り、反転、背面飛行などの基本技能の他、編隊飛行、夜間飛行、計器飛行などの訓練を、1人平均33時間くらいの飛行間庁の中でこなしていった。

 1日の飛行訓練は午前7時30分から11時までと、午前11時30分から午後3時30分までの2分隊に分かれて行われ、練習生は6名ずつに分けられ、各班に教官が1名ずつ付いて指導にあたった。

 飛行訓練も最初のうちは練習機の後に教官が乗りこみ、練習生の指導にあたったが、ある程度の技能が収得できれば単独飛行といって1人で練習機に乗って訓練を行った。

 教官が乗りこみ指導にあたった最初の頃は太い木の棒を持ち、前に乗っている練習生の頭をたたいてのきぴしい指導がなされた。

 訓練が終ったあとは反省が行われ、教官からさびしく注意が与えられ、口頭だけでなく木の棒で尻を何発もたたかれ、練習生の尻は例外なくみんな青かった。親が見たら泣くほどの痛々さだが練習生は一人前のパイロットになるためには当然のことのように考えていた。 ある練習生のお母さんは下宿に面会に来た時、風呂に入る我が子の後姿を見、尻の辺りが青紫にはれあがっているのを目のあたりにして思わず涙を流していたと、練習生を泊めた家の人が話していた。





 昭和19年の11月に入ると飛行機に使うガソリンがなくなって訓練飛行もできなくなり、20日ほど中断され「ア号燃料」と呼ばれるアルコール燃料で飛行訓練を行ったりした。アルコール燃料はガノリンに比べてやや出力が落ち、また、寒い朝などはエンジンがかかりにくい欠点があった。

 戦局もいよいよ急をつげ、内地決戦の様相を深める頃、いざという時に練習機を特攻隊として使用するために、佐世保の基地まで燃料をもらいに行き、交歩に交渉を重ねやっと貨車3輌分の燃料を確保したそうである。


 同じ頃、丹後地方特有の「うらにし」が訪れ、「弁当忘れても傘忘れるな」といわれるように空はしぐれやすく、また、冬は北西の季節風による積雪が多い。殊に、この冬は雪の日が多く、20年1月 になると大雪で滑走路が使えず、兵隊はもとより地元の人たちにも動員がかかり除雪作業が連日行われ、雪の壁の間で離着陸が行われたが、練習機がスリップしたり、また、整備兵の手足は凍傷になったり、服はぬれたままという状態であった。 そのため、満足な訓棟はでさず、遠く福岡の航空隊基地へ練習生を移しての訓練が行われたりした。


 昭和20年3月、峰山飛行場で訓練が再開されたが、戦況は緊迫し練習機に250Kg爆弾を装備し、特攻隊を編成することになった。 編成された隊員たらは、間人沖や宮津湾にあった仮装敵艦を攻撃目標に降爆訓練や夜間飛行など戦闘即応の猛訓練が行われた。特攻隊に編成されなかった練習生は、飛行訓練の補助をしたり、防空壕掘り、囮(おとり)機の製作、対空戦闘要員の配置等の仕事についた。

 訓練を終えた練習生たらは、峰山航空隊から戦場へ向って出発していった。最初の第37期生は、昭和19年8月29日に卒業してから終戦までわずか1年間足らずであったが、その短い期間に多くの人々が亡くなった。峰山航空隊に籍をおいていた教官、練習生の中には特攻隊員として沖縄.種子島.本土南方で8名、まに、フィリピン.サイパン島.南西諸島等で9名、更に内地での殉職者等を加えると、30名余りの人が命をおとされたようである。



 峰山分遺隊が発足してから、わずか1年半足らずの間に飛行機が墜落したり、付近の山に衝突したり、また、不慮の事故等で、12名もの教官や練習生が尊い生命を失っている。 また、幸いに死亡事故には至らなかったものの、飛行訓練中滑走路で三重衝突事故を起こしたり、練習機があちこちで墜落、不時着して練習機を大破したり、塔乗員に重、軽傷者の出た大事故もかなりの数にのぼり、飛行訓練とはいうものの、常に死と背中あわせのまさに生命がけの訓練であったことがわかる。

 20年の5月から大事故が目立って増えているのは、戦況の不利から短期間で特攻隊員養成の必要に迫られた結果、技術的にも今一歩のところへ、精神的々あせりも加わったものではないかと推測される。

 なくなった人たちは、いずれもまだ17歳〜20歳の若さであった。


特別攻撃隊特別攻撃隊の編成


 米軍のフィリピン群島レイテ島に対する上陸で、日本軍が重大な危機に直面していた 昭和20年3月、フィリピンのマニラが奪還され、4月には沖縄攻撃が始まった。日本軍は敗戦の色が濃くなったこの頃から、最後の絶望的は戦法として、陸海軍ともに特攻隊を常用しはじめていた。峰山航空隊でもこの頃から宮津湾等で特攻訓練に励んでいた。


 7月に入り米軍機による志布志湾沿岸(鹿児島県)、宮崎県沿岸、土佐湾沿岸の偵察が連日行われるようになり、この方面への上陸の気配が強くなってさた。峰山航空隊はこれら3方面に上陸する米軍部隊に対して特攻をかける任務が与えられた。

 7月14日、 特攻隊峰山航空隊飛神隊忠部隊40機は、第一陣として九州の鹿屋特攻隊基地(鹿児島県)に進出するため、峰山航空隊総員の見送るなかを編隊を組み、飛行場上空を一周したのち大江山上空へと飛んで行った。 忠部隊の鹿屋基地展開に続き、第二陣の武。礼。義部隊の52機は岩国基地(山口県)を目指し、忠部隊同様多数の見送りを受け出発していった。





 出発の日は秘密にされていたが、航空隊の人たちの様子からすぐわかったらしく、河辺、周枳、善王寺、口大野等の人々も多数見送りに行っていたようである。


 忠部隊は、途中の岩国基地で燃料を補給し、鹿屋基地に到着、当初は米軍機の偵察活動がしきりに行われたが、後には銃撃.爆撃が続くようになり、他部隊の沖縄方面への攻撃は毎日くり返された。 忠部隊は飛行機の整備を万全にし、時の来るのを待った。8月13日には出撃間近ということで実戦同様の緊迫した訓練が行われた。


 礼、義、武部隊は岩国基地到着後、緊急発進や柱島付近での降下、夜間の訓練が行われた。7月24日には米軍機動部隊の西日本空襲があり、岩国基地も遂に爆撃を受けた。本土決戦用に温存されてきた峰山飛神隊もその機会が来ない間に犬死にしてはならないと、更に展開することになり、礼部隊は藤河基地(山口県)へ、義部隊は可部基地(広島県)へ、武部隊はそのまま岩国基地にふみ留った。


 藤河基地・可部基地は共に秘匿飛行場で、可部基地は広島から北へ約18Kmの地点で、国道の両側の田を埋めて滑走路が作られ、藤河基地は錦川の河川敷をならして滑走路が作られていた。礼部隊も義部隊も飛行機は林の中へ隠し、整備には万全を期して時の来るを待った。  8月14日、両部隊共に出撃準備命令が下り、全機爆装し、燃料満タンして出撃命令を待った。 しかしながら翌8月15日、玉音放送があり、出撃寸前で終戦となった。


 こうして峰山航空隊の特攻隊は進駐していったそれぞれの基で終戦を迎え、忠部隊は鹿屋基地で解散、武部隊は岩国、礼部は藤河、義部隊は可部からそれぞれ飛行機で峰山航空隊へ帰着実際に特攻隊として出撃した飛行機はなかったようである。



空襲

空襲の様子


 昭和19年7月、サイパン島が陥落してから、同島の基地を飛び立つ米軍のB−29による本土空襲が始まった。

 米軍爆撃機は、軍需工業地帯を中心に、昼夜の別なく、数十機から数百機の大編隊を組み、爆撃を繰り返した。11月24日にはB−29約70機による本格的な東京空襲も行われ、大阪、名古屋、横浜、神戸等の大都市はもとより、その被害は殆んど全国の中小都市にまで及び、被害都市数98、焼失家屋数143万、死者約20万人、負傷者27万人、行方不明8千人という惨々たるありさまであった。


 そのような状況の中で、河辺の飛行場は、昭和20年1月に初めて米軍機の爆音が聞え、空襲警報が発令されたのを初め、3月には宮津上空方面に飛行雲が見え合戦準備をしたり、4月にはB−29が偵察飛行に来るなど緊張感が高まっていった。 更に、6月9日夜にはB−29による舞鶴への爆弾投下、6月20日夜には舞鶴、宮津湾に機雷投下、7月27日夜には舞鶴方面の空に曳痕弾が見え、高角砲の発射音が聞え、その度ごとに合戦準備を行うなど、爆撃を受けるのはもはや時間の問題であると思われていた。そして、昭和20年7月30日を迎えたのである。



 午前4時30分、B−29 1機が河辺飛行場上空を偵察通過、 次いで 5時45分頃、グラマン戦闘機7機編隊が高置1,000m上空を舞鶴方面へ通過していった。 そして、5時58分空襲警報が発令され、7時20分第1回目の爆撃を受けたのである。この時は米軍機による機銃掃射だけだったので、たいした被害は出なかったようである。 問題の第2回目は9時45分に空襲警報が発令され、爆撃は9時50分ごろから始まった。 米軍機の数も多く、小型爆弾の投下及び機銃掃射が何回も繰り返され、飛行場を中心に河辺、新町にもかなりの被害が出た。よその村から見ていると相次ぐ米軍機の爆撃ですごい土煙りが舞い上がり、飛行場も付近の家々もよく見えないほどのすさまじさであった。 第3回目は12時49分に空襲警報が発令されると、ほぼ同時に空襲を受けたが第1回目と同様、被害は少なかったようである。 それ以後も夕方までに数回米軍機が来たが、爆撃は無かった。


 爆撃に来た米軍機の主力はグラマンF6Fヘルキャットであったが、ロッキードP38ライトニングも来たようである。米軍機約55機の前後3回にわたる爆撃、銃撃による被害状況は次の通りである。


 最大の被害を受けた飛行場は、死者3名、負傷者6名、93式陸中練2機炎上、1機大破、2式中練1機小破、木造格納庫小破、飛行場滑走路に250Kg爆弾1発、誘導路畑中に1発、ロケット弾6個.火薬庫(火薬なし)大破、格納庫、兵舎、車庫に弾痕無数ということであった。


 滑走路に落された250Kg爆弾で、滑走路に直径約30m、深さ約10mの大きな穴があき、滑走路の使用が不可能になったため、その晩は軍のトラック15台を使って土や石を運び夜を徹して復旧工事を行ったそうである。


 米軍機数に比ペて練習機の被害が少なかったのは、新町の山に飛行場から誘導路がつけてあり、掩体という練習機を隠す防空壕がつくってあり、そこに隠したり、民間の工場や山道にも練習機を隠し、飛行場の中には、木、竹、わら、むしろ等でつくった模型飛行機がたくさん置いてあり、それがねらわれたからである。


 また、2回目の爆撃の時、飛行場の南端にあった 河辺国民学校 も機銃掃射を受け、ロケット弾も投下された。そのため、死傷者は出なかったが、南校舎の東半分が爆破され、本館も爆風で被害を受けた。

 この他、飛行場村近一帯の河辺、新町の民家多数も機銃弾及び爆風で被害を受け、住民1名が右足に負傷した。

 三重でも田んぼで仕事をしていた農夫に機銃弾がかすり、腰の辺りに軽傷を負った。

 常吉国民学校では、直接ねらわれたのではないが、屋根瓦が数枚割られ、半紙大の穴があいたそうである。



飛行場その後


 昭和20年8月6日広島に原子爆弾投下、8日にソ連軍が対日参戦、9日には長崎にも原子爆弾が投下され、致命的な打撃を受けた日本は、ついにポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日日無条件降伏し戦争は終った。


 8月15日正午、天皇みずから全国民にラジオを通してその旨が知らされた。しかし、峰山航空隊では、司令の命令で電源が切られその事実は知らされなかった。

 15日の夜も長善士官室で翌日出撃の特攻隊の送別会が開かれたり、火薬不足のため軍のトラックに米や砂糖などを満載し、京阪神の業者との物々交換に1週間近くも行っていたということで終戦を知っていたのは、ごく一部の士官だけのようであった。


 やがて玉音放送を聞いた地元民から知らされたり、終戦のため広島や山口の航空基地から帰隊した特攻隊員の話し等から終戦の事実を知った兵隊たちは、次々に郷里へ帰って行った。 しばらく飛行場にとどまり、敗戦のうっぷんを酒でまぎらせていた兵隊や中には軍のトラックに倉庫の物資を積み込み持ち帰った兵隊も何人かいたようである。


 練習機は飛行場にすべて集められ燃やされた。あちこちに隠されていたものや使いものにならなくて放置されていたものなど合わせて 40〜50機はどあったらしく、全部燃やすのに2昼夜かかったそうである。この時一緒に飛行場内の燃えるものはすべて燃やされ、軍のトラックとかいろいろな道具類せどはすべて舞鶴に返却され、飛行場の中は殆んど何もなくなっていつた。


 燃え残ったものやスクラップは1カ所に集められ、口大野駅に運ばれ、駅前に積ゐあげられたまま子供の遊び場になっていたようであるが、しばらくして汽車でどこかへ運び去られた。


 残務整理がすべて完了したのは昭和21年の夏頃で、そのあとは終戦の食料難の時代でもあり、飛行場跡も主に河辺村と新山村が中心になって開墾されることになった。


 食料増産が叫ばれていた時でもあり、河辺村では世帯を持っている人は、1口はどうしても責任をもって開墾するということで全部に分け、開墾能力のある家はそれ相当に多くの土地を分けてもらい開墾が始まった。 戦争のため軍の命令でただ同然で取りあげられた一等田だったが、滑走路に有った所はアスファルトになっており、その下には何重にも石が敷きつめられ、また、飛行場の敷地内には芝が植えられ、ローラーでぎっしりかためられてしまっており、そこを1つの家族が総出でやるとはいえ、くわでおこし石を運び元の田畑に変えていくのは、我々の想像を絶する困難と苦労があったものと思われる。そういう中で飛行場は再び数年前の美田こ戻っていったのである。



 昭和41年、河辺飛行場のあった南西部に丹後織物工業組合中央加工揚がつくられた。約114,700uの敷地内に約7,500uの鉄筋コンクリ一卜平屋建工場(一部2階建)と約9,500uの付属建物(染色工場、ボイラー室、寄宿舎等)が完備し丹後ちりめんの精練加工が行われている。その西側に 「峯空園」 と名づけられた公園がある。桜の木々に囲まれ、芝生の緑も美しい公園である。


 昭和48年春、かって峰山航空隊で苦楽を共にした戦友達が当地で一同に会した。そして、28年振りの再会とお互いの無事を喜び合い、旧交をあたため合った。そのおり地元の人たちに公私共にお世話になったお礼に、又再び帰って来ない青春の思い出の土地に何か記念すべきものを残そうではないかという案が持ち上がった。話し合いの結果丹後中央加工場とも連絡をとりつつ、租の一画に記念の公園を作ることとなった。さっそく隊員より募金を依頼し、昭和51年4月17日、大宮町長、各地区役員、それに地元町民の参加のもとに、自衛隊の音楽隊の演奏、旧隊員による軽飛行機2機からの花束投下など、盛大に公園完成の記念式典が催された。これが「峯空園」である。記念碑が2つ建てられているが、そのうち1つは、当時飛行場にあったマンホールのふたがはめこまれ、そこにはこう文がきざみこまれている。

「 太平洋戦争中  峯山海軍航空隊ここにあり
  生命を課する飛行作業をはじめ 隊生活のなかに青春のありかをもとめた
  多くの若者達によって幾たびも幾たびも踏まれたマンホール
  忘却のかなたに時代は移り行くとも哀しき戦いの証人として
  いついつまでも桜の園に平和の願いをこめて
  久遠の足音を響かせん 」

(上記の地図に関する記述)

 ■ 50メーター線

現在の土手より東側に50メートルの幅で官地(国有地)が続いていた。飛行場が出来る以前は河辺村より竹野川へ向かって、なだらかな傾斜の田畑が広がっていたが、飛行場が作られた時に段差がついた。(地図上の@)

 ■ 飛行場の門

 大谷川にかかる橋(橋輝和さん宅の近く)のあたりに、飛行場の正門があった。また、海軍橋(大谷川が竹野川に合流するあたり)のも門があり、いつも衛兵が立っていた。

 ■ 木工所、食堂

 「しょうがはな」付近にあった。地元の子供たちの中には、木工所の兵隊に飛行機の模型を作ってもらっていた者もいた。飛行場の施設や兵隊の宿舎を管理したり修理などしていた。

 ■ 格納庫、無線室

 飛行場には格納庫が4か所建っていた。今も残り、工場として使われているのは一番大きな建物であった(地図上のD)。
 格納庫の建っていた所には、今もコンクリートなどの基礎部分が見られる。南側の二つの格納庫の間には高いアンテナを立てた無線室があった。

  
(ーサイト管理者注 基礎部分は現在は撤去されて見当たらないー)

 ■ 燃料庫、弾薬庫

 大きな建物は燃料倉庫で(地図上のE)、おもの飛行機用の燃料を保管していた。二つの小さい建物は弾薬が入れられていた(地図上のF G)。

  
(ーサイト管理者注 Fは現在は取り壊されて見当たらないー)

 ■ 暗渠

 飛行場は平坦にしないといけないので水が流れる川やみぞは地下に掘られ、すべて「ふた」のある構造にした(地図上のC H)。

 ■ 高射砲

 竹野川にそって、3−4門あった。砲弾の大きさは、直径8Cm、長さ35Cmぐらいだった。
 ふな山にも2門あって、今も、山の中に溝が残っている。溝は兵隊が砲弾を持って移動するために掘られたものだった。

  
(ーサイト管理者注 ふな山の機関砲跡地は、現在尾崎鉄工の敷地内で、跡は確認されなかったー)

 ■ 飯場

 今の平井常商店(ガソリンスタンド)のあたりにあった。飛行場を作るために集められた日本人労働者や朝鮮(韓国)人労働者、中国人労働者が住んでいた。

  
(ーサイト管理者注 平井常商店は現在はこの位置にありませんー)

 ■ 防火水槽

 今の野木さん宅あたり、無線室の近くに防火水槽があった。たんぼ一枚ほどの大きさだった。



峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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