京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。


峯山海軍航空隊・河辺飛行場の記録 前編

丹波の文化を伝承する会  嶋 田 信 行 氏
 



     丹波の文化を伝承する会の発行している会誌

          『旦波』 第九号  平成28年3月発行

   の中で【 峯山海軍航空隊・河辺飛行場の記録 前編 】として 嶋田 信行 氏が記事を書いておられます。今回は嶋田氏の許可を得て、本ページに掲載いたしたいと思います。

 記載内容は上掲記事をスキャンしてテキスト化したものに、以前に嶋田氏が発行された個人パンフ   「 峯山海軍航空隊(河辺飛行場)の記録の記述も挿入して作成いたしました。



 『旦波』 第九号 峯山海軍航空隊(河辺飛行場)の記録 
 



 なお、上掲冊子記事等は、本サイトの掲載する「峯空会」発行の「青春群像」「青春の軌跡」「青春の軌跡(続)」を参考・引用された部分に嶋田氏の子供時代の体験を交えて作成されておりますので重複箇所も多いと思いますがご了承ください。

(以下 貼付)




はじめに


 本年は日本が太平洋戦争に負けてから七〇年が経ちました。家に残された者・先人たちの苦労・口惜しさ・戦争の怖さ・人間の恐ろしさを残す為にこの原稿を企画・作成しました。

 なお、この原稿は嶋田氏の原稿を基に、故・峯空会会員宮本照治氏の収集物と「丹波の文化を伝承する会」が集めた資料で 「丹波の文化を伝承する会」が作成した。

 日本は、かつて、アメリカやイギリスを始め、殆ど世界中の国を相手にして戦争をしていました。小さな日本が、世界中の国を相手に戦争しても勝てる筈がありません。
 やがて、沖縄を占領され、広島や長崎に新型爆弾(後、原子爆弾だと分かる)を落とされて、昭和二十年八月十五日に連合軍に無条件降伏しました。


一、飛行場の沿革


           

 昭和14年頃から峰山と大宮の間に飛行場が海軍機操縦員養成機関として計画された。昭和19年3月鳥取県の第二美保海軍航空隊峯山分遣隊として発足。「赤とんぼ」と呼ばれる練習機が離着陸し、操縦員養成として、昼夜の練習が行われ、最後には特攻隊員として前線へ向かいました。

 昭和19年3月 141名の入隊
     5月 60名の入隊
     9月 90名の入隊

 昭和20年2月 姫路航空隊峯山分遣隊となる

 同   3月 航空隊に格上げされ、ここに峯山海軍航空隊が発足する。航空隊指令として小関大佐が着任する。

 昭和20年3月〜5月の間に日本国帝国海軍連合艦隊の下に艦隊や航空艦隊など13部隊が再編制される。

 峯山航空隊は第十航空艦隊の下に第十一連合航空隊と第十二・十三連合航空隊が出来、第十二連合航空隊(司令官城島高次少将)の配下に入る。

 峯山航空隊は陸上練習機で特攻隊員の養成を行い、菅原正雄大佐は観音寺航空隊も兼拐していた。

 峯山以外の第十二連合航空隊は宇佐航空隊(以下航空隊名を省く)、姫路、博多、大村、宅間、築城、元山、釜山、岩国、西条、福山、天草、光州、観音寺、諌早の十六航空隊で朝鮮も含んでいた。
  (『日本海軍編成辞典』より)

 昭和20年5月、作戦航空部隊第三航空隊(木更津基地)の第十三航空隊(大井隊)の指揮下に入り、1500名の隊員の外、他部隊からの訓練要員や戦闘作業要員を含めると、3000名となり特攻部隊も編制されるようになった。

 米軍からの空襲が始まると、5月以降は夜の訓練になり、峯山航空隊1年半の事故者は11名、5月以降は8名、特攻訓練中は6名。250s爆弾を抱えて連日の急降下の連続では、飛行機のエンジンや操縦士に無理がかかり、無理からぬ事。
 
 同7月、米軍機が鹿児島県志布志湾・宮崎県・土佐湾などに連日、偵察飛行を行うようになり、この方面に米軍上陸が強まったとして、峯山航空隊にこの三方面に特攻をかける任務が与えられた。8月に一期生として巣立った141名は、特攻隊員として17名、内地での殉職を加えると30余名が戦死した。

 8月15日、終戦当日の峯山海軍航空隊の在籍隊員は1585名、他の部隊からの派遣隊員は1749名で総数3334名の大所帯であった。

 ※8月15目、終戦当日、司令官が玉音放送の電源を切った為、隊員達は付近の村人や峯山飛行場へ復員して来た隊員から、日本が負けた事を知った。
 終戦以降、特攻(武・禮・義)各部隊は峯山へ帰り、忠部隊は鹿屋で解散。
 40〜50機の飛行機や気密書類は一昼夜かけて燃やした。


二、飛行場の造作


 昭和13年の夏頃から、今の大宮町河辺から峰山町新町にかけて、飛行場が出来ると言う噂が広まる。当時は中国と泥沼の戦をしていた。満州国とソ連国は、国境を越えた、超えないで争いをしていた。
 そこで対ソ戦を見据えて、軍港の舞鶴港を守るために、峰山盆地に飛行場が必要と考えられたと言われている。

 昭和14年春に約0.5Kmの買収の完了。2年後には第一期、第二期は南北1500m、幅80mが完成した。


○峰山盆地を取り巻く木積山・鞍禿山・長岡の城山・菅の愛宕山などの山上に大き な電柱が立てられた。

○中央に長く、幅50mの滑走路がアスフアルトで塗装される。

○兵舎は土地の余裕がないため小さい物 だった。通信基地も建設され貧弱ながら 飛行場らしくなっていった。

○大谷川の畔にあった河辺の氏神様(新宮)さんも遷された。

○工事は舞鶴鎮守府施設部が担当した。



○田や畑の埋め立ては地元の井野建設が請け負う。当時はダンプもブルドーザー もなく、すべてスコップ・鍬など人力で行われた。近隣の村人達や朝鮮の人達も 集められた。

○十七年頃には海軍の飛行機が編隊で来て、宙返りなどの曲芸飛行をやってくれて、学校から見学に行った。



○模型飛行機飛ばし大会

 太平洋戦争が始まる前から、いろんな資
材が不足するようになり、飛行場として中々使われなかった。

 昭和17〜18年頃が一番盛んだったと思うが、各学校の代表達が手に手に、自慢の愛機で腕を競いあった。秋晴れに、長い曳航策で飛ばしたグライダーが、風に乗り、善王寺の方まで飛んで行って、追いかける事もあった。


三 教育訓練


 昭和19年7月25日、練習生三十九期生120名が加わる。
 毎日離陸、着陸、旋回の訓練。練習機の後部座席には教官が乗り、精神棒で練習生の頭を叩いて叱っていたそうである。



 ◎練習空域

 練習空域は峯山飛行場を飛びたち進路を北に取り眼下の竹野川を北上する。

 日本海に出ると眼下に間人村が見える。間人村を海岸沿いに進路を西に採る。

 大きな川、円山川が見え、円山川を南下すると、北近畿最大の都巾、豊岡市が見える。

 そこを東に飛行すると元の峯山飛行場に辿り着く。この菱形の中での訓練が主なものだった。

 しかし、戦局が厳しくなる昭和20年には爆弾を積んで、漁船を目掛けての宮津湾や間人での急降下爆撃の練習が夜も昼も続いた。
 燃料不足やB‐29の空襲警報など、20年1月には大雪で飛行訓練中止、で思うように練習出来なかった。

 ○当時の練習生の歌

 「ジャンプしたとて こわしはせぬが
 耳の伝声管が やかましい
 ハイ ハイ返事は するけれど
 どこが西やら 東やら」
と歌いながら互いに慰め合い、厳しい訓練に耐えていた。
 海軍には「月月火水本金金」の言葉があって、訓練をしっかりすれば、敵に負けないのだと訓練に次ぐ訓練で、叩きあげられていた。


 ○訓練による事故
 最初の事故は19年12月周枳上空。編隊訓練中に空中衝突で二名死亡。
 昭和20年5月夜間飛行訓練中、識燈を見失い五箇山中に激突。
 終戦間際には、特攻隊で出撃するために宮津湾で夜間急降下爆撃の訓練で2名死亡。
 また、昭和20年2月には隠れて家族と面会した事が上官に知れて怒られ、その事を苦に日本刀で自刃。
 青年山防空壕の落盤事故で水兵が死亡。

何れも、17歳から20歳までの練習生や教官達です。


 四、練習機の性能(赤とんぼ)


 
正式名 九三式陸上中間練習機(翼が二枚・プロペラ木製・海軍練習機の傑作機で、5500機製造された。)


  (飛行機画像ミホ)
注 尾翼のミホは鳥取県の第二美保海軍航空隊所属を意味する。












▽寸度
  全幅 11m
  全長 8m08
  全高 3m20
 ▽重量
  自重 1,000Kg
  正規 1,500Kg
∇発動機
  天風 十一型 1基
  公称 300馬力
▽プロペラ
  木製 直径 2m75
▽燃料載量
  325リットル
▽性能
  最速 218q/h
  上昇時間・/高度
    13分25秒/3000m
    31分46秒/5000m
  実用上昇限 5880m
  航続力 665q/139q/h 高度1000mm
  着速   94q/H
 翼面荷重 54.2s/u
 馬力荷重  5.0s/HP



 昭和19年9月頃には、飛行機に使うガソリンも無くなって、「ア号燃料」というアルコールで飛行機を飛ばしていた。


 ○航空燃料
 飛行作業実施日数は3月は16日、4月26日、5月は20日、6月は14日、(4ヶ月で76日)

 特攻隊員三十九期生の標準飛行回数は150回で100時間、夜間は70時間。
 燃料消費料を一時間百リットルとして、一人で1万リットル、100人で100万リットル、ドラム缶5500本に相当する。
 航空燃料は峰山駅から馬牛等でドラム缶を運び、飛行場の片隅に積み上げた。



五 特攻部隊出来る。



 「神風特別攻撃隊飛神隊」の下に「忠」・ 「武」・「禮」・「義」の部隊が出来た。

○7月14日、飛神隊の忠部隊40機50名が鹿児島県鹿屋特別基地に出発。

 「神風特別攻撃隊飛神隊」の下に「忠」・ 「武」・「禮」・「義」の部隊が出来た。



○7月14日、飛神隊の忠部隊40機50名が鹿児島県鹿屋特別基地に出発。

(忠部隊の発進写真本サイトの別写真を転用)









○7月19日、武・禮・義3部隊52機68名が山口の岩国基地へ出発。


(武部隊の発進写真本サイトの別写真を転用)



  その後、禮と義の二部隊は山口県の藤河と広島の可部に配属になる。








○8月14目、藤河と可部の部隊に出撃命令下る。両部隊とも燃料を満タンにして命令を待っていたが、翌日終戦になり命救われる。


六、丹後の主な空襲


 丹後には、B‐29、グラマンTBF、グラマンF6F、P−53が飛来して、相当な被害や戦死者を出している。



宮津

 7月頃から米軍は機雷を投下。

 30日、宮津空襲。湾の「初霜」(戦艦大和の護衛艦)はグラマンを追撃中触雷し大破。15名死亡。


 駅周辺1名死亡。桜山周辺爆弾4発で5名死亡。上宮津周辺、機銃掃射で2日後1名死亡。


(初霜乗り上げ写真本サイトの別写真を転用)

 ※米機墜落 30日、午後4時頃、文殊街道杉ノ末よりにグラマン墜落。中には東洋の地図一日本地図一大阪中心の地図一釣り道具・反射鏡があった。(戦後、遺骨を引取る)


伊根

 七月二八日、潜水母艦8000トンの「長鯨」が投錨した。
30日、午前6時頃、艦載機グラマン(F4U・F6F等)が三機襲来。艦砲を行うも爆弾数発が命中した。1発は司令塔に命中し大破。百余名死亡する。爆撃の後、黒鯛など浮き上がる。空襲後、軍より「船を隠すため、枝葉の付いた孟宗竹一万本を供出せよ」の命令。灯火管制の中、徹夜の作業で朝には「長鯨」と宮津から逃げて来た「雪風」の巨体はすっぽりと漁網と青竹で偽装された。


峰山

 峯山飛行場は本土に空襲が始まると、偽装した飛行機を何機も並べていた。

 30日、B一29上空通過。
 その後、飛行場は敵艦載機55機により、午前午後の3回に渡り空襲を受け、爆弾が2発命中し、大穴が空いた。
 米機が去ると直ぐ滑走路を修理した。格納庫も銃撃される。練習機4機損害、戦死3名、戦傷6名。
 飛行場四隅の機関砲を撃っていたが、当たらなかった。
 河辺村の民家や国民学校に対してロケット弾があり、新町村民家の蔵に機銃掃射があった。「母は蔵の中にいて怯えていた。」と聞いている。また、梁にその跡が近年まで残っていた。
  「矢田橋の手前で女子学生が機銃掃の音で振り向くと連れが亡くなった。」と親父から聞いた。
  

加悦

 明石・石川・香河・金屋にも機銃掃射や焼夷弾の投下があり、多くの家が焼け落ちた。また、金屋には機雷(与謝全域で7個)落とされたが、何発かは不発弾で、村役場で解体された。中には銅線や歯車が多かった。直径50Cm、長さ2mくらいで今のプロパンガスボンベ位ある。


舞鶴

 港には米軍の機雷の投下があった。そのため。港に停泊していた軍艦等は前記のように宮津湾、伊根湾や福井県の小浜港に避難していた。
 7月29日、午前8時頃、舞鶴海軍工廠の第一造兵部水雷工場付近に爆弾が落ち、工員、反子学生、挺身隊員等97名の死者が出た。この時、落とされた爆弾は原子爆弾の投下訓練を目的とした模擬爆弾だと、後に言われるようになっている。

 翌、30日も何派にも渡る空襲があった。




 参考・引用文献
 1、『日本海軍編成辞典』2000年 芙蓉書房発行
 2、『青春の軌跡』平成7年 峯空会
 3、『青春の軌跡・続』平成16年 峯空会
 4、『両丹地方史』第63号
 5、『日本陸海軍航空要覧』根本正良
 6、『軍用機知識ABC』イカロス出版






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平成28年11月8日作成
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