京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

このページは、
『ある零戦パイロットの軌跡』」 川崎 浹「著」
から転載しました。

峯空会会長を務められた 「小町 定」教官は、Web上にもいろいろ記述があり、すごい人物であることがわかりました。 本来ならばその記述ページをリンクで紹介するのが正しいのですが、時間がたつとリンク切れになったりすると記事が失われてしまうこともしばしば経験していますので、峯空と関係がある一部を編集して本ページに保存します。
本稿の出典元は トランスビュー の  『ある零戦パイロットの軌跡』」 川崎 浹「著」です。http://www.transview.co.jp/17/text.htm
詳しくは上記をリンクください。

本サイトのページから

峯空時代の小町上飛曹


小町 定氏の峯空会誌「青春群像」への投稿記事
「無念の歯がみ怺えつつ」(自身の略歴も含め)を開く
おなじく「〈座談会〉小町先任教員を囲んで」を開く。

峯空会誌「青春の軌跡(続)」への投稿記事
「中練特攻隊に加えられなかった搭乗員たち」を開く

ウイキペディアにおける小町 定氏の記述


(昭和17年)初頭、空母「翔鶴」にて ウイキペディアより貼り付け


2003年の小町 定氏の肖像 
零戦の会ホームページにリンク
小町定氏は2012年7月15日(満92歳)逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。 

日本海軍撃墜王の序列 (2012年7月リンク切れ)このページによれば
小町定氏は 項目23番目、序列15位で最終階級は 飛曹長 撃墜機数は18機となっています。

 
 『ある零戦パイロットの軌跡』川崎浹[著]
本文(一部抜粋)

はじめに

 戦争は長いあいだ人類を苦しめてきた。にもかかわらず、私たちは戦争をやめようとしない。近い過去の戦争もまだほんとうの意味では終わっていない。これと正面から向き合わなければ、新たな戦争が性懲りもなく続けられるだろう。
 防衛庁戦史室で資料を閲覧している間に、私は、そのことを身近に思い知らされた。毎日かならず資料室のカウンターで、だれかがあの戦争の体験を語り、だれかが自分の部隊が派遣された場所の正確な地名を知りたがり、だれかが父祖の戦没の場所と状況を確かめに訪れ、だれかが係員に自分の戦争論をぶつけている。あの戦争に種々の側面から光をあて、正確に知ることが、私たちの将来への指針ともなるだろう。

 とはいえ、私は最初、あの時代にしかなかった戦闘機乗りという職人の技法に興味をおぼえたにすぎない。どんな分野であれ、技法一般については入門書に書かれているが、実際にそれを用いた本人の言葉を聞くと、マニュアルにはない臨場感が伝わってくる。いまの時代には用いられることのなくなった技法が、歴史の闇の中に消え去るのを残念に思い、私は素人の視点でそれらを記録にとどめることにした。

 しかし戦闘機乗りの技法と呼ばれるものは、やがて連続する戦闘で実践されることになるので、本書の構成上、私もまた日米戦争の経過を追わねばならなくなった。これまで私は、日米間の空と海での戦争を部分的にしか知らなかったので、語り手小町定へのインタビューを機に、自分の中で、日米戦争を「点」の寄せ集めではなく、一本の「線」で結ぶことを試みた。その際、自分自身を納得させるために、珊瑚海海戦や南太平洋海戦のイメージを日米両側の資料によって構成した。私が目ざすのは「誇張のない事実」である。

 生死の最前線に立った一パイロットの軌跡を追うことで、私は、今にいたる日本の戦後を問い直したいと思った。小町定のある種の発言に対して、若い人のなかには違和感をおぼえる向きもあるだろうが、私は一時代の証言として、あえて発言の内容に手を加えなかった。

 暴力の極みである戦争についての記録をものしながら、私の救いの一つになったのは、主人公の小町定が、当時の軍隊では当たり前だった制裁としての体罰を、部下にいっさい加えなかったこと、さらにはそれを「海軍の欠陥」として、正面きって批判していることである。暴力装置のなかにありながら部下に暴力を振るわない、という矛 盾を背負うことのできた将兵は、戦時中の日本の軍隊ではめったにいなかった。とりわけ下士官階級においてはそうだった。この矛盾を貫いた小町元飛曹長の生き方にこそ、戦後日本の復興をになう平和への、潜在的な意志と力が秘められていたのだと私は思う。

1 海と空で

誇張のない事実を

 私が生まれてものごころついたころには、もう日中戦争が始まっていた。子供たちは軍国少年になった。知識人や作家や詩人をふくめ、「人びとは正義と真実のためと信じて戦争に突入した」(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)。当時、国のとるべき方針としてほかに方法はないかと公言する者は、例外を除いてほとんどいなかった。こうして日本は不幸で愚かな戦争に突入し、多くの犠牲者をだした。「かれらは戦争で無駄死にした」として過去を反省しなければならぬ、という意見がある。しかし私は、太平洋戦争を無意味な消耗と思ったことは一度もない。不幸な時代に遭遇して自分の命を投げだした人々のおかげで、私たちは今の平和を得ている。その結果をどう生かすか殺すかは私たちの選択しだいだ。愚者には、挫折してこそ賢者になる道が残されている。

 太平洋戦争の歴史をたどりながら、私はこれほど戦争にかけた情熱と執念を、地球規模の平和の構築に逆転させることはできないものだろうかと考えた。戦争の暴力で解決するより、理性の枠組みで平和を築くことのほうがはるかに難しい。

 ワールドカップの選手たちの俊足に拍手をおくりながらも、私には選手たちと同年配であの世に去った、半世紀以上も前の青年たちの姿が重なりあう。
 アメリカはつねに「正義」の戦争を闘ってきたので、戦争にかかわった人々にはヒーローの称号と名誉があたえられる。だが日本では強制された者もふくめて、戦争参加者はアンチヒーローとしてあつかわれる。私がこれから始めるのはヒーローの表彰ではなく、アンチヒーローたちを闇の部分からすくいとることである。そこに、昭和の戦中戦後を生きてきたタイプのひとつが浮上するだろう。

 昔の農家の家庭はいちように貧しく、子だくさんだった。小町定は農村で半農半商(製綿)の七人兄弟の三男として生まれた。かれは上昇志向のつよい少年だったので、養子先から逃れて海軍を志願し、少年航空兵になった。
 数年前に刊行された神立尚紀氏の『零戦の二〇世紀』で、近年の小町さんのプロフィルがこう紹介されている。「初めて会ったとき私は、その堂々たる体躯、体じゅうから発散される迫力に、まず圧倒された。しかし小町氏は、苦労人だけにとっつきは少々おっかないが、一旦腹を割って話せるようになると実にやさしく、またひじょうにシャイな人であることを知った」。
 昔の日本人で一八五センチの長身というのは珍しかった。小柄な人が多いパイロットのなかでは、頭ひとつ分だけ抜きんでていて目立った。だが神立さんのいう「荒武者」小町飛行兵曹長も、さすがに八〇歳の声をきくころから、壮絶な空中戦の後遺症があらわれ、歩行も困難になってきた。

 私は氏の記憶力がひどく衰えないうちに、「誇張のない事実」を聞きとり記録しようとつとめた。この本の趣旨は「誇張のない事実」の公開である。かれへの二五回に及ぶインタビューを重ねていくうちに、戦局や戦況、戦闘現場の幾百ものイメージが、私の脳裏で形をとりはじめた。ふしぎなことに、小町飛曹長が操縦するさっそうとした零戦や紫電改の両翼には、朝夕の青空にたなびく飛行機雲のように、幾条にもなって、つねに死者たちの霊がびっしりと列をなしているのだった。
 だが私がいまから始めるのは、かれらへの慰霊ではなく、かれらが行なった事実の復元である。慰霊を行なうのであれば、「内向き」の自分の国だけでなく、犠牲になった他国の人々をも同時に慰霊しなければならない。これは大規模な国家的行事であり、非力な私ひとりでできることではない。

 私の仕事は、ひとりの人物の言動をとおして、いくつかの主要な太平洋海戦にかかわり、そこで亡くなった人々の存在を記憶にとどめることである。戦争の実相を知ってこそ平和の意義を実感し、かつその意味を問うことができる。「戦争」に対してアレルギー反応を示す人も多いなかで、左右の偏見にとらわれず、私は謎解きのつもりで執筆に挑戦した。小町定へのインタビューは、生きて還った元飛行兵曹長の軌跡をたどりながら、膨大な死者たちの行列を前にし、面識はなくともかつて固有名詞をもった存在者たちと出会い、人間が生きることの意味を問い直し、また自分にとって太平洋戦争が何であったかを考える旅ともなった。・・・・


2 まさかの日米開戦 真珠湾 インド洋

日米衝突の真相

 日米の軍事衝突は起こるべくして起こった、という福留繁元参謀の明快な視点がある。ひとまず私もこれに同意しよう。欧米諸国が先にアジアに侵出して利権を獲得し、この維持につとめた。つぎに資源のとぼしい近代日本が富国強兵策をとって、おそまきながら欧米の侵略と植民地政策にならおうとした。こうして半世紀あるいはそれ以上の時差をもつ日本と米国の二つの政策が衝突した。

 明治四二年(一九〇九)にアメリカはハワイを太平洋の海軍基地にしたが、日本も米国を仮想敵国として国防方針をかためた。一〇年後アメリカは日本を警戒し、情報網をはりめぐらせる。

 一九三〇年代から日本はいっきょに軍国主義への傾斜を深めた。昭和六年(一九三一)の日本陸軍による旧満州への進出、一二年の中国への侵略、一五年九月に締結した日独伊三国同盟、一六年七月の仏領インドシナへの侵出に対し、アメリカ政府はそのつど危惧をいだき警告を発した。日米交渉の段階で、アメリカは最終的に日本に中国からの撤兵と、三国同盟の破棄を求めた。しかし日本陸軍は、中国大陸での戦争で一〇万人の死者と二〇万人の傷病兵を出していたので、アメリカの要求をのむことができなかった。とはいえ政府首脳、とくに海軍は国力にまさるアメリカと戦争する気はなかったが、ヒトラーと連携した松岡外相が強硬な反米姿勢をとり、これに少壮軍人や右翼、ジャーナリズムが呼応した。こういう場合には、相手国からの抑圧感と自国の屈辱感ばかりが強くなるようだ。

 近衛文麿を首相とする日本政府は、アメリカ政府の一貫した強硬姿勢を過小評価してきた。そのうえ陸軍は、アメリカの工業生産力や国民性についても驚くほど無知だった。陸軍大臣は「アメリカの軍隊は腰抜けである」と頭から信じていた。このため、昭和一七、八年ガダルカナルで苦戦するまで日本の将兵はそう思いこんでいた。

 実際にアメリカと戦争になれば太平洋が戦場になる。前面に立つのは海軍である。その海軍は永野修身軍令部長が戦争防止に対して及び腰で、優柔不断のまま、逆に日本海軍の艦船維持トン数と石油保有量の限度を二年と予想して、アメリカとの短期決戦にそなえる道筋を用意した。しかし、では開戦三年目に、決戦の成果を外交陣が生かして、日米間の懸案を解決する手だてはあったのか。先を見通すことのできる卓越した人物が日本の指導層には一人もいなかった、というのが奥宮正武元参謀の結論である。また、一人や二人では、国を動かすことが不可能な時代でもあった。

 ソ連と不可侵条約を結んでいるドイツと手を組めば、ソ連からの脅威がなくなると陸軍は考えた。しかしドイツがその後ソ連に侵入したことで、日本としては三国同盟を結んだ意味がなくなった。それでも、インドまで進出するであろうドイツ軍と、日本軍は現地で合流するという空想的な計画をいだいていた。だが日本が真珠湾を攻撃した日に、ドイツ軍がモスクワ攻略から撤退した事実は、あたかも運命が日米開戦の初日をねらって、日本の選択が誤算だったことを仄めかしたかのようである。

 アメリカは英豪蘭とともに対日包囲網をつよめ、最後に石油の禁輸に踏みきった。とはいえアメリカ国民は、はるかに遠いアジアでの権益を維持するために、自分たちの生命を投げだす気はさらさらなかった。そこでルーズベルト大統領は対日挑発作戦を展開すると同時に、国民を戦争に引きずりだすために大きな罠を仕掛けた、という説が早くからあった。その決定版のようにいわれるのが、二〇〇一年に邦訳されたロバート・スティネットの『真珠湾の真実』である。・・・・


3 新しいかたちの航空戦 珊瑚海海戦

五月七日の海戦

 珊瑚海は世界中でもっとも美しい水域の一つだといわれる。台風はここを素通りし、一年じゅう秒速一〇メートルていどの貿易風が吹き、規則正しいおだやかなうねりは、二七〇〇キロにわたる白いさざ波をつくって珊瑚礁に砕け散る。孔雀色の浅瀬は急にエメラルド色に変わったかと思うと、紫水晶色の深い海につらなる。

 この海域にはまだ俗化されていない島々が散在していた。ところが修羅場とは無縁の洋上で、二〇世紀の軍事技術が激突し、空母対空母という史上かつてない航空戦がくり広げられることになる。戦闘しながら、互いに相手の艦隊の姿を見ることがない。戦闘は空中の航空機と航空機の闘い、そして航空機と相手軍艦の攻防戦である。その壮大さにおいて誰しも詩人ホメーロスの『イリアド』を思いだすものと見え、モリソンの『太平洋の旭日』は、日米両艦隊の陣容を説明する際に「これを『イリアド』のギリシャ艦隊の目録づくりに従って、雄弁に司令官たちのイメージを拡大するならば、我々の一覧表はもっと面白いものになっていたろう」と言っているほどである。

 現在、日本人観光客が気楽に訪れるニューカレドニア、そしてフィジー、サモアは、米英豪連合軍の重要な兵站基地だった。ニューカレドニアから赤道にむけて一〇〇〇キロ北上すると、ソロモン群島とニューギニアがある。日本軍は、豪州大陸と向かいあうニューギニア南東岸の要衝ポートモレスビー攻略作戦を計画した。珊瑚海とソロモン海域の支配に成功すれば、米豪の連絡線を断ち、豪州をおびやかすことができる。だがポートモレスビーは、豪州大陸に待機するマッカーサー米陸軍司令長官にとっても最大の重要拠点だった。

 すでに日本軍のポートモレスビー作戦(暗号名称MO作戦)は、三週間前に米軍諜報部の暗号解読によって察知されていた。マッカーサーと太平洋艦隊司令長官ニミッツは、まず日本軍と戦う各々の作戦範囲をとりきめることから始めた。当時ふたりの名は、詩人西条八十の書いた「出てこいニミッツ、マッカーサー」という歌詞で、「鬼畜米英」の代表として日本の小学生にもひろく知れわたっていた。流行歌で挑発されるまでもなく、ふたりは日本軍の前面に進出してきた。

 昭和一七年五月一日、ニューカレドニアとガダルカナル島の中間に位置する海域で、空母「レキシントン」が「ヨークタウン」に合流し、フレッチャー司令長官の指揮下に入った。麾下に二〇隻の軍艦がついた。日本の機動部隊は空母二、改装空母一隻で、麾下にほぼ同数の艦がついた。同時に、基地設営隊を載せた輸送船団一二隻を護衛する日本の水雷艇が、ソロモン群島と珊瑚海に近づいていた。・・・・


4 戦争の帰趨 第ニ次ソロモン海戦 南大平洋海戦

出航準備

 小町定は「翔鶴」修理の間に一週間休暇をもらって、初めて田舎に帰り、校長先生に頼まれて、一堂に集まった小学生からお年寄りまでを相手に海戦の話をした。みなにも理解できるように、しかも海軍の機密をもらさないようにと気を使った。

 小町三飛曹が、東京から駆けつけた古田勝美と呉のホテルで会ったのは、このあとである。彼女は弟妹たちと塾の教師をして、母一人の家計を助けていた。一時病いで療養生活を送った頃からクリスチャンになり、内村鑑三の門下だった黒崎幸吉のもとに礼拝に通っていた。神奈川県金沢八景の海岸で水兵のボート・クルーが子供たちや古田さんに迎えられて以来しばらくして、大分航空隊に入隊した小町定が、お礼をかねて、当時は九州特産のびわの実を彼女と塾の子供たちに送った。これを機にふたりは手紙のやりとりをしていたが、彼は古田さんの手紙の内容に魅了された。彼女にも「国のために」身命を賭して海軍パイロットになった青年を頼もしく思う気持ちがあったのだろう。

 小町定から連絡を受けると、勝美さんは、昔は東京からずいぶん遠くに感じられた呉まで会いにきた。二人は一緒になることを願ったが、大きな悩みがあった。ひとりは戦争暴力を否定するクリスチャンであり、片方は小町定自身のいう「人殺しを職業とする軍人」である。しかもいつ戦死するか自分でも保証できない立場にある。そんな立場でひとりの若い女性の将来を縛ることに責任を感じた。しかし勝美さんには勝美さんの考えがあった。その夜、ふたりは呉のホテルでそのことばかり論じ合って明け方を迎え、ひとけのない公園をいっしょに散歩した。

 その日から早速、艦隊勤務が始まった。「翔鶴」の修理と艤装と出航準備が行なわれ、乗組員の交代があり、ベテランパイロットは実戦経験のない搭乗員たちに訓練を施した。「翔鶴」は修理中なので「瑞鶴」の甲板を借りて、両空母のパイロットが発着艦の訓練をいっしょにした。
 群馬の中島飛行機と名古屋の三菱から、使える飛行機を検査して選び、いまはサーキットで知られる鈴鹿の飛行場に運び、そこからはベテランパイロットが零戦を操縦して母艦に運んでくる。鈴鹿航空隊に小町の老いた実母が見送りにきたが、息子が飛行機に乗ってしまえば、あとはどれが息子の飛行機かわからなかった。

 「翔鶴」の新搭乗員について、渡辺軍医の日誌にはこう記されている。「今回補充された者の中には、若干劣るような者が見受けられる。なぜなら、発着艦訓練でも以前は事故など皆無に等しかったが、今は時どき起きるからだ。どうも急速錬成の搭乗員が混じっているようだ」。
 「翔鶴」は呉工廠に入っていたが、渡辺軍医官は休暇をもらえず、家族のもとに戻ることができずにいた。ところが、六月六日、まったく予期せぬミッドウェー海戦敗北の悲報が届いた。

 「士官一同艦長室に集合を命じられ、ミッドウェーの敗戦を知らされる。有馬艦長の声や悲痛、私も急に胸が締めつけられるほどジーンとなり、目の前が真っ暗になったように思えた。被弾し内地へ曳航させて帰る途中であったD赤城Eも、炎上はなはだしく味方駆逐艦の雷撃で沈められたという。しかし敗戦のことは極秘であって厳守せよと云われた」。

 昭和一七年六月四、五日に、つまり珊瑚海海戦の一カ月後にミッドウェー海戦が戦われた。これは、長期戦にもつれこむと不利になると考えた山本長官と軍令部が、米国機動部隊を誘いだしていっきょに壊滅させるはずの作戦だった。だが逆に日本海軍は一、二航戦の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」四隻をいっきょに失うという、太平洋戦争の将来を占う大きな打撃をこうむった。ミッドウェー諸島は東京からハワイまで直線を引くと、中心からややハワイ寄りの位置にあり、ニミッツ司令長官も重要な拠点として防衛線を固めていた。米軍はこの海戦で、珊瑚海海戦以来の空母「ヨークタウン」を失ったにすぎない。・・・・


5 雪崩を打って ラバウル トラック

結 婚

 昭和一七年(一九四二)一〇月、「翔鶴」を降りた小町三飛曹は、翌月から長崎の大村航空隊の教員を勤める。このときの上司に、海兵団時代、小町が所属していたボート・クルーの艇長だった海兵出身の蓮尾隆市がいた。もうひとりの上司に、日本航空隊の「サッチ戦法の先駆者」といわれ、また三号爆弾の発案者ともいうべき横山保がいた。横山は日中戦争以来のパイロットで、戦史のあちこちに名前が登場する。かれ自身の回想録もある。横山保と蓮尾隆市は夫人が姉妹どうしの義兄弟だった。

 大村航空隊でその日の勤務を終えて、小町定がふたりの上司と盃をかわしているうちに、古田勝美さんと手紙をやりとりしている話がでた。ボート・クルーの艇長だった蓮尾隆市は、金沢八景の小休止のときに歓待をうけた姉妹の面影をよくおぼえていた。「ならばさっそく式をあげろ」とふたりが仲人になってくれた。ボストンバッグひとつで大村の基地にやってきた勝美さん、それにふたりの義兄弟をそろえて四人の結婚式だった。テレビドラマの「おしん」のように質素な生活がはじまった。

 蓮尾隆市は、その後ソロモン群島のルオット島の指揮を任せられ、一年三カ月後に玉砕する運命にあった。「死なせるには惜しい善い人でした」と小町定はふりかえる。あちこちで「玉砕」という名の全員突撃戦死が始まっていた。もうひとりの仲人横山保と小町定は、八カ月後にふたたびラバウルで再会するまでは、少なくとも生命が保証されていた。

 小町三飛曹は、翌昭和一八年の八月まで九カ月間、大村航空隊の戦闘機専修課程で飛行予科練生(二四―二八期)を教えた。その間、かれは二飛曹からさらに一飛曹(一等飛行兵曹)に昇進した。彼は軍隊のプロでありながら、大村航空隊ではいっさい罰直をしなかった。彼は教える場に立ったときに田中一水を思いだし、絶対に部下や教え子を殴るまいときめた。その代わり、目前に迫った生き死にかかわる戦闘の基本はしっかりと叩きこんだ。

 昭和一八年(一九四三)八月、小町定は戦地への転勤命令を受けてラバウルに赴任、これまで連戦してきたかれも、今度ばかりは生きては戻れないだろうと思った。そのころ、搭乗員は大型機でサイパン島に輸送され、サイパンの基地であちこちの島の各部隊に向けて、三人、五人と分かれて赴任していた。かれの教え子たちも間もなくサイパン島に送られ、最後の盃を交わして、翌日は各々の戦場に赴任することになった。同期の間でこんな話が交わされた。「お前はどこに行くのだ」「おれはラバウルだよ」「ラバウルだったら、小町先任がいる、おれと代われ」「おれは死ぬのだったらあそこで死にたい」「代わらせてくれ」「そんなことできるわけないだろう」。そうした交代はできないと知りながらも、果てはけんかになった。

 小町定は先にラバウルに行き戦闘に加わっていたので、その後到着した教え子たちから話を聞いて、「ああ、そうか、それはよかった。自分は生半可な教育をしたのではなくて、みながそこまで思ってくれたのなら、満足だ」と思った。軍隊生活をとおして、いかに信頼できる兵隊を作るかは、また教える者と教えられる者を結びつけるのは、「愛情であり、暴力ではなかった」とかれは断言する。

小町 定上飛曹とともに、かの超有名な撃墜王 岩本徹三 氏とともに写っている写真
昭和十九年トラック基地にて、二五三空搭乗員。前列右小町定上飛曹、後列左はし岩本徹三飛曹長、中央は熊谷鉄太郎飛曹長
(この画像の出典元は零戦の会です。  http://www.b-b.ne.jp/zero/zero007/7_09/zero007-09.html です)
零戦の会公式サイトへリンク

6 敗戦前後

出なかった復帰命令

 ●トラック島からは赤十字船の氷川丸だったので、潜水艦に沈められることもなく、ぶじに日本に着いたのですね。

――顔も手足もベロンベロンに焼けただれていたので、船員さんが気の毒がって、厨房から砂糖をどっさり土産に持たせてくれたのです。これを持って家内の疎開先に戻ると、顔を見て家内が驚いて卒倒せんばかりでした。
 軍の病院に入院して治療を受けていたのですが、「あと一カ月くらい治療すれば顔かたちも元通りになるけど、戦局がきびしいので」と舞鶴鎮守府の本隊へ回されました。また戦場に送られると思ったら、峰山航空隊に教員として赴任させられました。
 まだ傷跡が残っていたので怖がられたものです。卒業生は実戦部隊にまわされ、実戦部隊がいっぱいになり、その一部が教育隊にまわされる事態が生じていたので、ベテランが教員になるとはかぎりません。あちらで一週間前に習っていた練習生が、こちらに来たらもう教員になっている。それでも基本的なことを教えるに不都合はなかったのでしょう。

 ●前線に復帰命令が出なかったのは、なにが理由でしょう。
――私に前線復帰の命令が出なかったのは、だれか上司が配慮してくれたのだとしか思えないです。

 早めに退院させられた小町飛曹長は、京都の峰山航空隊で甲飛(甲種飛行予科練)一三期生を教えた。酒を飲むと飛行帽の形だけ残して顔面が朱に染まった。教え子だった一三期生の平田昭平が、列車で同席した際に、「小町分隊士は酒を飲むと顔のその部分が赤くなりますね」と話しかけ、あとで他の下士官からたしなめられた。戦場で負った軍人の傷が、触れてはならぬものとして神聖視されたのだろう。
 新しく創設された峰山航空隊でも、生徒たちを震えあがらせる罰直が行なわれていた。訓練生たちは顔面を拳や手で殴打され、「海軍精神注入棒」と書いたバッタで臀部を殴られた。トイレで腰をかがめることもできないほど殴られ、入院する訓練生もいた。しかし平田氏は、自分の教官だった小町飛曹長についてこうふり返っている。

 「小町分隊士は生徒たちを殴りもしなかったし、バッタもしなかった。しないどころかほかの教員が暴力をふるうと、DやめろEと制止したことも何度かありました。教員たちに睨みがきいていたので、小町さんがいると下士官たちも訓練生をしごくことを遠慮していましたね。それで分隊士の姿が見えると、私たちは訓練のときもそうでないときも、安心したものです。小町さんは訓練生に対しては口でさとされた。仏様みたいでしたよ(笑)。それに操縦を習いたての私たちには、まったく誇張なしに小町さんは雲上人に見えたものです」。

 平田さんの同期生だった放生明もいう。
 「小町分隊士がいると、ほかの教員たちが暴力をふるわない。そういった一種の安堵感みたいなものを、私たちは持っていました。罰直なんて人生で二度と経験したくない軍隊のしごきですから。小町分隊士は、やはり生死の間をくぐりぬけてきたから、こんな馬鹿なことをなぜやるのだという気持ちを持っていたのではないかと推測しますが、訓練生たちの間ではF生死の間を駈けてきた人は違うなあGとみな言っていましたね。また小町さんは今でもそうですが、迫力のある擬音やジェスチャー入りで教え方もうまいものでした」。


あとがき

 以前からの知人に、ひとりの零戦パイロットがいた。飛行機が母艦に着艦する話を聞いて、ひどくユニークだと思った。聞きのがすには惜しい職人技である。テープに記録しはじめたが、行きつくところは日米航空戦の話になった。危うい主題だと思ったが、面白かった。なぜ戦う操縦士の話に興味をおぼえるのだろうか。

 脱稿のまぎわになって、私はようやく、なぜそうだったのか、おそまきながら気づいた。私は、第二次世界大戦後、フランスから世界にひろがった「実存主義」という思想につよい共感をおぼえた世代である。この思想のひろがるところには、フランスとか日本とかいう境界はなかった。私たちは「実存」という言葉に、生と死のはざまでぎりぎりの選択をせまられる「極限状況」という意味を重ねた。戦中、戦後を通して多くの人間が犠牲になり、飢えと貧しさのなかで、信じることのできるほどのものは一つもなくなった状態で、「ぎりぎりの状況」というコンセプトが、くさびのように記憶のどこかに打ちこまれたらしい。この埋め込まれていたアンテナが、私をしてパイロットの生死にまつわる話につよく感応させたのだ。

 それでも戦後派の私は、すべてを疑ってかかるという習性からは抜けきれない。防衛庁戦史室の『戦史叢書』も、空母や航空隊の残した『行動調書』も、戦記物も、米国側の資料も、私がインタビューした相手の発言も、真偽の秤にかけながら検討した。正確な事実はどうだったのかという検証のプロセスをたどるのが、私の執筆の姿勢となった。したがってこの本は、最前線で米軍航空隊と戦ったパイロットを中心にすえる戦記物でありながら、戦記物にたいする批評という距離をもつ、いわば戦記が戦記自身を検証するメタ戦記でもある。

 戦記物はすでに山のように出版されている。これまでと類似の本を出すのでは意味がないというのが、私と小町氏との、最初から共通した認識だった。小町定が語る航空戦の様相は、読者の先入観をくつがえすに足るもので、一例をあげれば、坂井三郎がひろめた「大空のサムライ」式のロマンチックな格闘戦(巴戦)のイメージを、戦史のなかで塗りかえるものである。また空母と艦載機の交錯する関係も、私なりに新しい視点からとらえたつもりである。

 戦争のナマの体験を次世代に語り続けることも大切だが、二一世紀の今となっては、前世紀に生じた戦争の事実を明らかにし、その意味を問うことの重要性が高まっている。

 執筆に際しては、小町定と同じ時期、空母「翔鶴」に乗艦していた渡辺直寛元軍医官の日誌『海戦・空母翔鶴』(旧版『南十字星は見ていた』)その他を活用させていただいた。小町氏が教官を務めた峰山航空隊に、渡辺氏も軍医長として務め、また戦後設立された「峰空会」の会長と副会長が、それぞれ渡辺氏と小町氏であったとは、私も最近まで知らなかった。渡辺氏からの手紙によれば、小町定は「零戦パイロットの至宝」だそうである。

 「峰空会」に所属している高木兼二氏(予備学生出身海軍中尉、元峰山航空隊教官)は、興味ぶかい貴重な文献を貸してくださり、また航法の手引きや用語の説明をしていただいた。高木氏をまじえての同会所属の平田昭平(予科練甲一三期飛行兵曹、元特攻隊員)、放生明(同・元特攻隊員)、松永賢次郎(同・元特攻隊員)の諸氏には活発な座談で、また放生氏とは別の機会にさしむかいで、特攻隊についての話をうかがった。紙上を借りてお礼を申しあげたい。

 小町氏の戦後の生活に話が及んだのは、トランスビューの中嶋廣氏から、戦争に翻弄されながらも生き残った青年が、戦後日本の復興期にどのような考えをもちながら生活してきたのか、知りたいとの要望があったからである。

 わが国では、一九九九年に周辺事態法が成立し、さらに二〇〇三年五月には有事法制が成立した。これは大平洋戦争勃発の三年前に成立した国民総動員法を思いださせる。テロ対策特措法やイラク特措法の成立で、自衛隊がイラクに派遣されれば、日本は米国主導の先制攻撃的な戦争にまきこまれ、報復テロやゲリラ戦の対象となるだろう。

 国連の承認を得ない米国のイラク攻撃は反国際法的な侵略戦争である。いま、日本もまた侵略戦争という危険な水域に入りつつあるとき、いかなる意図であれ戦争を主題とする本を出すことに、ある種のためらいを感じないわけではないが、本書の意図はあくまで歴史の一側面について証言すること、かつ日本人が冷静に戦争を考察するための資料を示すことにある。本書から平和構築への意図をくみとり、出版に踏みきってくださったトランスビューに、そして中嶋氏に紹介の労をとってくださった元岩波書店編集部の加賀谷祥子氏に、心から謝意を表したい。

 読者の煩わしさを考慮して註釈は省くことにした。これまで私は、諸文献の誤記に気づけばひるまず指摘してきたが、自身の本についても大方のご叱正を乞う次第である。



平成一五年七月 
川崎 浹

『ある零戦パイロットの軌跡』川崎浹[著
本文(一部抜粋)



ご注意! 上記ページ内の記事、画像等は、「青春の軌跡(続)」編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します
平成21年7月30日作成、22年8月追加、
2012年7月15日(満92歳)逝去追加
 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

撃墜王


inserted by FC2 system