京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

伊根空襲の記録 

宮津の古川さんの紹介により

 伊根におすまいの つぎちか さんのブログのなかで、昭和20年7月30日の丹後空襲の時の「伊根空襲」の記録を読ませていただき、貴重なものと思い、了解のうえで本サイトにも貼りつけさせていただきます。

出典元 : http://ameblo.jp/tsugichika/entry-10966726582.html






 昭和20年(1945)7月30日午前6時すぎ、空襲警報とほとんど同時に、米軍艦載機グラマン3機が青島裏の南方上空より飛来


 伊根湾内の立石沖に停泊中の潜水母艦「長鯨」(5160トン)に対し、3発の爆弾を投下し機銃掃射をあびせかけ、そのうちの1発の爆弾が指令塔に命中し、大爆音と共に指令塔がくずれおちた。


 コレガ伊根空襲!!!僕が小学生のころは、登校日でもあり空襲を体験した老人に話を聞いた。今は、知らない人もいるのでは。。。

 
 「長鯨」が伊根湾内に入港したのは、前日の7月29日夕刻舞鶴より廻航し投錨していた。





 当時小学生だった親戚の方に聞いた話では「おっきい菊のご紋が船首に入った戦艦が入ってきてビックリした〜」って言ってはった。

 潜水母艦とは、動く潜水艦基地としての任務を持っており、艦内に潜水艦乗員の休養所を設け、おのれの持てる工作能力によって潜水艦の故障を修理し、燃料、糧食、衣類、真水、魚雷、弾薬などを補給する。


 また、潜水戦隊の旗艦として潜水隊2ないし3隊を率い、戦隊司令官が座乗、戦隊の指揮をとる。したがって司令部設備を持ち、すぐれた指揮・通信能力を備えていた。


 このときに湾内には潜水艦も一隻入港しており、後日「長鯨」乗組員の語るところによると、爆撃が行われたのは、この潜水艦からグラマン機に対し発砲したことが直接の動機となり、「長鯨」に対する攻撃が始まったといわれる。

 潜水艦は発砲すると海中に姿を消したが、「長鯨」に対するグラマン機の空襲は、その後約2時間ごとに6回襲来し、米軍艦載機グラマン45機が15機ごとの編隊を組んで、くりかえし攻撃を加え、午後5時過ぎごろまで延べ200機以上に及んだと数えられている。


 一番激しかったのは午後2時ごろから三時ごろの空襲で、グラマン機が低空で襲いかかり、爆弾と機銃掃射をあびせかけ、山は鳴り、家は揺れ、伊根湾内は機銃の嵐と爆弾の水柱が立った。 それに反撃して「長鯨」からは、8センチメートル高角砲二基と、14センチメートル連装砲二基により迎え打ち、激烈な戦闘がくりかえされたのである。


 この大空襲により「長鯨」艦長溝畠定一海軍少将以下約400名の乗組員中、105名が戦死し、負傷者も約100名にのぼった。(当時の乗組員中最年少者は16歳の少年もいた)



空襲のあと


 第一回の空襲の直後、当時在郷軍人、警防団員などが、小舟にて消火に出掛けたが、再襲来があれば危険であるから引き返すよういわれ、戦闘が終わったあと、湾内に浮ぶ遺体の収容に全力をあげた


 翌31日に「長鯨」は自力で青島の湾内側に避難し、村民は村中総出で樹木や竹林を切り、偽装した。小学校の桜の木もこの時に切り倒して運搬している。


 その後「長鯨」は、修理されて引き上げ船として多くも人を運んだ。


 この空襲の際に一般地域住民のうち、老人や子供は多くいも穴(甘藷保存用)に避難したり、裏山にふとんを運んで逃げるものや、家屋内にいて畳を立てあげ、その間に身をかくすなどさまざまであった。


 また爆弾投下によって、伊根湾内の黒鯛、鱸(すずき)、コノシロなど無数の魚が海上一面に浮き、漁民は空襲の合い間をぬって持ち帰り、コンロに火をおこして焼いて食したと語りついでいる。


 戦死者の遺体はその後数日間にわたり、大浦火葬場の前庭にて荼毘(だび)に付され慈眼寺に安置された。

 

        「一切口外せざる様……」


 105名の戦没者と、多くの負傷者を出した伊根大空襲の記録は、当時、軍の命令として、役場の公的書類をはじめ、何も残されていない。


ただ一つの当時の記録としては、伊根小学校の7月30日付の学校日誌に、日直の教員から校長への伝達事項として「注意、艦ノ被害状況等ニ就テハ一切口外セザル様周知セシメラレタシ」とのみ書き残されている。





     長鯨戦没者追悼法要


 昭和五十七年(一九八二)三月、「軍艦長鯨戦友会結成準備会」が結成され、墓碑を火葬場より慈眼寺境内に移し、同年七月二十四日午後五時より、戦友会の主催による「軍艦長鯨戦没者之英霊追悼大法要」が修行され、第十一潜水戦隊の関係者家族八三名が参集し、盛大に追悼回向が営まれた。


 毎年7月31日には長鯨の慰霊碑には、日章旗が掲げられる。


 たまには真面目なお話もしないと〜


 大切な伊根の歴史です。

資料より転載しました。





峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!


平成28年11月作成
inserted by FC2 system