京丹後市の昭和の遺産 丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のページ。
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丹後の戦跡! 峯山海軍飛行場跡のサイト作成理由 | |||
峯山海軍航空隊のサイトの作成を決意した理由 | |||
戦後の草茫々の飛行場跡に中にポツンと建物が残っていた記憶からすれば、この地域は非常な発展を遂げつつあります。かろうじて残っている航空隊の遺構も、戦後の払い下げで、今は個人所有、会社所有となり、老朽化して、この地域開発により、今に取り壊される運命にあります。 遺構建築物が
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大宮町のデータページ 「大宮町誌」の中に、出ている部分はがありました。 (−このサイトの大宮町誌の内容を公開したページ−) (-大宮町誌(Web版)第一節 戦中戦後の状況4 を開く-) |
個人ページとしては、のむさんの独り言の中の (−これを見ろー)しか発見できていません。 |
京丹後市、または自治体のサイトに公式な記録ページがが無い以上、
せめて個人的なサイトにでも残しておくべき、と思い立ちました。
当時の兵隊さん(RHさんブログから) |
と思いました。
(ページ作成をして、ますますこの思いは強くなりました。h18.10追記)
しかし最初に調査してみると
言い伝え以外の説明情報はほとんど無い、
最初に出会ったのは 峯空会編「青春の軌跡」のみ
丹後の地に、少年飛行兵の特攻隊訓練基地があった。 この丹後半島の地で、昭和20年の戦争末期に数百名の少年飛行兵が飛行訓練をして、 そのなかで百名もの神風特攻隊が組織され、命がけの訓練を行い、犠牲者も出ていたのです。そして、訓練を終え、特攻隊員として前線基地へ飛び立っていたのです。 さらに、特攻隊の出て行った後には、米軍機動部隊の艦載機による攻撃を受けて戦死者を出しています。 残っている遺構の建物にも今でも、爆撃を受けた時の米軍艦載機の爆撃、機銃掃射により出来た、弾痕の跡(ーこれですー)が今も残っているのです。 |
なんとかページを作成したい、
とにかく早くページを作成しなければ。。
「郷土と太平洋戦争」(−河辺飛行場と被爆の記録−)
なんと大宮中学校の先生が学校教育の一貫として、
戦後34年後にこのような記録を残しておられたのです
注目! 本ページ作成中に画期的なことが出来ました。 平成18年8月14日、 隊員経験者RHさん(79歳!!当時)が 峯山海軍航空隊(仮称)ブログを始められました(9月2日リンク許可) 平成20年8月1日 3年にわたったブログ更新を一応81歳をもって終了されました。 ご高齢ながら貴重な証言をお書きいただきありがとうございました。 |
(−峯山海軍航空隊跡地サイトの作成の目的もお読みくださいー)
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