京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

このページは、

『峯山海軍航空隊』 私の在隊時を偲んで (ブログ)から転載しました。

平成18年8月14日、元隊員RHさん(79歳 ブログ開設時)が在隊当時を偲んで ブログを始められました。貴重な戦争経験者の体験記録があります。
平成20年8月1日、81歳をもって、3年にわたったブログ更新を終えられました。

そのブログを許可をいただきリンクで紹介していますが、時間がたつとリンク切れになったりすると記事が失われてしまうこともしばしば経験していますので、峯空跡地本サイトと関係があるので時系列に編集して本ページに保存します。
本稿の出典元は『峯山海軍航空隊』 私の在隊時を偲んで http://rhblog.seesaa.net/
からです。詳しくは上記をリンクください。

2006年08月14日

ブログ開設

mine01.jpgmine02.jpg新しくブログ開設いたしました。

昭和20年3月1日姫路海軍航空隊峯山分遣隊は、独立して峯山海軍航空隊(司令・菅原英雄中佐)となり、連合艦隊第10航空艦隊第12聯合航空隊に編入さる。(練習航空隊所掌事項改正)
【註1】
昭和20年初頭比島作戦を終わり水上部隊の壊滅した日本海軍は、基地航空部隊をもって対抗するため、練習航空部隊をも連合艦隊に編入した。
3月1日、第10航空艦隊編成に伴う航空部隊編成は次の通り。
第10航空艦隊(前田稔中将) 
第11聯合航空隊(司令長官直率) 霞ヶ浦空、筑波空、谷田部空、百里原空、名古屋空、鹿島空、北浦空、大津空、神町空、郡山空、河和空、豊橋空、松島空、大和空、第三岡崎空、東京空、(計2261機)
第12聯合航空隊(城島高次少将) 宇佐空、姫路空、博多空、大村空、詫間空、元山空、釜山空、岩国空、西条空、福山空、峯山空、天草空、光州空、観音寺空、諫早空、(計1957機)
第13聯合航空隊(伊藤良秋少将) 大井空、鈴鹿空、青島空、徳島空、高知空、(計960機)
【註2】
3月1日発令の「天号」作戦計画では、第3、第5航空艦隊所属の各500機の外、前記第10航空艦隊の2,000機を予定した。
沖縄特攻は、菊水作戦と呼称され、中には二座水偵、0式観測機、白菊、桜花なども参加した。

峯山海軍航空隊は昭和19年、当初飛錬航空隊として発足、勇躍空の勇士による訓練が実施されました。第一期の練習生が卒業、実用機に進み、第一線の航空戦に参加しました。教官教員もぞくぞく戦地にむかいました。峯山海軍航空隊でも次々と練習生が入り、訓練を重ねていた頃、すでに戦局厳しく海軍はすべてが特攻隊となりました。
昭和20年2月、峯山海軍航空隊でも特攻隊が編成され、猛訓練が実施されて航空事故の犠牲者が続出しました。また、他の航空隊からの訓練機も多数飛来して大変重要な航空隊となりました。

峯山海軍航空隊における訓練は、航法、策敵、攻撃と日々に激しさを増した。特に急降下の訓練は、最初は身体が浮いたり、急角度の突込みに慣れないため、思うように行かなかったが、だんだんと慣れるにつれて、
指示された降下角や、最低高度をオーバーする者が続出する様になった。例えば、目標となった掩体壕で降下角の観測にあたっていた者が、あまりの突込みに危険を感じて観測中止して、とつさに避難したり、また、指揮所から
見ていても掩体壕の頂上よりも低くて、かろうじて上昇していく者、また、ほとんど背面に近い角度で降下する者が出てくるようになった。
間人沖にチャーターされて標的となった漁船は、訓練機の猛烈な突込みが恐ろしいばかりでなく、引起しと同時に今度はペラの後流で船が翻弄され、あまりの恐ろしさにとうとう海軍の御用をやめる始末。
漁船は駄目と、今度は宮津湾に停泊中の駆逐艦(初霜)が突込み標的艦となった。軍艦相手のほうがやるほうもハリがでるというもの。駆逐艦(初霜)のマストに翼端をぶつけ、折損しながらも、無事帰着する者まで出て来た。 

     2006年8月14日記事




飛錬入隊

昭和18年10月三保海軍航空隊へ甲飛13期飛行予科練習生として入隊しました。(当時16才)
「三保海軍航空隊については、沢山の方々が詳しくwebまたブログ等で述べられていますので、今回は記載致しません。」
転勤の朝、教員、教官、後輩の見送りを受けて三保海軍航空隊々門を出ました。大篠津、米子駅と鉄道にて移動、汽車の車内では皆楽しく一時を過ごしました。峯山駅前には飛行科の下士官が数名我々を出迎えに来ていました。夏空の大変暑い日でした。 ところが転勤の荷物(衣嚢)のみをトラックに載せ、我々練習生は口大野の本部まで駆け足、帽子にあご紐をかけ、第二種軍装(白地)を着ているので行動が制約され大変だったことを思い出します。 峯山海軍航空隊へ三十九期飛行術練習生(飛錬)として入隊、昭和19年7月25日でした。 着任、その時から日本海軍きっての有名な飛錬のしごき(罰直バッター)が始まるのかと思いました。

※罰直バッターとは、日本海軍の軍人精神を注入する為教育の一貫として行はれた行為です。連日、連夜色々と理由をつけて、一人の失敗、一人の不出来等すべて総員(分隊)の責任として、棍棒を各先輩が手持ちして後輩の尻を何十回も手加減もせずに打ち、倒れる者があれば水をぶっかけ、又始める行為です。又ストッパーといって、麻縄(手首程の太さのロープ)を水に浸し硬くなったもので、尻を打ちます。
峯山航空隊では長善兵舎の地演講堂内で巡検後(就寝)総員起こしがかけられて、行われました。今になり思い出すと最低なる野蛮な方法と考えられますが、帝国海軍の常識となっていました。
肉体を痛めつけられて精神を耐えることを覚えました。

     2006年10月06日記事

峯山海軍航空隊概要

航空隊は、本部と兵舎等がそれぞれ別の場所にあり、鉄道から東側(川辺)に1500bの滑走路をもつ飛行場があつた。航空隊本部、長善兵舎、飛行場等農村の中に点在する航空隊である。
本部は口大野駅の近くにある元丹後縮緬工場である。我々飛行科は本部の北西(善王寺)にあり長善兵舎と通称よんでいた。これも元縮緬工場らしく木造のお粗末な建物でした。ただ飛行科らしく地演講堂(地上計器飛行演習機)があり、時々は教程の為練習した。また総員整列(海軍用語、 罰直)の格好の広さである、巡検後よく総員整列がかかった。入浴は本部まで行ったと記憶する。夜の就寝は二段ベットで吊りどこでなく、理想であった。
三保空時代からみれば格段の差である。飛行場へ毎日行くのは農道を駆け足で走る。飛行靴、飛行服の装備である。落下傘(パラシュート)は格納庫脇の倉庫に厳重に保管されていた。飛行場は河辺村から新山村にかけて格納庫、滑走路がありほぼ南北にあった。離陸は風の関係もあり大概北に向かって離陸し、着陸は周枳村方面から着陸した。誘導コースは左回りである。

     2006年11月06日記事


基地移動

積雪の為基地移動
昭和20年1月福岡航空隊へ移動 雪のため飛行場が使用できなくなり、訓練生は雪の無い福岡航空隊で訓練を継続するために三十九期生、四十一期生が移動した。

福岡飛行場(福岡海軍航空隊)
昭和19年に 学生の飛行訓練のための元岡飛行場隣接地に海軍が滑走路を造成しました。
昭和19年6月1日 福岡海軍航空隊 開隊 練習航空隊指定
最初の教育訓練は甲飛13期生で松山空で操縦適正検査に合格した操縦専修予定者が入隊「若草」「文部省型」と呼ばれるグライダーで滑空訓練が行われた。
福岡航空隊は予科練なので 飛行訓練はないですが、京都 峯山航空隊(飛練)が冬季は積雪のため 飛行訓練ができないので ここに93中練 30数機を移動して、訓練を行ったようです。

鉄道にて峯山駅出発途中京都駅にて乗換え翌日博多駅到着。周船寺にて下車。初めて飛行場を見た。驚いた。狭い滑走路が短い。早速翌日から飛行作業が始まった。スロツトル全開離陸した。博多湾だ、直ぐに眼下に元寇防塁がある、能古島、志賀島を過ぎれば玄界灘である。左旋回唐津上空通過、天山をめざす。飛行場に近づきパスに入る、着陸態勢で降下、中間に高い木がある。飛行訓練の時何時も思っていたがこの木が目障りであった。

     2006年8月28日記事


計器飛行

昼間計器飛行訓練が時々おこなはれた。前席は幌を被る、後席は見張りとして同乗する。福岡飛行場は東は直ぐ海上、西側は天山をはじめ山並みが続く。高度500〜1000m気流は大体東の海上寄りである。
ある日訓練が前席を交代しながら行はれた。前席F練習生、後席I教員(有名な雷電パイロツト)が離陸した。20分程度で昼間計器飛行訓練が終了した。後席I教員に操縦がきりかえられた。眼下に小学校が見えた。
突然急降下、運動場に接近バンクする。地上からは沢山の生徒たちが手を振って喜んでいる.2回3回旋回した。
後飛行場に帰るため急上昇中に山肌の木に接触不時着した。たしか七山村と記憶する。後ほど航空隊のほうにネーブルを沢山とどいた。
次に甲飛16期一部が入隊したが飛行予科練習生教育の中止で本土決戦要員として配置され終戦を迎えた。
当時 糸島郡元岡村 現在は福岡市西区田尻に飛行場ありました。
飛行場の跡は田畑になり現在痕跡はありません。近くの公園に石碑があり、当時を語ります。

     2006年8月29日記事


空輸 1(峯山航空隊へ帰投)

昭和20年3月21日(晴)福岡航空隊の移動訓練を終了、峯山へ向かって40数機の大空輸飛行である。
前席に乗り込んだ。何時もの様にスロツトル全開離陸した、大きく旋廻高度をあげた。編隊体勢がととのった、博多湾を眼下に岩国海軍基地へめざす。直方、八幡、戸畑は炭鉱の町、ボタ山があちこちにみえた。溶鉱炉の煙の為か上空は雲海である。関門海峡を越えた。ずっと瀬戸内海上空を飛行、岩国飛行場がみえた。着陸パスに入る、一式陸攻が大きくみえた。列線(並んで駐機)にてエンジンを切った。雨の為一泊する事になり、明日姫路空え向かう。

     2006年9月4日記事


空輸 2(峯山航空隊へ帰投)

昭和20年3月23日(晴) 今日は姫路基地を中継峯山海軍航空隊飛行場に向かって空輸する。
岩国基地を離陸したのは昼前だったと記憶している。天候は比較的順調であった。瀬戸内海の上空陸地沿いに巡航編隊飛行にはいった。天候も良かったせいか島々が大変美しくみぇる。約一時間少しの飛行距離である。
姫路市内が見えてきた。姫路から北東に約20Kmの所青野ヶ原にある姫時空は、小高い丘陵存在した。周囲に沢山の小さい池が多く、太陽が反射して光る。上空に達した。飛行場からは離陸する飛行機がある。九七艦攻が次々と上がってくる。しばらく編隊のまま上空にて待機する。しばらくして一番機から編隊解散のバンクがあり、各機着陸態勢に入る。高度を下げる。第二旋廻、第三旋廻、第四旋廻高度二百メートル、パスに乗る、無事着陸、列線に着く、機上から降りた。

(姫路空は艦攻、艦爆の練習航空隊だが、九七艦攻の特攻隊は串良に展開する為この日出撃していく最中であった。日の丸鉢巻をした隊員が次々乗り込み離陸して行く。エプロンに置かれたテーブルに残された盃がむなしい。【元隊員の手記より】)

整備科による機の整備、燃料の補給、休憩する。青野ケ原にある姫路空は、お粗末な風景である。
午後四時ごろ離陸、峯山に向かって出発の予定である。天候が悪いと連絡がある。

     2006年9月11日記事


空輸 3(峯山航空隊へ帰投)

昭和20年3月23日  姫時空の天気が少し悪くなってきた。峯山の空は雪空かもしれない。
列線より出発、滑走路に向かう、編隊態勢にて離陸する、いよいよ峯山に向かって飛行する。直ぐに山並みである。高度千bに上昇、水平飛行に移る。風が相当速い、前方に雲が広がっている。編隊が風に流されている、
機高が上下する、編隊目安に慎重になる。編隊が高度をあげる、二千bに上昇した。しばらく飛行続ける、前方に市街地がみえた、福知山市である。上空通過大江山に向かう、雲低が低い、時々雪が風防にあたる、大江山を過ぎた、薄雲の中を飛行高度を下げる。もうそこに飛行場がある、誘導コースに入る為編隊のまま上空通過する。飛行場は全面真っ白積雪あり、滑走路のみ除雪してある。着陸態勢をとり第二旋廻地点に各機侵入して行く、機間距離をとり誘導コース上飛行、パスに入った。滑走路が狭く見えた。操縦桿を引き上げた、着地した。
無事福岡からの空輸飛行が終了した。夕暮れである、四機未帰還あり琵琶湖木の本付近で不時着したとのことを後で聞いた。乗員は全部無事救出された。

     2006年9月19日記事


飛行作業再開

福岡より峯山飛行場に昭和20年3月23日帰投した。福岡にて3月T日特攻隊が編成された。
同期である117名の内75名が特攻編成に加わった。残り42名と41期全員は飛行作業の補助となり防空壕の掘削、囮機の製作、対空戦闘員の配置等に辛い日々であつた。彼等も5月に入り全員が霞ヶ浦空、神町空へと新たな任務となり転勤していった。
積雪、飛行場ともに整備されて飛行作業が開始される事になった。夜間飛行が主として行われた。
定着(定所着陸)訓練が基本である。夜間は飛行場にカンテラに火を付けて並べられる、単機、編隊繰り返して離着陸訓練である。着陸は指導灯(青灯と赤灯)に合わせ第4旋廻からパスに乗る。定点着陸の為に風速の強弱によって指導灯 (青灯と赤灯) の間隔が変わりパスの角度が決定される。指導灯を左に見た通過の瞬間高度は5メートルである。スロットル全閉し操縦桿を引き着地する。編隊飛行の場合は飛行場上空を通過後解散して一機づつ誘導コースに入るので、機と機の間隔が機速により詰まってくるので注視しなければならない。(当時は目視である為) 高度が低い為曇天の夜間は非常に見にくく、誘導コース、パス、飛行場、指導灯、全神経を使いつつ着陸訓練をした。
誘導コース飛行中と指揮所との通信はオルジスで発光信号による。飛行機からは(・ - ・)了解信号(R)を送る。

     2006年11月28日記事


写真3

mine05.jpg
航法訓練出発
航法の飛行訓練前と思います。チャート(航空地図)を持っています。
訓練の内容は峯山基地飛行場から丹後半島沖一帯、洋上訓練が主として、
三角コース飛行後基地へ帰る。

     2007年11月15日記事


特殊飛行(1)

特攻の急降下降爆の為に特殊飛行が訓練された。垂直旋回、宙返り、 失速反転、横転、緩横転、錐揉、背面飛行等。特殊飛行では、常に水(地)平線、山並みを注意する必要がある。飛行機の姿勢が錯覚により見失いに意識しなければならない。峯山航空隊の飛行場は山間の盆地の為、飛行場を中心にした目視の範囲で高度が1500メートルに達すると、周囲の見張りを厳重に行ってから、早速訓練を始める。
特殊飛行は、スロットルの開閉と補助翼 (エルロン) ,方向舵 (ラダー) ,水平安定板(変更輪)、昇降舵、がどのように機体の姿勢になるかを理解すると共に、体得とするという自信と、空中での度胸を付けるのが目的である。
また、空中戦闘の基本となる操作でもある。私は戦闘機出身の教員(元ラバウル航空隊員)に指導を受けました。
宙返りの時上手くできると水平に戻した時ガクンと機体が振動する。宙返りの姿勢に入る時、機速を上げ少し降下してスロットルの全開、引き起こし急上昇、垂直、背面になる、舵の機能が水平飛行の時と反対になる、操縦桿を一杯引く、スロットルの全閉、地上の景色が視界の前面に見えてくる。機体の姿勢が水平になる直前、進入時の航跡である乱気流を一瞬通過する。進入時の位置に戻った証拠である。
飛行機は、どの姿勢に機体を戻す操作でもあて舵が必要である。(機体の回転を止めるために舵をそれまでと反対に向けること。飛行機は船と同じで、あて舵をしないとしばらく回り続ける。)
舵というのは一度変針すると惰性がついて、ほおっておくとそのままどんどん回っていきますので適当なところ(経験と体感のみ)で反対の方向に舵を取ります。これが「あて舵」です。

     2007年2月2日記事


特殊飛行(2)

横転、緩横転(スローロール)も技術のいる操縦である。何れも特殊飛行にはエンジン馬力の強弱、操縦桿、方向舵(ラダーペダル)が同時に関連して操作されてこそ出来上がるのである。
地上の訓練では操縦桿と連動して方向舵(ラダーペダル)を踏み込む、スロットルを絞る、機体が回転する、等あるが上空に上がって操作すると上手くいかない。全ての条件が整ってのことである。何時も重要なことは飛行機の機体が今どのようになっているかである。絶えず計器に注目、速度計、水平儀、重心を示す旋回計、高度計、飛行場の位置関係、風力、風向、他の飛行機の位置等を目視確認しながらの操作である。
操縦者にとつて一番危険である錐揉は、失速状態からの突入である。「垂直方向」と「水平方向」がある。垂直は機首を地表に向けて錐揉みを開始する事で、水平は機体が水平なまま回転してしまう事を言います。機体がどちらかの方向に傾き,それをきっかけにして自転を始めるとともに,機首を下に向けつつ,螺旋状の運動を起こす。一回転目はゆっくりと回り高度も比較的下がらないが、二回転目からは急に回転が速くなり高度の降下は一回転目の倍程度に、それ以降の回転は非常に速くなり危険である。機体によっては,きりもみの間に機首上げモーメントを生じ,水平に近い姿勢できりもみを続ける「水平きりもみ」と呼ばれる運動を起こすものもあり、回復不能が起こり機体の空中分解の恐れがある。また、重心の異動により操縦員の脱出ができなくなる。練習機は経験をする事ができるが実用機の「きりもみ」は空気抵抗が少ないために回復不可能である。何れも高度に注意して、動作中も急激に高度を失っているので即脱出しなければならない。また、錐揉み中に速度が出すぎている場合は回復しづらいと言われています。

     2007年3月2日記事

夜間計器飛行

新年 明けまして おめでとうございます
終戦から62年 海軍在籍中の峯山は数ヶ月でしたが、連日の訓練が月月火水木金金(美保海軍航空隊司令高橋俊策大佐の歌詞)と昼間、夜間、黎明、薄暮と区別なく行われたのでした。峯山の空は大変思い出の多い青春の土地です。これからもブログ続けていきます。

福岡では昼間計器飛行訓練が時々行われた。峯山へ帰ってきてからは単機で風向、風速は偏流測定器と計算盤を使用して算出(風に流される角度を計る)する方法で航法の訓練をした。夜間では海上に出て飛行時間が1時間を超えることがある。水平線が幽かに見えているが島影等は見えにくい。
すべての計器を見ながら飛行機の姿勢を保ち、水平儀と定針儀等(ジャイロ計器)を注視する。
進路変更の旋回については、旋回計の指針と重心の位置を示す球に注意して飛行機が横滑りしない様に、慎重に操縦することが必要である。どうしてもチャート(航空図)からコースのずれが生ずるのでそれを最小限にしなければならない。3角コースを飛行すると2回の進路変更の旋回でも実際は1km・2kmとずれるので、海上を飛行するのは毎回緊張の極みである。
絶えずチャートに記した地点に注意が必要で、飛行場の信号灯を見るまでは油断がならない。
(現在では色々な連絡通信方法があるが、当時は全て有視界又は経験、旗流、発光(オルジス)信号、無線による電信、電話に依り航法の訓練が行われた。)

     2007年1月9日記事

写真1

mine04.jpg
二等飛行兵曹に任官した。記念として峯山の写真館で写しました。
全員が一種軍装着用していますが、偵察員のW君がなぜか三種軍装でいます。(昭和20年4月)

     2007年11月15日記事

薄暮、黎明飛行

昭和20年4月に入ると訓練も夜間飛行に態様して薄暮、黎明飛行が重点になった。主として空域は、東に冠島、北は経ケ岬の海上、西は津居山、南は豊岡上空通過、飛行場の範囲で連日行った。薄暮は夕日が沈む頃離陸する。編隊飛行は昼間と違って機間距離の判定が違う。目安をしっかり遵守しなければならない。気流は大体安定しているので操縦は楽である。夕日は早く沈んでいくので暗くなっていく。山の稜線が見えにくくなる。
機影が空中に浮き上がらないので目視の注意が必要である。海上に出ると水平線が幽かに見える。列機の機高に注意が必要である。飛行場に帰投して着陸する時分は真っ暗闇、着陸指導灯にあわせパスの速度にスロットルを細かく調整しながら着地した。
黎明飛行は夜明け前に離陸発進する。上昇中はまだ暗いので山の稜線を確認しながら水平飛行に移る。
太陽が出てくると飛行方向によって編隊、列機が反射により見えにくくなる。気流は非常に安定している。
飛行場に帰投、着陸する時分は朝日が燦燦と照り快適である。
黎明飛行で福知山市の東、由良川河川敷に特設されていた石原基地に行ったことがある。滑走路の大変長い飛行場で端の方は地盤のせいか金網が敷いてあった。川霧がたちこめて朝日がまぶしかった。
時には大江山上空を通過することがある。対空監視所があり何時も人が出てきて手を振って頂くので小さなバンクで返礼した。

     2006年12月20日記事

峯山を後にして

私達の部隊も前線の基地へ移動する日が近づいてきた。毎日の作業も昼、夜間を問わず訓練に励んだ。峯山の飛行場もあと数日、離陸のたびに地上を眺めながら上昇した。上空から眺めると本当に小さな町である。しかし小高い山に挟まった景色のよい典型的な日本の故郷である。峰山町、網野の海岸も何回も上空を飛行した。
大江山も対空監視所をすれすれに通過、監視所の人がよく出てきて手を振ってくれました。兵舎は口大野村、長善村、河辺村、周枳村、峯山町に及んだ。私達搭乗員は長善村の織物工場跡の兵舎に居た。
航空隊本部が口大野村にあった為、常時軍需部に物品受領に出かけた。飛行場は河辺村を主体に広がっいた。飛行作業は兵舎から毎日駆け足で飛行場まで畑と田圃の中を走って行きました。
外出の時、下宿の人々も私達には大変好意を以って接して頂いた事が今思い出されます。大抵は峰山町にていましたが、時には宮津市まで出かけたことありました。
昭和20年7月1日第39期飛行術練習(操縦術専修)教程卒業 
基地展開も間近かとなり、各自遺書をしたためたり、遺髪を採ったり、郷里に送るため私物の整理荷造りを始めた。5月、6月と続けられた夜間飛行も、7月に入ってからは再び昼間の訓練に戻った。爆装による編隊攻撃、索敵、航法、試飛行等、総仕上げ的訓練を行い、いつでも展開できる態勢に入った。

     2007年5月19日記事


写真2

mine06.jpg
私達のペアー(小隊)は四機編成で一番機は偵察員が後席に搭乗します。
特別攻撃隊の編成後です。峯山海軍航空隊の飛行場の指揮所前。
ジャケツトと落下傘バンドを着けている、訓練出発前のスナップである。
この編成で鹿屋へ進出しました。

     2007年11月15日記事



基地展開

mine03.jpg

基地展開が発表された。名称は神風特別攻撃隊飛神隊となる。
1小隊4機に編成された。忠部隊40機、7月14日出発(鹿屋基地)。
武部隊20機、7月19日出発(岩国基地)。禮部隊12機(藤河基地)。
義部隊22機、7月26日出発(可部基地)。 
私は忠部隊に所属した。
昭和20年7月14日快晴、15・30 列線出発、滑走路に進入整列、4機編隊が揃う。
1番機より手が挙がつた、スロットル全開、離陸した。
その時思った、もう峯山には二度と帰ってこないと。前方に大江山が見えた。行く先は岩国基地である。
しばらく飛行して姫路基地上空に達した。敵の爆撃後のためか、市内には煙が上空に立籠っていた。
岡山を通過した。福岡から昭和20年3月空輸した時の状況と違って何か全体に黒ずんだ地上の状態であつた。全機揃って岩国基地着、岩国市の光福寺宿泊。(峯空会資料から)
昭和20年7月15日岩国基地発、福岡航空隊へ、7月16日〜20日まで機体整備と天候不良の為待機となる。
昭和20年7月21日福岡発、鹿屋に向う。途中私の小隊は天候不良の為熊本の陸軍飛行基地(現玉名市伊倉)に着陸、天候回復後離陸出水基地で一泊 鹿屋に向かう。(写真は峯山航空隊出発のとき格納庫前に集合)

     2007年6月29日記事

鹿屋基地 1 (忠部隊)

敵機の飛来時間を避けて出水基地を離陸、夕景が近づいてきた。鹿屋上空に来た。驚いた。飛行場は爆撃の跡で穴だらけ、何処え着陸するのか一瞬迷った。一番機がバンクした。誘導コースに順次編隊を解いて降下した。予備の滑走路(草叢の誘導路)に着陸した。
私達忠部隊の隊員は飛行場の近くの丘陵地帯の錦谷(九州で海軍 錦?鉾?部隊と呼ぶのが駐屯していたと伝えられる)に分散、以前に使用したと見られる仮設の兵舎に取りあえず落ち着いた。
鹿屋基地では毎朝8時になると空襲警報が鳴る。B29の大編隊が低空飛行にて上空を通過する。一番機が飛行場に爆弾を投下する。すごい音である。飛行場は穴だらけになる。北九州工業地帯の爆撃に行くのだろう。
指揮機が爆弾を投下して機体を軽くするのが目的か?。通過した跡は高高度でP38が旋回しながら次の交代の飛行機が来るまで待っている。時によりグラマンが数機突然飛来して機銃掃射をする。どの方向から来るかわからないので大変である。何時も昼間は交代で見張台にいるが非常に危険である。
爆撃が通過後一斉に飛行場の爆弾で出来た穴を埋め戻しに地上整備員の人々は忙しくなる。トラックに乗車して軽石を積み込み(この地区は昔火山の噴火の跡で軽石が非常に多い)作業する。夜の特攻攻撃の飛行機の離陸に備えて。
参考文献より (米軍が沖縄に上陸した後で、鹿屋基地は陸軍の知覧とともに沖縄作戦の特攻基地となり、本土基地から中継に着陸、爆装して連日特攻隊が出撃していった。飛行場は敵機に機銃掃射を受けたり、米軍の爆撃機の滑走路に爆撃して大きな穴を開ける。穴埋めに奔走する毎日である。
(この編隊は北九州工業施設を爆撃していたと聞いた。) 毎日が戦場という体験を繰り返していた。
鹿屋は戦争末期、海軍の最前線航空基地となっていたが、連日の空襲で既存地上施設はほぼ使用に耐えず、各部隊とも周辺の地形を利用した待避生活を送っていた)。

     2007年9月21日記事


鹿屋基地 2 (忠部隊)

毎日が戦場である鹿屋基地では、爆撃や機銃掃射にて兵舎も危険になってきた。監視の為の見張り台も、爆音もせづに突然襲ってくる敵グラマンの機銃掃射に見舞われるので、バラツク建の兵舎も住居としては危険なために、壕に異動することになった。谷沿いに降りて行くとほんの少しの平地があった。横穴が各所に掘ってある。
何時こんな壕を掘ったのか驚きである。中は主の通路、横の通路、二段ベツトのある寝室壕、等。食事は壕の外の小さな空き地でしていた。テーブル、椅子があった。洗濯も適当に干した。しかし白いものは敵戦闘機に発見されるので注意した。どうして分かったのか機銃掃射を受けた時もある。夜間は各基地から来る特攻攻撃の部隊が沖縄に向って出撃するので、それに向って攻撃が頻繁になり、飛行場の方で火があがる。
低空でグラマンが機銃掃射をしながら通過して行く。凄い音である。壕の生活は、暗く、狭く、暑く、特にこの夏は辛い。夜、巡検がすんでも中に入る気がしない。蚊にくわれながら外で涼をとる。
毎日夜遅くなると偵察機彩雲が戻ってくる。戦果を確かめてくると聞いたことがある。

     2007年10月29日記事

この一年を顧みて

ブログを始めて丁度一年が過ぎた。今年も8月15日がきた。

昭和20年8月15日鹿屋海軍航空隊の錦谷の兵舎(山の下を刳り貫いた穴の中)にて、終戦を知ったのは2、3日後だったと思います。B29の爆撃が止んで上空にはP38が一日中高高度を飛行している。変だと思った。
その日の深夜、戦争が終わった直に本隊に帰れと分隊士が言った。・・・・・・・・・・・・
今年も連日暑い日が続いている。あの日も同じような暑い日であったと記憶している。
私も80才となった。記憶もはっきりしない部分もあるが、ブログを続けます。

     2007年8月18日記事


可部基地 (義部隊) ある隊員の体験談より

 ある隊員の体験談より
岩国と周辺の基地に進出した、峯山空の飛神隊、武、禮、義の各部隊は、共同で夜間飛行を続けた。
空襲の合間を縫ってのぎりぎりの飛行作業であつた。同時に禮、武部隊は秘匿基地「藤河」に、義部隊は「可部」に異動した。先に整備科が進出して基地を形成していた。広島市の北部(現広島市安佐北区)の可部地区から峠を越えて東北に17キロの地点にあった。滑走路は国道54号線に沿って長さ600メートルであった。
標高は242メートル、本土決戦に向けて全国各地で特攻隊の発進基地として「牧場を作れ」と海軍から命令して緊急に造成された(国安牧場)。林の中2キロも入った所まで誘導路が伸びて格納庫も作られた。近辺に25番(250キロ)の搭載する爆弾を入れる木の箱が野積みされていた。隊員も地元住民にとつても、大きな負担となったのは擬装作業だつた。気休めでしかないのだが、当時の海軍はうるさく勝走路には野小屋が10戸ほど置かれて草や木が茂っているように竹や木の枝を敷き詰めて本当の農園に見せかける大仕掛けなものだつた。
作業は毎日行はれ、飛行機が離着陸する時はそれらを移動して、また復旧するのだ。
峯山海軍航空隊飛神隊義部隊本部は明顕寺本堂に置かれていて、下士官搭乗員宿舎になつていた

     2007年2月20日記事



藤河基地 (禮部隊) ある隊員の体験談より

ある隊員の体験談より
藤河基地は可部基地と共に秘匿飛行場で、錦川の河川敷をならして滑走路とした、上空から見た滑走路は、砂利で固めた急造のため、明瞭に識別できるので、迷彩を施す必要があつた。滑走路に雑草を植え、鉢植えの桑もつくり畑から続いているかの様に似せた。また可動の掘っ立て小屋や樹木でカムフラージュしてある。離着陸の際には、地上の勤務員がそれらの物を移動させるのである。
また、滑走路の地ならしにはドラム缶よりやや大きい水タンクを転がしてローラー代わりとした。
これを転がすのには、中の水がどぶんどぶんと動揺するので、なかなか要領がいる。
滑走路の整備には、地元の生徒も勤労奉仕に出てきた。女子を含む生徒達の中には、後席に搭乗して地上滑走を、又そのまま離陸して初体験をした者もいた。飛行機は翼をはずして林の中に秘匿。滑走路との往復には、翼なしで後席に整備員を乗せ、エンジンを吹かしながら田舎道を砂煙を上げながら滑走した。隊員は、天理教の道場ゃ付近の民家に分宿、整備分隊は小学校に陣取った。
8月14日未明、総員集合が掛けられ、外部の者に伝達事項が聞こえぬように校庭の中央部に集まった。出撃準備の命令である。禮部隊の全機は、燃料満タン、何時でも出撃できる態勢に入った
しかし翌日15日、玉音放送があり、部隊は藤河基地秘匿飛行場を撤収して峯山に帰隊することになつた。8月20日岩国基地、可部秘匿基地上空を通過して、各小隊毎に帰隊した。

     2008年1月20日記事



岩国基地 1 (武部隊) ある隊員の体験談より

ある隊員の体験談より
峯山海軍航空隊飛神隊武部隊の岩国基地へ展開したのは、昭和20年7月中旬であった。忠部隊は先発として、鹿屋基地に展開中であり、遅れてはと万感胸に秘め、盛んな見送りの下、忠部隊の出陣後数日を経ずして峯山海軍航空隊を発進した。
岩国基地到着早々、昼・夜の最終訓練に入った。峯山から空輸した愛機は隊舎としていた岩国郊外の山腹に秘匿し、飛行場から海上数キロの所に浮かぶ甲島を、敵艦と見立てての特攻訓練である。ただ敵グラマン戦闘機が、間断なく飛行場に来襲、訓練を終え、滑走路に着陸したと同時に、機銃掃射を受け、避けるいとまもなく地上に伏せる有様である。この為訓練は、敵機来襲の間隔を狙っての間引き訓練であった。
岩国では本部は光福寺に置かれました。飛行場まで約2キロほどありましたが、駆け足で往復しました。
343空の分遣隊があったので、迎撃部隊の紫電改が列線に並んでいた。

     2007年12月16日記事


鹿屋基地 3 (忠部隊)

8月14.15日頃から毎日の定期便であるB29の大編隊が上空を通過するのがやって来ない。唯高々度でP38がゆっくりと旋回している。今思うに終戦の詔勅(玉音放送)を聞いたのかどうか思い出せない。
壕の近辺で陸軍の兵隊に会った。戦争は終わった、日本は負けた、と言っていた。
(いま考えれば復員してきたのでしょうか ? 陸軍は情報が早かったのか)。
鹿屋基地の上空は晴天で暑い夏であった事は覚えている。分隊士か誰が言ったのか知らないが20日夜、部隊解散すぐに本隊に各自帰隊と達せられた。壕の前方広場は何もかも焼き捨てているのか火が煌々と燃え上がっている。私は雑嚢に適当に日用品をいれて、真っ暗な夜道を錦谷から鹿屋駅に向かった。服装も三種軍装で運動靴であった。誰と一緒に同行したか思い出せない。鹿屋駅前は人々で大混雑していた。荷物を一杯持っている兵隊で混雑している。汽車が何時来るか判らない。停車していた列車にもぐりこんだ。客車の中は荷物と人間で大混雑である。なにがなんだか判らないまま海軍時代が終わるのかと一瞬思った。
(この日のことは青春の軌跡で各自いろいろと記憶をたどり、回想録で記しています。)

私の海軍時代は、思い返せばそんなに長い期間でも無かったのですが、今81歳の過去としては人生の進路を変えたものでした。非常に沢山の経験・知識・人間関係・等、勿論詰め込みの様なことも多々ありますが、人生の糧をえました。海軍で学んだ事が色々と役立った事がありました。
今は無き戦友のご冥福を祈りながら私のブログは今回にて一応終了いたします。

悠遊職工房さんのWebからリンクして頂いています。また私達の元隊員の団体、峯空会編纂誌「青春の軌跡」「青春群像」の記事から詳しく掲載して頂いて編集者に代わりまして感謝いたします。
又コメントを頂きました方々、適当なご指摘頂いた方、合せて感謝いたします。

最後に私達の転勤、異動先 人員は下記の通りです。


異 動 基 地

峯山在隊           12
岩国海軍航空隊      18
鹿屋海軍航空隊       26
霞ヶ浦海軍航空隊     11
霞ヶ浦-美幌海軍航空隊  3
可部海軍航空隊       7
土浦海軍航空隊       4
土浦-滋賀海軍航空隊   2
藤河海軍航空隊       6
神町海軍航空隊      19
神町-312空 他       7
殉職 病死           5

合計人員        120

     2008年8月1日記事


作成 平成20年5月30日

ご注意! 上記ページ内の記事、画像等は、「青春の軌跡(続)」編集者に著作権が帰属しています。したがい、編集者および本サイトの管理者の許可無く、他サイトに転載、転送、リンクを禁止します。また印刷して第三者への無断配布も禁止します
 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!


inserted by FC2 system