京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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峯山海軍飛行場跡の格納庫構造の詳細

これは

『京丹後市の近代民家と近代建築』 大場 修 編 より掲載いたします。
提供元 京丹後市教育委員会 文化財保護課 平成22年11月24日

以下に掲載内容を貼り付けます(多少修正)

旧峯山海軍航空基地格納庫(現吉村機業株式会社保税工場新町工場)

現有場所 京丹後市峰山町新町

建築時の目的・構造  格納庫  木造、腰折れ屋根、瓦棒葺          昭和16年


 昭和12(1937)年の日中戦争勃発後、海軍は、対ソ連戦に備え、舞鶴の軍港を守るために、戦闘機の基地を造る計画をたてた。
 調査の結果、好適地として選ばれたのが、峰山盆地の河辺から新町にかけての竹野川東側にある約0.5 平方キロの田畑地であった。常時風向きの南北に平野がかなり開けていることなどが要因であった。昭和14(1939)年、飛行場建設に向けて第一期工事が始まり、同16年には南北約1km、東西約500 mの飛行場の敷地が造成され、大谷川の改修が完成した。

 工事は舞鶴海軍建築部(後、舞鶴鎮守府施設部)が担当し、鳥取県米子市の菊池組が請け負った。続く第二期工事は、滑走路の新設と格納庫・誘導路の建設で、昭和16年から始められた。当初の計画では長さ1km、幅120 mの滑走路を設けることになっていたが、アスファルトの下に敷く石が間に合わず、幅80mに変更された。

 その後、昭和19年には滑走路の延長工事が行われ、全長1.5kmとなっている。なお、本格的な工事に入ってからは、井野建設が請け負っている。飛行場には、その他、若干の兵舎と通信基地も建設されたが、大きな兵舎を建てるスペースはなく、周辺の織物工場などが兵舎に転用された。

峯山海軍航空隊基地の位置


 峯山海軍航空隊は、昭和19(1944)年3月15日、第二美保海軍航空隊峯山分遣隊として発足した。同隊の任務は陸上中間練習機による操縦訓練である。

 発足後は、ロ大野村の織物工場(口大野精錬工場)が買収され、ここに本部庁舎が置かれた。教官や練習生は長善村の織物工場(平又工場)へ入った。周辺の村の民家には士官・下士官が下宿した。元隊員たちは、「兵舎から飛行場へ行くのに一般道路を通って往復する」(『青春群像一峯山海軍航空隊の記録』p.80の11〜12行目』ことに驚き、「厳しい訓練の連続とは別な、娑婆と同居して、毎日外出しているような」(同p.81の13行目)雰囲気であったと記憶している。

 兵員数は、開隊時は約600名であったが、徐々に増え、昭和20年7月には1、500名の隊員に他部隊の要員を入れて、計3、000名に連した。同月30日、基地は米軍機により3回の爆撃を受け、死傷者を出した。施設の被害状況は、滑走路に250kg爆弾の穴があいた他、木造格納庫小破、火薬庫大破などであった。




 今回調査した旧峯山海軍航空基地格納庫は、飛行場の東側に滑走路と平行して建てられていた、4棟のうちの1棟である。現在、吉村機業株式会社の保税工場新町工場として転用されている。現在、外壁には鉄板サイディングが貼られているが、『青春群像一峯山海軍航空隊の記録Jp.361に掲載された約35年前の写真と照合すると、もとは下見板張りであった。屋根は瓦棒葺きで、屋根上部の勾配を緩く、下部をきつく傾斜させた腰折れ屋根となっている。扉を全開できるように、建物の左右両端から各約1間を張り出して戸袋とし、奥行約1.5m、高さ約6mを間口幅一杯、入口扉の取付に使ったとみられるが、この部分も現在は鉄板サイディング貼りで、小さな入口と窓しか設けられていない。建物の規模は、幅約30m、奥行約31.5mで、ほぼ正方形の平面形をしている。建物前面の南端に帯状に木造平屋建て桟瓦葺の付属屋が付くが、この部分は後の増築と考えられる。

外観画像
 内部は、壁に高窓が設置されているので予想したよりも明るい。目を引くのは、大規模なトラスを木造で組んだ珍しい構造である。まず、コンクリート造の基礎の上に、板を2枚合わせて柱として建て、その柱の根元に鉄板のプレートを付け、角度をつけて挟み梁を立ち上げている。柱の上部にはさらに挟み梁を入れ、上下の挟み梁の間を三角形に木材を組んでトラス構造としている。この木造トラスを約1間半の間隔で11列架け、各トラス間には桁行方向に5列トラスを組んで支えている。両端のスパンには補強のトラス組も入れている。注目したいのは、鉄板のプレートが基礎の部分にしか使われておらず、建設された時代の物資不足を反映してか、上部の接合部はすべて木製のプレートになっているところである。

内部構造

 ところで、他の3棟の格納庫のうち、2棟は鉄骨造だったが、土地の人の話では、戦後、鉄骨造の格納庫は積雪の重みに耐え切れずに2棟とも倒壊したという。意外にも木造トラス構造は耐久性が高かったのである。同時に、この格納庫を設計した技師の技術力の高さが感じられた。なお、入口の右手に和室が4部屋あるが、これは後の改造によるものとみなせる。


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立面図 平面図


 以上がこの建物に関する沿革と現況であるが、調査時の2007年には工場が稼動しておらず、機械は止まったままで、今後の活用が懸念されている。

 戦後、飛行場は地元住民の手で再び元の田畑に戻された。昭和41(1966)年には基地のあった南西部に大規模な丹後中央加工揚が建てられ、丹後縮緬の精錬加工が行われている。丹後機業の発展の象徴ともいえるこの工場が建つと、この場所が航空基地であったことが人々の記憶から消えていきそうであるが、実は基地を示す痕跡は他にもある。


 現存する格納庫の北側には、屋根が落ちた煉瓦造の弾薬庫が残っているし、その近辺には元の燃料倉庫(RC造、桟瓦葺寄棟屋根)も見られる。飛行場を平坦にするために造られた暗渠も残る。軍事施設などの近代化遺産は、全体をシステムとして捉える必要があり、格納庫を含めてこれらは群として保存されることが望ましい。それにより、近代化遺産としての文化財的な価値も高まるであろう。

弾薬庫・燃料倉庫
 


         (山田)
(参考文献:『青春群像一峯山海軍航空隊の記録』峯空会事務局、1973年、
河辺笑遊会「峯山海軍航空隊」河辺村づくり委員会発行、発行年不詳、
『大宮町誌』1982年)


本サイトの掲示板に投稿していただいた格納庫の再現グラフィックです。

初めまして、SA-ss(サズ) と 申します。そちらの HPを 拝見致しまして
資料から独自に考証し、第一格納庫と 第四格納庫の 当時の姿を 図で再現してみました。http://www2.wbs.ne.jp/~s-c/sa-ss/



記記事掲載に関わる情報

出典元 『京丹後市の近代民家と近代建築』 大場 修 編
提供元 京丹後市教育委員会 文化財保護課 平成22年11月24日


ページ作成日 平成22年12月24日

この建築物の存在する位置→ (−地図にリンク→−)地図の○印位置




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