京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

このページは、 『峯空会』事務局 
藤村恒雄氏の自分史から転載いたしました。

本サイト管理人は平成26年8月2日、ネット検索中にネット公開されている元特攻隊藤村恒雄氏の書かれた自分史を拝見いたしました。読ませていただくと峯空会の3冊の公開書籍「青春群像」「青春の軌跡」「青春の軌跡(続編)」と重複する部分があると同時に藤村氏の個人的体験が多く記述され、いわゆる戦争体験手記にとどまらず峯空をはじめ貴重な資料的価値のあり、後世の人が読むに読めば理解を深める内容であると思いました。なんとかテキストにコピーし本サイトに公開できないかと思い、藤村氏に許可をお願いしたく、峰山の早川自動車さんに連絡を取り、あと、藤村さんに直接電話で許可を求めたところ、快く許可いただきました。
(8月4日)

その内容を全文掲載いたします。ネットからの転載となります。


  藤村恒雄自分史(1)■第一部 時代の流れとわが人生

我が海軍予科練の話

 ●〔1〕予科練

◇(1)志願してくる人の波

  昭和16年12月8日、中学1年の時、大東亜戦争(太平洋戦争)は始まった。ずっと支那事変(日中戦争)と称して戦争が行われていて、出征兵士を送ったり、白い布で包まれた遺骨を抱いた遺族を迎えての慰霊祭があったりしたから、驚きはしなかったが、戦争は陸軍から海軍に変わったという感じはあった。  もうみんな軍国少年だった。飛行機と軍艦による戦争に興奮したものだ。

 朝日新聞に岩田豊雄(獅子文六)が「海軍」と言う連載を発表していたので、日本人は海軍兵学校(以下海軍と略す)を良く知っていた。そしてやがて予科練という少年飛行兵が活躍するのを知ることになる。甲種の予科練は中学4年で入り早くパイロットになるので、大勢の志願者が出た。そして倍率はさほどではないが、兵学校ほどの難しさはない。

 戦争が始まってから、春、秋の採用は1000名ずつとなり、昭和18年春には3000名が入った。日本人は20才で徴兵検査を受けるが高校・専門学校(高専と呼ぶ)と大学生には徴兵が猶予されていた。しかし昭和18年一部の工学部以外の猶予が廃止される。さらには徴兵検査も19才となる。この措置は青少年に大きなショックを与えた。
 それもあって18年の9月、飛行予備学生はなんと5000名が採用された。(アメリカでは昭和16年12月に即採用が始まっていた。この2年の遅れが後に戦局に大きな差ができたのだ)

 さて予科練に集中する。私は(一人称を私に変える)18年秋に入る。甲飛13期に願書を出した。6月だった。7月に上京区役所で学力試験が、8月には宮津市の栗田にある水上飛行機の航空隊で身体検査を受けた。飛行機乗りに適しているかをテストするかなり精密な?検査だった。そして9月末鳥取県の美保航空隊に入隊した。1200名中私が一番で「藤村恒雄ほか…名…入隊を命ず」、この中では兵籍番号が一番だった。

 これが後々まで効いてくる。この13期には10月1日付の前期と12月1日付の後期とに分かれて入った(前期は美保のほか松山、鹿児島、土浦などに10,000余名。兵舎はハンモックが吊れるちゃんとしたものだったが冷暖房はなく石炭の達磨ストーブだ。後期は奈良などに18,000名が入った。奈良は天理教の宿舎が充てられ、練兵場と呼ぶ運動場もない。ましてカッターの訓練をする海もなかった)それにしてもこんなに沢山とって、乗る飛行機があるのかなとは気がつかなかったが陸軍と海軍の人材獲得競争だった。後にもっともっと沢山の予科練を採用するのだ。

 予科練の教育は普通学と軍事学とそれに体技、武道からなる。日常の生活から訓練で海軍流の躾が厳しかった。毎日、全員でやる掃除と僅かの自由時間にやる洗濯が大変だった。掃除は甲板掃除という独特のものがある。土曜日は床に水と石鹸水を流しモップのような麻の束で洗う。荒縄も使う。腰を落としてこするのが甲板掃除で勇ましいものだ。甲板係りが、押せ!回せ!と号令する。この兵舎はそういうことを前提にして建ててあった。

 先生は将校が教えるもの、高専の先生や兵学校の先生がいたが、大尉か少佐待遇の人達だ。普通学は、数学、物理、化学、国語、歴史、地理等。軍事学は、軍制、航空、航海、運用、通信、陸戦等。体技・武技は体操、球技、駆足、武道、短艇、水泳、滑空等。物理では航空力学、流体力学、弾道学、気象学などもあり大変多岐にわたっていた。
 電気や重力など難しいものもあった。数学では三角函数など飛行機で航法計算に使う重要なものが含まれた。気象学では天気図も書いた。そのほか天文学や、合金などの材料学、機械、発動機(エンジン)、銃器の勉強など凄まじい詰め込みだ。

 そしてあと10分は試験がある。これが後で成績になり、居眠りでもしていたら駄目だ。この成績は卒業の席次になる。海軍ではハンモックナンバーと言って生涯つきまわるものだが、その都度成績発表がないので気にすることはない。授業時間では通信(トンツーだ)がもっとも多かった。1分間で100字程度の送信、受信ができた。短艇とはカッターだ。ずいぶんしごかれた。
 力が強くなった。そのほか手旗、発光晋信号。そして旗旒、万国共通の物と内部で決まっている暗号でz旗は有名な「皇国の興廃はこの一戦にあり…」というように読み取る。赤旗bは危険作業中、pは出港するとかだ。とても覚えきれない。軍事学では「赤本」と称して機密のものもあり、授業が終わると回収する。

 それと滑空(グライダー)があった。しかしゴム索を人力で引っ張って飛ばすもので距離は50メートル、高さも2メートルでしんどいばかりで後で思い出しても全く役にたたなかった。闘球というのは多勢でするラグビーのよう。棒倒しはよくやった。分隊対抗競技では柔道、剣道、銃剣術、相撲、水泳、短艇に10,000メートルなどの種目があった。我が14分隊は10,000メートルに優勝した。これは全員が走ってタイムにより得点が決められていて合計点を人数で割る。私は1200名中20番くらいで勝利に貢献した。

 思い出に残るのは実弾射撃、挙銃射撃や大山での野外演習だ。3カ月で1学年を終り2学年にすすむ。この時操縦に入った。飛行機乗りは自分で操縦しなくちゃ。(偵察員は2人乗りか3人乗りの中型機やもっと大きい大型機に必要で、航法、写真、爆弾、機銃、電信を担当する。大型機では天測もする)

 さて早いもので入隊した時は二等兵だったが、もう一等兵から次の上等兵になった。外出する時や制服を着るときは七ツ釦だった。つまり海軍の水兵服(ジョンベラ)は着ていないのだ。入隊後半年の19年4月には兵長に進級した。最初6円だった月給も18円となった。そして5月に1週間の休暇が与えられ晴れがましくみんな故郷へ帰った。

 7月に卒業するのだが、2年を10ケ月に短縮したのだ。予科練にも乙種があり高等小学校卒で試験する。この人達は3年だ。短縮しても2年。甲種は昭和12年が1期生だ。開戦時に間に合ったのは3期まで。乙種は昭和6年に始まったが採用が少数だった。

 開戦時2000名いたというパイロットは内部採用する制度で飛行機乗りになった人達で、15年からは丙種予科練として制度化する。しかしごく短い教育で飛行機に乗せた。海軍航空隊の主流はその人達だ。いわゆる甲、乙の予科練出身は19年ころまでは少数派だった。一人前になるのは3年かかる。飛行機乗りの養成は徒弟制度のようだからと大量養成に手をつけるのが遅かった。


●〔2〕飛練(飛行練習生)

◇(1)天橋立上空 初飛行に興奮


 19年7月25日予科練の美保空を卒業して、峯山航空隊に入った。美保からは操縦が、峯山のほか築城、谷田部、博多と水上機の福山に分かれて進んだ。偵察は徳島と鈴鹿だった。当時峯山は第二美保航空隊の分遺隊だった。我々飛練39期生は総員120名で1 分隊と2分隊とに分かれて所属した。先輩の37期生が200名いた。最初は93式陸上中間練習機と呼ぶ「赤トンボ」に乗る。その教程だ。先輩37期生は5ケ月で卒業したコースだ。ここを卒業したら飛練延長教育と言って実用機教程に入り戦闘機とか爆撃機とか攻撃機とかに乗る。

 8月1日、私は樋口教員に乗せてもらい、初飛行・慣熟飛行を行った。フアッと浮いてどんどん高度1000mで水平飛行、「あれが天橋立だ」と教員が伝声管で言う。始めて下を見て驚いた。橋のように真っすぐ伸びる天橋立が見えた。右に曲がると大江山とのこと。いくつかの峰があってどれかは分からない。始めて高度計を見た。あっという間に20分で着陸した。

 教員は一人が5人の練習生を担当する。午前なら午前のうちに練習生を交替させて教える。飛行作業の指揮は分隊長の戸梶大尉が行う。もう一人の分隊長は萩野大尉(飛行長兼務で後に少佐となる。昭和6年の予備学生1期だ)だから教員が沢山いる。先任教員は今高上飛曹だ。(乙飛11期で14年)私の樋口教員は丙飛8期で16年のベテランだ。このころの教員には丙飛出身が多く7割くらい。甲乙の予科練出身は3割くらいだった。
 戦地を経験していて時々こうして教員配置となり、つまり息抜きするのだが負傷して病院帰りという人もかなりいた。兵隊上がりで少尉や兵曹長になっている分隊士と呼ぶ教官もいた。

 9月に1分隊の先任教員になって来たのは小町上飛曹で、空母翔鶴でハワイ攻撃から参戦していてラバウルでも活躍して有名な戦闘機乗りだった。19年グアム島で撃墜されて負傷入院していた。操縦練習生出身という古参で13年入隊、この人も今高さんと同様もうすぐ兵曹長になる人だった。この人との出会いは私たちにとって稀有の体験で、後々までお世話になった思い出深い人だ。

 私たちは鬼のような教員たちにしごかれて、地獄のような毎日を過ごすことになる。 同期生は田舎の学校からは大正生まれが多く強かった。昭和生まれと4分6くらいだった。後9月に入隊してきた41期生は同じ甲飛13期だが後期で奈良に入った練習生だった。特別に選抜されてきたようでほとんどが大正生まれだった。しかし我々の世界には年齢は関係なく先任練習生はえらいのだ。第一我々はもう全員が単独飛行を終えていたのだ。


◇(2)期長拝命

 美保空から峯山へ転勤する時、単なる号令係りか引率係りかと思って入ってすぐに期長を拝命した。予科練の優等生だと。先任教員から皆の前で説教があり厳かに命名された。そして様々な任務、仕事が被せられた。名誉なことで同じ同期生にリーダーシップを発揮しなければならない。

 その期の出来は期長次第とさえ言われる。まず私は次長と甲板係りを決めた。この人事は私にとって大きな力となった。甲板は37期生で乙18期という先輩だが病気で次期まわしとなっていた東口練習生だ。こういうのが期長になって威張るらしい。これは先任教員の助言だった。次長は富山の野口君、10,000メートルで個人優勝した男でやんちゃの親玉だ。

 さらに日常の当直をやる編成、食卓番の編成、分隊士係り、教員室係り、酒保係り等々。今度は飛行作業に伴う指揮所係り、落花傘係り、記録係り、用語の各係り等々、これは先輩37期の志浦期長が親切に教えてくれた。この人は期長の心得などもいろいろ教えてくれた良い人だったが爆撃機で戦死したと聞いた。

 飛行作業は緊張の連続だ。辛いからとサボる者もいて叱ったりもしなければならない。事故もしばしばあるがその対応も大変だ。しかし私自身も練習生だし、学習もあり、皆に恥をかかぬよう操縦訓練にも集中する。樋口教員は教え上手で気を使ってもくれた。
  嬉しかったのは、先輩の37期生たちだ。(17年入隊の乙18期と18年春入隊の特乙3期と二つグループがあった)甲乙の対立やいやないじめはなく親切だった。卒業間近で慣れていたからかも知れない。

 8月末に卒業して、戦闘機、爆撃機、攻撃機、大型の攻撃機に分かれてそれぞれの航空隊へ行った。彼等の中で30名が戦死、殉職した。教員たちも転勤が激しくその人達も15名が戦死した。さて37期が卒業したら我々39期だけになった。恐ろしいほどしごかれ、叩かれ、どつかれた。鍛えるなどというような優しいものではない。

 朝から晩までバットが唸り、飛行場を走らされた。飛行作業後は格納庫前のコンクリートのエプロンでは「前に支え」で死ぬような思いだった。教員たちは腕力も強く、声も大きい。飛行機乗りはみんな声が大きい。同期生たちは助け合いながら(別に記す)必死で歯を食いしばってがんばった。同期生の絆も強くなった。同時に競争だ。途中で飛行機乗りから 外されて転出して行ったものも10%いる。

 飛行機乗りの先輩たちは同じ様にして鍛えられてきたという。41期が後輩として入ってきたころは(年長者が多かったが)39期生は目の色が違う、恐ろしいと感じたらしい。彼等も我々と同じくしごかれて行くのだ。この様な話は同期生全体のことではあるが、同時に期長としての私の話でもある。
  朝の体操では私がいつも号令台の上から号令をかけて指導する。整備科の人達は体操の先生だと思っていたらしい。体操は練習生だけでなく教官も教員も一緒にする。


◇(3)単独飛行から宙返り

  さて、9月中頃からぞくぞくと単独飛行が許可された。離陸、着陸の練習が始めで旋回や編隊飛行を交えながら特殊飛行-垂直旋回、錐揉み、宙返り、反転なども経験して単独飛行となる。これは嬉しい。教員も心配だから、嬉しい。そして練習生同士で前後に座って飛ぶ互乗飛行も体験する。同期生だけだから鼻歌交じりで飛ぶ嬉しさはたまらない。

 すべて順調に進んだが、えらい障害が発生した。燃料の不足で訓練がストップした。飛行作業がないので運動会や野球、バレーボール大会、相撲大会が行われた。天橋立へ行軍(遠足)もあった。練習機用のアルコール燃料が回って来て訓練再開となったが、次第に寒くなってエンジンの掛りが悪い。飛行中にエンストが起こる。気が抜けない。事故も多発する。

 そこへ追い討ちの障害がやって来た、冬将軍である。この年は全国的に豪雪となった。毎日しぐれがくる。間断なくやってくる。突風が吹く。飛行中雪の雲に突入する。抜け出すのが大変だ。滑走路が濡れて、横風が吹いて練習生では危なくて一人で乗せられなくなった。普通は1回の飛行時間は20分か30分だがなかなか予定が消化できない。
 
11月12月はまるで教程が進まない。そこへ殉職事故がおこった。12月9日、空中接触があり2名が死んだ。遂に峯山での飛行訓練が中止となった。冬季訓練は福岡へ行くと決まった。


◇(4)福岡での訓練

  39期は1月3日全員が福岡へ向かった。途中列車が関門トンネルを潜った。福岡航空隊は予科練の兵舎として作られた。そこの一角を使わせてもらうことにした。

 しかし飛行場はない。少し離れた所に未完成だが民間の飛行場があり、湿地帯を避けてなんとか使えそうだと言う。しかしここは玄界灘の風が強く悩まさせたが雪が少なくて飛行作業は捗った。急反転、横転、宙返り反転などの応用特殊飛行や薄暮飛行、計器飛行などもこなした。実用機の専攻機種の希望も書いて提出した。私は戦闘機を希望した。そしてみんな発表を待った。

 もう、飛行時間も45時間を越えてとっくに卒業の時期だった。博多市内へは一度みんなで行軍したが、常は外出区域から外れた。中には博多人形を買って面会の時家族に渡した者もいた。果樹園をやっている農家があり、ネーブルが実っていた。外出して食った食った。兵舎へ持ち帰って箸でくるりと剥いて食べた。思い出の福岡だった。黄色の便が出て黄疸と診断された者が続出した。原因はネーブルでなく栄養不足だった。

 世は特攻隊の時期になっていた。ある日41期(峯山に残っていた41期も豪雪には勝てず2月になって福岡に合流していた)の練習生が割腹自殺を行った。特攻隊に選ばれないからとか、内緒で面会したのがばれて叱られたからとか言われたが、真相は分からない。これの事後処理にあたって大変な思いをした。41期はとぎれとぎれの訓練であったが単独飛行の許可がおりる予定だった。

 2月12日、突如全海軍に教育中止命令がおりた。練習航空隊も特攻隊に切り替えろということだ。みんながっくり。予備学生の教官や教員連中も驚いた。そして矢継ぎ早に転勤命令が来た。各航空隊とも特攻隊の編成でてんやわんやだった。この頃飛練42期というクラスが峯山にやって来たが、彼等は飛行機に乗るどころか触りもせず中止となる悲劇をみた。そして気の毒なのは41期だ。全員特攻隊には編入なし。

 そして問題は39期、我々だ。110余名中75名が特攻隊に編入、他の40名が次の機会を待てとのご沙汰だ。いきなり氏名が発表された。外れた者は飛行作業なしとなった。みんな航空決戦にお役にたちたいと願って志願し、苦しい訓練も頑張ってやって来たのになんだ!といきり立つものが続出した。予科練からの教育で、特攻隊に行くのにためらう者は99%なかった。(その点、学生から海軍に入った人のなかには家庭のこととか、結婚しているものとかあり、悩んだ人もいたらしい)

藤村恒雄自分史(2) 特攻隊 に続く
           

 《出典元》出典元は以下のとおり(2014.08.02の検索です)
 詳しくは下記文字列をを検索してご覧ください。

藤村恒雄自分史(1)  我が海軍予科練の話



作成 平成26年8月9日

ご注意! 上記ページ内の記事は、作者 藤村恒雄氏および編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します
 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!


inserted by FC2 system