京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

このページは、 『峯空会』会員で特攻隊隊員であられた
小林昭三氏が2015年7月の京丹後市の広報誌
『きょうたんご Vol.137』に掲載されていた記事の編集貼り付けです。

小林昭三氏は峯空会の会員さんでもあり、特攻隊の隊員でもあります。
京丹後市の当地に健康で現存されています。

2015年7月に『きょうたんご Vol.137』の京丹後人 64コとして掲載されていたものです。

 ●新聞に出ました。

2015年7月、『きょうたんご Vol.137』の京丹後人 64より


●京丹後人 64
       元峯山海軍航空隊 小林昭三さん(87) (弥栄町溝谷)


戦後七十年  改めて想う。”平和の尊さ”

 桜の名所として知られる「峯空園」 (大宮町河辺)。戦時中、そこには海軍の訓練用飛行場があり、全国から「峯山海軍航空隊」に配属された若者が、国のために訓練を重ねていた。隊員の一人として、戦争を体験した小林昭三さんに話を伺った。

 小林さんは15歳の時、美保海軍航空隊(鳥取県)に志願し入隊。1年余り訓練を受けた後、昭和19年7月に峯山海軍航空隊に配属となった。「軍に入って国のために尽くすことが当たり前だった」と当時を振り返る。
 峯山海軍航空基地には、多いときで約3千人が常駐。その大半が16~18歳の若者だった。全長1.5キロに及ぶ滑走路では、隊員たちの掛け声とともに飛行機のエンジン音が鳴り響いていた。

 訓練では、「赤とんぼ」と呼ばれる布張りの練習機を使用。離着陸に始まり、3機が並ぶ編隊飛行、宙返りや背面で飛ぶ特殊飛行、計器だけを見て操縦する計器飛行などを練習した。「後席に座る上官の目は厳しかったが、晴れた日の飛行訓練は気持ちが良かった」と話す小林さん。「休日には住民宅を訪れ、交流するのが安らぎのひと時だった」という。

 昭和20年2月、雪を避けて福岡で訓練を行っていた際、突如「神風特攻隊」の編成が発表され、小林さんも「飛神隊義部隊」に選抜された。選抜に漏れた隊員は落胆し、上官に詰め寄る者もいた。そんな姿を見て「自分の役目を果たそう」と誓い、峯山基地に戻った。

 特攻訓練では、丹後半島沖に停泊する軍艦や漁船に向かって急降下し、ギリギリで浮上する練習を繰り返した。浮上が間に合わずそのまま海面に激突する隊員も続出した。そんな中でも、「不思議と恐怖はなかった」と話す小林さん。死と隣り合わせの訓練にも覚悟は揺るがなかった。

 広島に原子力爆弾が投下された昭和20年8月6日、小林さんは、特攻訓練のため山口県岩国にいた。兵舎で朝食の支度をしていたときだった。突然「ピカッ」と部屋に光が差し、その数抄後「ドーン」と地響きが起こった。敵の攻撃かと思い急いで外に出ると、濃い灰色のきのこ雲がはるか遠くの空に見えた。

 8月8日、部隊は特攻機を隠していた可部基地に向かうため広島に入った。一面の焼け野原に、大勢の人が横だわっていた。「兵隊さん助けて」と負傷した女性に懇願されたが、どうすることもできなかった。「これが戦争か…」。小林さんにとって、初めて感じた戦争の恐怖と絶望だった。

 8月10日、特攻出撃基地の可部に到着。赤とんぼに250キロの爆弾を積み込んで出撃に備えていたが、15日、ラジオで敗戦を告げる放送を聞いた。「隊員たちは皆。日本が負けたのか!・・・と頭を抱え、しばらく茫然と立ち尽くしていた」という。

 終戦後、小林さんは丹後に戻り、郵便局や府の教育局に勤務。退職後は約20年間、保護司としても活動した。元峯山海軍航空隊の隊員とも連絡を取り合い、戦争の記憶を後世に伝えようと、記録集の出版にも携わった。

 「学校に行き、仕事に行き、家に帰って家族と過ごす。そんな当たり前の毎日がどれだけ尊いものか。戦後70年を機に、戦争を知らない人たちも平和について考えてもらえたら」-


[京丹後市広報誌「きょうたんご」vol.137より]



作成 平成27年8月2日

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