京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。



峯山海軍航空隊(河辺の飛行場)の記録
 

峯山海軍航空隊(河辺の飛行場)の記録

はじめに

 日本は、かつて、アメリカやイギリスをはじめ、殆ど世界中の国を相手にして戦争をしていました。小さな日本が、世界中の国を相手に戦争をしても勝てるはずがありません。やがて、沖縄を占領され、広島や長崎に原爆を落とされて、昭和20年8月15日に連合軍に無条件降伏をしました。

 それから40年余の月日がたちましたが、その戦争中、河辺から峰山町新町にかけて、海軍の飛行場が造られ、「赤とんぼ」と呼ばれる練習機が離着陸していたとこともだんだん人々の心から忘れ去られようしています。

 そこで集められたで集められた資料をもとにして当時を振り返ってみたいと思います。しかし、戦争中であった当時は村に残っていたのは、老人と女と子どもたちだけでした。そのころのことをよく知っておられた方達も少なくなりきちんと記録できないこともたくさんありますが、忘れ去られようとする戦争をもう一度見直すために、戦争の記録として整理してみたいと思います。

【1】河辺に飛行場ができるぞ!

 日中戦争がはじまってしぱらくたった、昭和13年(1938)の夏ごろから、河辺や新町を中心とする峰山盆地の村々で「河辺に飛行場ができるそうだ。田んぼはみんな軍に取りあげられるそうだ。」というひそひそ話が波紋のようにひろがっていきました。そして、秋の稲刈りが終わり、とり入れがすむと土地の強制買収の交渉があったことがうわさされはじめましたが、人々は戦争が身近なものとして迫ってきたことをひしひしと感じさせられました。特に田んぼをごっそりとりあげられる河辺や新町の人々は、死活問題だったと思いますが、「これもお国のためだ。しかたがない。」と一言も文句を言わずに買収に応じました。

 当時、日本は中国に侵入し泥沼のような戦争をしていましたが、他方、満州国とソ連・外蒙古(蒙古人民共和)との間で、国境をこえたとかいやこえないとか、そういった争いをたびたびおこしていました。それは、国境線がはっきりしなかったからですが、うっかりすれば、ソ連との間でも、いつ戦争になるかもわからないような雲行きでした。 そこで、対ソ戦に備え、舞鶴の軍港を守るために戦闘機を中心とした航空基地がどうしても舞鶴の近くに必要になってきたわけです。

 そこで海軍では若狭湾沿岸から山陰海岸にかけて物色しましたが、これはと思われるようなよい場所がなかなかみつからなかったそうです。はじめは弥栄盆地がよさそうだと検討されましたが、周囲の地形や風向きがよくないということで、他の土地をさがした結果、峰山盆地の河辺から新町にかけての竹野川東側の約0.5平方Kmの田んぼが選ばれたわけです。


【2】氏神さまも移動して

 昭和14年ごろからぽつぽつ飛行場建設の準備がはじめられていきました。その一つとしてヽ当時の大谷川の畔に村の人々が「新宮さん」とよんでいた河辺の氏神さんがありましたが、その社が今の場所に移されました。広い田んぼの真ん中にうっそうと大きな木の茂った「新宮さん」がなくなったことは「河辺に飛行場ができるそううだ。」ということを、それはうわさではなくてほんとうのことなんだというように人々に教えました。

 工事は舞鶴鎮守府施設部が担当しましたが、大谷川の改修や、田畑の埋め立ては河辺の井野建設という会社が請け負ってあたりました。
 当時は、ダンプカーもプルトーザーもありませんでしたから、埋め立てZ:てや暗渠の溝はすべて人の手で土が運ぱれ、穴が掘られていきました。そのためにたくさんの朝鮮の人達や近くの村の人達が集められて、夜を日についでの突貫工事が進められました。

 今まで一等田と言われた美田が、トロッコのはき出す土でうずめられて、桑畑がローラで見ているうちにおしつぶされていく様子を見て、村の人達は、今さらながら戦争のきびしさを思い知らされたそうです。

 そして、昭和16年には南北約1km、東西約500mの飛行場の形ができあがりました。


【3】 模型飛行機とばし大会


 せっかくうめたてて地ならしをして、つくりあげた土地も、日中戦争の長期化による資材難と、ヨーロッパでドイツ・イタリアが第二次世界大戦をおこして、日本の方針も次々と変えなければならない事情もあったりしてすぐに飛行場として使うようなことにはなりませんでした。

 当時の小学生や中学生の間では、手づくりで模型飛行機やグライダーを作ってとばすことが全国的に大流行しました。峰山まで歩いて行って、竹ひごや材料を買ってきて、男の子たちはみんな一生懸命に模型飛行機を作ったものです。特に昭和16年12月8日、日本もアメリカやイギリスと戦争をはじめ、飛行機の活躍が新聞やラジオで報道されると、学校でもどんどん作らされるようになりりました。

 その模型飛行機をとばす大会が9月20日ごろに飛行場でもたれて、各学校の代表たちは、手に手に自慢の愛機を腕に記録を競いました。
大会は昭和16年頃から行われたと思いますが、もっとも盛んだったのは昭和17年、18年でした。秋晴れの日に、長い曳航索でとばしたグライダーが、風にのって空高く舞い上がり、善王寺の方まで飛んで行って追いかけるようなこともあり、当時の少年たちにとっては忘れることのできない楽しい思い出でした。

 また、昭和17年ごろには、海軍の飛行機が編隊でやってきて、宙返りなどの曲芸飛行をやって見せてくれるというので、学校からみんなで見学に行ったこともありました。


【4】山の上まで電柱が


 日本が太平洋戦争をはじめた最初のころは、飛行機をじょうずに使って戦局を有利にしていましたが、昭和17年6月5日、ミッドウェイの海戦で、4航空母艦をはじめたくさんの飛行機を失ってからだんだんと旗色が悪くなってきました。

 ちょうどそのころから、峰山盆地をとりまく高い山の頂上へ向けて、大きな電柱の列が次々と立てられていくのが見えました。木積山、鞍禿山、長岡の城山、菅の愛宕山などがそうですが、どうしてそんな山の上へ大きな電柱が立てられるのかだれもわかりませんでした。



【5】滑走路や格納庫ができる

 ミッドウェィ海戦以後、たくさんの飛行機と航空兵を失った海軍は、おくればせながら航空機操縦貫の大量育成に取り組むようになりました。当時の少年雑誌には予科練習生の記事が次々とのるようになり、ラジオからは予科練の歌が毎日流れてくるようになりました。

 河辺の飛行場も練習航空隊として構築されるこヽとになり、昭和18年に飛行場として本格的に整備されることになりました。
 中央に南北に長く、幅50mの滑走路がアスファルトで舗装され、格納庫も建設されました。兵舎は土地の余裕がないために小さなものしか建てられませんでしたが、通信基地も建設され貧弱ながら飛行場らしく整備されていきました。


【6】第二美保航空隊峯山分遺隊        
 昭和19年3月15日、陸上中間練習機による操縦術練習航空隊として第二美保海軍航空隊峯山分遣隊が発足しました。当時このような隊は、内地に6ケ所外地に2ケ所ありましたが、同じ時に築城空、第二郡山空、峯山空と三つが新設されました。
 教育を受ける練習生は予科練を卒業してきた飛行練習生たちですが、最初は、飛練37期生、1 4 1名が入隊しました。しかし、5月になると土浦で教育を受けた60名が合流し、約200名となりました。

 兵舎は、縮緬の精錬工場の建物と、善王寺の鎌田工場が買収されて使用され、余部の精錬工場が本部庁舎となりました。練習生や教官たちは全部、善王寺兵舎に収容されました。練習生と一緒に他の海軍の兵隊たちもやってきて、最初は600名くらいでしたが、12月には1、200名、昭和20年7月には、3、000名くらいにふくれあがりました。

 飛行機は主として霞ケ浦海軍航空隊から運ばれましたが、「93式陸上中間練習機」という、翼が二枚ある、木製プロベラをつけた簡単なものでしたが、海軍練習機の傑作と言われるほど、当時としては立派なものでした。


 〈資料〉
  93式陸中線性能等一覧(省略)


【7】峯山海軍航空隊として独立

 昭和20年2月に姫路航空隊峯山分遣隊に変わりましたが、翌月である3月1日には正式に峯山海軍航空隊として独立しました。そして航空隊司令として小関大佐が着任し、練習機も約1 0 0機余りがそろえられました。

 練習生は19年7月25日39期生1 2 0名が加わり、全部で320名ほどになりましたが、毎日離陸、着陸、旋回の訓練にはげんでいました。 練習機の後の座席には教官が乗っていますが、太い木の棒を持っていて、前に乗っている練習生の頭をたたいて叱ったそうです。

ジャンプしたとて こわしはせぬが
耳の伝声管が やかましい
ハイ ハイ返事は しているけれど
どこが西やら 東やら

 練習生たちはこんな歌を作って、自分たちで一緒に唄いながらおたがいを慰め合い、きびしい訓練にたえていきました。
 海軍には「月月火水木金金」ということばがあって、飛行機や軍艦が少なくても、訓練をしっかりやれば敵に負けないのだと練習生たちは訓練につぐ訓練でたたきあげられていきました。

 37期生200名は昭和19年8月29日に卒業し、それぞれの戦場に向かって出発していきましたが、終戦までの一年間に24名の人たちが戦死されたそうです。


【8】なくなった若人

 昭和19年9月20日に、第41期生90名が練習生として入隊してきましたが、そのころになると飛行機に使うガソリンもなくなって「ア号燃料」と呼ばれるアルコールで飛行機をとぱしました。37期生たちの卒業したあとは、39期生が中心となって訓練を受けましたが、燃料が不足したことや、時々B−29の空襲警報がでたり、20年1月になると大雪が降って飛行訓練ができなくなり、福岡航空隊基地へ練習生全員を移して訓練したりで、思うように練習できなかったようです。

 峰山盆地の上空を練習機が飛んでいたのは、わずかに1年3か月ほどの間でしたが、その間に10名余りの若人がなくなりました。19年12月9日、周桐上空で編隊特殊飛行訓練中、空中衝突により墜落、2名死亡。これが最初の事故ですが、福岡へ行って訓練をしていた時に、練習生の一人がこっそりかくれて家族の者と面会したことが上官に知れ、練習生全部が叱られたことを苦にして日本刀で自殺するという悼ましいこともありました。(2 0.2.22)

 また、青年山防空壕で落盤事故で水兵が死んだり、(2 0.4.5)、
夜間飛行中標識燈を見失い、峰山町五箇山中に激突して殉職した人もあります(2 0.5.14)。また、終戦間近には特攻隊で出撃するために、夜間急降下爆撃の訓練を宮津湾でしていた、2人の若人が殉職しました。
 いずれも、17才〜20才までの練習生や教官たちでしたが、訓練といってもいつでも命がけでしなければならなかったのです。

【9】空襲だ!(昭和20年7月30日)

 昭和19年7月のサイパン島の陥落により、日本本土へのアメリカ空軍の大々的な空襲がはじまりました。11月24日、B−29約70機による最初の本格的な東京空襲が行われました。空襲は20年になるとますますはげしくなり、東京、大阪、名古屋をはじめ全国のおもな都市に、数十機から数百機の大編隊が夜昼の別なくおそいかかってきました。

 こんな日本の状態でしたが、7月29日まで舞鶴も宮津も河辺の飛行場も爆撃を受けることはー度もありませんでした。
 ところが、とうとう7月29日に舞鶴海軍工廠を、7月30日には舞鶴湾、宮津湾に240機余り、河辺の飛行場に約55機空襲してきました。どの飛行機もグラマンという戦闘機でしたので、そんなに大きな損害はありませんでしたが、飛行場が爆撃、銃撃されました。練習機2機炎上、1機大破、1機小破、木造格納庫小破、戦死3名、戦傷6名、滑走路に250kg爆弾爆発、誘導路畑中に1発、ロケット弾1個命中というような被害がありました。 グラマンは午前から午後にかけて3回もやってきて、飛行場を中心にして、河辺、新町の民家にも機銃の雨をふらせて立ち去りました。
 練習機の被害が割合少なかったのは、新町や河辺の山に練習機をかくす防空壕がほってあり、いち早くそこにかくしたからです。


 【10】ああ、特別攻撃隊!

 第39期生が昭和20年7月9日にやっと卒業することになりました。卒業前に自分の乗りたい飛行機の希望を全員が書かされたのですが、「特攻隊」と書く者が少ないと言って、教官たちに夜おそくまでものすごく叱られたそうです。

 当時の日本は、昭和20年6月に沖縄を連合軍に占領され、軍艦も飛行機も、目ぼしいものはみんなやられて、海軍は最後の方法として、飛行機に爆弾をつけて飛行機もろとも敵艦に体当たりする、特攻隊戦術をとらざるをえませんでした。そして、とうとう練習機まで特攻隊として出撃せよという命令を受けたわけです。戦争に出る飛行機でさえも、そのころ敵の軍艦に近づくことがむずかしいといわれる時、足のおそい練習機で敵艦につっこめということは、ほんとうに無茶なことでしたが、当時の若者連は、表面ではよろこんで志願して峯山航空隊から出撃していきました。

 第1陣、特別攻撃隊峯山航空隊飛神隊、忠部隊40機は昭和20年7月14日、九州の鹿屋特攻隊基地をめざしてとびたっていきました。
 第2陣、武・礼・義部隊52機は7月19日に、峯山航空隊の人たちの見送る中を編隊を組んで出発しました。
 「国のためだ。あとに残った者たちのためだ。願わくば、我が死後の顔よ、ほほえんでいてくれ。」と、遺書を残して出撃していった若者たちでした。出発の日は秘密にされていましたが、河辺、周根、□大野ヽ善王寺など中郡中の村々の人たちに親しまれていた航空隊の人々のようすから、すぐにわかったらしく、村人たちも大勢見送りに来ていたそうです。峯山海軍航空隊の特攻隊は岩国や、鹿屋航空隊で敵の軍艦が来るの、をまっている間に終戦にってしまって、実際に体当たりした飛行機はなかったようです。



おわりに

 やがて、昭和20年8月15日に終戦となり、峯山海軍航空隊も解隊され、若人たちもそれぞれの故郷へ帰っていきました。河辺の飛行場も滑走路も、またほり起こされ、元の地主たちに返されて、田んぼや畑にされていきました。
 今では、真ん中を国道バイパスが走り、家が建てられてどこに飛行場があったかと思えるほどわからなくなっています。
 しかし、40年余り前には、大勢の日本の若者たちが戦争という無情でざんこくな現実の中で、いつ死ぬかもしれないきびしさを見つめながら過ごした夢の跡が河辺の飛行場だったのです。



参考文献 「青春群像」
     「語りつぐ京都の戦争」


記  昭和52年8月 、
修正 平成5年8月
文責 嶋田 信行






峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!


平成28年11月8日作成
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