京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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京丹後市市長 中山 泰氏が
「峯山海軍航空隊跡地」について言及しました。


京丹後市市長のブログより 航空隊跡地について
以下の記事は京丹後市市長 中山 泰氏が、京丹後市ホームページのなかにある「中山 泰の喜び発見ひとりごとのなかに記述されている峯山海軍航空隊の跡地に関する記述がありましたので、削除される可能性もあり本サイト管理者の独断で転記貼り付けいたしました。


  (ー京丹後市市役所の本記事の転記元ページはこちらです。−平成20年12月現在)





2008年8月22日(金曜日) ‐「戦没者の御霊に慰霊の誠を捧げる」‐


京丹後市長 中山 泰

 京丹後市久美浜町に「久美浜町桜に錨の会」があります。戦没者の皆様の御霊の"慰霊奉仕、顕彰護持および会員の研修親睦を図る"ことを目的として旧海軍の軍人軍属に服務された久美浜町町民を中心に組織され、現在42名の会員の皆様が各地区慰霊祭へのご参拝はじめ御心のこもった活動をしておられます。本日、本年度の総会が開催されましたので、来賓として出席させていただきました。

 今年も8月15日の終戦の日をお迎えし、先の大戦の終戦から63年の歳月が重ねられました。苛烈を極めた戦いの中で、祖国の安泰と繁栄を願い、ご家族を案じつつ、国の御盾として戦禍にたおれられ散華されました郷土の三千二百有余の御霊はじめすべての戦没者の御霊に謹んで追悼と慰霊の誠を捧げます。

 今、世界の国・地域を挙げて平和の祭典・北京オリンピックが開催され、連日、賑やかに盛り上がった状況が報道にあふれていますが、今日、私達が当然のように平和と繁栄を享受でき普通をいただいて生活できますのも、御霊の尊い犠牲による誠に大きな礎(いしずえ)によることを決して忘れてはならないと肝に銘じております。


 特筆すべきは、京丹後市には、戦時中、今の峰山町新町から大宮町河辺にかけて長さ1.5キロ、幅5百メートルに及ぶ「海軍河辺飛行場」が建設されるとともに、「峯山海軍航空隊」がここを本拠に編成され、多いときで3千人にのぼる隊員の皆様が所属をされ連日、命をかけて<生命を課して>猛訓練が捧げられていたとのことであります。その後、峯山海軍航空隊の編成員すべてに呼びかけられて昭和48年に結成された「峯空会」の皆様により地元への御感謝と戦没戦災者の御慰霊を兼ねた記念碑が建てられ(注:後部に「碑文」を掲載させていただいています。ご参照ください。)、併せて桜やツツジが植栽された「峯空園」が昭和52年に開園されています。今も、桜の名所としても多くの方々の憩いの場所として親しまれていますが、何より、私達の貴重で大切な戦跡として、多くの先輩先達の皆様が祖国の弥栄(いやさか)と平和を念じ心の限りと身命を尽くし挺身捧げられた尊い希いこそは永く後世にしっかりと伝えていかねばなりません

 私達、後生のまちづくりの上で最底限欠かせないことは、先達の皆様が全身全霊に捧げられた誠に大きな礎としての尊い御遺徳を賜り、その上に今をいただいていることへの素直な感謝の心を胸の内にゆるぎなく刻みつづけることであり、その中でいよいよに、隣人や仲間への仁愛や、支えあい、たすけあい、そして与えあいというこれからのまちづくりに欠かせない大切な徳目もますます根源からの生命力を得て、より活き活きとより本物になってくるのではないかと思っています。

 改めまして、諸外国の人々も含め戦争で犠牲になられた全ての御霊に対し謹んで哀悼の誠を捧げますとともに、「ありがとうございます」「おかげさまです」という心がますますあふれるまちづくりに向け、広く先人の皆様への深い感謝を共に誠心誠意思いと力を尽くしてまいりたいと思っております。


‐海軍河辺飛行場記念塔の碑文‐

<太平洋戦争中 峯山海軍航空隊飛行場ここにあり 生命を課する飛行作業をはじめ隊生活のなかに 青春のありかを求めた多くの若者達によって 幾たびも幾たびも踏まれたマンホール 忘却の彼方に時代は移りゆくとも 哀しき戦いの証人としていついつまでも 桜の園に平和の希いをこめて 久遠の足音を響かせん>

 

峯山海軍航空隊および飛行場についての情報、記録、写真お持ちの方はご連絡ください
  峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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