京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。

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平成24年8月21日 
朝日新聞の京都丹後・丹波版特集記事に紹介されました



タイトル  「特攻」の記憶 伝える
 平成24年8月13日ですが、突然朝日新聞の記者、宮津支局 田中さんから電話があり、峯山海軍航空隊跡地サイトについての取材を受けました。
 平成19年に産経新聞に掲載されてから5年ぶりです。

この記者さん、丹後に赴任して1年経つが峯山海軍航空隊も、栗田の水上機基地も知らず、戦史、特攻、回天など興味があり各地で取材してきたので、ネット検索で知ってびっくりしたと言われました。とりあえず、特集記事を作りたいので話を聞かせてくださいといわれて家で取材を受けました。たぶん地方版に載せることになるであろうと言われました。

 それより別の話ですが、舞鶴に赴任してきた海上自衛隊のえらいさんも、そういう基地があったことはまったく知らなかったとか・・・・京丹後市にある峰山海軍航空隊跡地の遺構はおろか、飛行場が存在した事実まで、認識度は自衛隊でさえそんな状況です。

 平成24年8月21日、田中記者から電話があり、本日の京都地方版に載せましたと連絡が入りました。私は朝日新聞を購読していないので確認できず、朝日新聞のWeb版で確認いたしました。


朝日新聞Web版の記事が以下でした。貼り付けます。



現在位置:朝日新聞デジタル> マイタウン> 京都> 記事

「特攻」の記憶 伝える

2012年08月21日

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残骸となって残る峯山海軍航空隊の弾薬庫=京丹後市峰山町

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「赤とんぼ」と呼ばれた海軍九三式中間練習機=峯空会編「青春の軌跡」から

■峰山 「赤とんぼ」と呼ばれた飛行隊 粗末な練習機で「玉砕」訓練

              元隊員「基地遺構保存を」

 終戦の間際、「赤とんぼ特攻」と呼ばれた飛行隊が旧日本海軍にあった。若者ばかりが集められ、木造布張りの粗末な練習機で「玉砕」の訓練をした。その基地の遺構が京丹後市峰山町に残る。戦後67年の夏、生き残った隊員らは「戦争体験を風化させないために保存を」と願っている。

 京丹後市を走る国道312号。大宮町から峰山町まで約2キロの直線部分は戦時中、峯山(みねやま)海軍航空隊基地の滑走路の一部だった。沿道には、廃虚となった弾薬庫跡や、現在は企業が倉庫に使う格納庫跡が点在する。

 戦後、隊員らでつくった親睦会「峯空会(みねくうかい)」(解散)の記録によると、基地は1942年、舞鶴の軍港を守るため、44ヘクタールの広大な敷地に建設された。10〜20代の若者ら約3千人が集められ、飛行訓練を続けた。

 45年2月、特攻隊の編成が命じられ、隊員約120人が選ばれた。隊名は「神風特攻隊飛神隊」。「赤とんぼ」と呼ばれた練習機に約250キロの爆弾を積み、夜間、日本海に浮かぶ軍艦や漁船にぶつかる寸前まで突っ込む訓練を繰り返した。約4カ月で8人が死亡したとされる。

 敗戦が濃厚になる同7月下旬、飛神隊は4部隊に分かれて鹿屋(かのや)(鹿児島県)、岩国(山口県)などの基地へ派遣され、出番に備えた。しかし、全員が出撃しないまま終戦を迎えたという。峯山海軍航空隊の基地も、米軍による7月30日の空襲で破壊された。

 これらの記録は、地元で戦争の歴史を調べている会社経営者、小池俊彰さん(68)が峯空会メンバーから入手。遺構の写真などとともに自身のホームページ(http://www.geocities.jp/mineku_atoti/index.html)で紹介している。

 峯空会の元副会長、鈴木富三郎さん(89)=伏見区=は「多くの会員が年老いて次々と亡くなり、特攻の記憶も薄れつつある。戦争の時代、若者がどういう気持ちでいたか、記録や遺構を後世に残して伝えてほしい」と話している。


以上の貼り付けは朝日新聞Web版です。(平成24年8月27日リンク確認)リンク切れの可能性あり。http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000001208210004


 該当の朝日新聞、8月21日朝刊、京都丹後・丹波版をお借りして記事をスキャンして画像にしました。本サイトに記事画像を保存します。内容は上のWeb記事と同じものです。









 朝日新聞 田中昭宏記者さま、取材の上、特集記事を掲載していただき、ありがとうございました。

峯山海軍航空隊および飛行場についての情報、記録、写真お持ちの方はご連絡ください
  峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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