京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。
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補足資料 前川資料より転載(2) 太平洋戦争の経過 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2、、大本営発表は戦果を過大に被害は僅少に …平成12年8月15日記 大戦中、国民の戦意高揚のためか大本営及び、軍管区等は事実と違う発表をしたが、誰も疑うことなく、子供心に大喜びしていた。 海軍在籍中も新兵に軍事情報が伝わる訳もなく信じていたが、大戦末期になるや米軍機の来襲、沖縄特攻等敗戦は近いと思っていた。 8月15日、高知空で穏やかに敗戦を迎えた。今、戦史書等で的確な資料を得ることが出来たので参考にまとめて見た.(小林孝裕著・海軍野郎よもやま物畿)
さて、伊藤正穂著『大海軍を想う』によると、まずわが方の損害のトータルは、つぎのような隻数になつている。
一方、敵艦を”完全に撃沈した”のは、つぎのようになっている。 真珠湾の四隻など修復就航したものや、大破はくわえられていない。
また飛行機の生産数と消耗数はつぎのようである。
昭和20年4月1日には、11,344機あったが、8月15日の実数は8,212機である、という。 この残った飛行機は、『月刊・予科錬』 (「終戦時海軍航空隊の基地保有機調べ」 本資料提供甲十三期、福島稔朗氏)によると、別表のようになっている(省略)。 小生の乗った飛行機ほ、どうなったか知らない.おそらくスクラップになってしまったであろう. 飛行機生産数・特攻出撃 @昭和16年から敗戦までの4年間で、生産数 米国・約260,000機 日本・約 58,000機 A特攻出撃は、 海軍=2,367機 2,525人 陸軍=1,094機 1,844人 20.8.15 終戦の大詔が発せられた後、 資料より転載しました。 |
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峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物 保存運動を! |
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