京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。

(8)峯空会のあゆみ

峰友会名簿の作成 昭和21年9月

 終戦後満 1年を経過した昭和21年9月、在京の有志により峯山海軍航空隊の搭乗員の中で、

 特攻編成に加わった者を主体に128名と、その関係者 8名計136名の名簿を作成した。

 その中には、不幸にも訓練飛行中殉職された、戦友のご遺族や戦災者の住所も含まれていた。

 名簿は単に住所のみを記載したものでなくて、各自の職業その他近況についてのコメントが簡単に記載されていて、当時の状況を知る上で極めて興味深い。各自の記憶は曖昧なものが多いが、この名簿はその時点での事実を書き記してある。

 復員してからの 1年の模索の中で、取り敢えず食わんがための選択の結果である。ある者は農業を営み、またある者は教職につき、警察官になったり、復員船に乗っていたり、復学したりで、千差万別である。ただ条件に恵まれた者は、乞われて?早くも嫁をもらったりしている。

 物のない時代であり、この時名簿に使われた紙は、不要になっていた京都西陣織物卸商業組合の証紙で、その裏面にガリ版で印刷した。そして郵便局から発送した翌日、マックアーサー司令部直属のCICから呼び出しを受けて出頭を命じられた。幸い名簿の作成意図を素直に理解してくれて、無事にお手元に送付することができた。

【名簿のあとがきより】


 終戦以来、早ヤ一越年。夫々ノ立場二オイテ祖国の再建ノ道二励ンデ居ラレルコトト愚考シテ居リマス。
 侍テ、今般在京ノ有志相図り。昔日ヲ忍ンデ旧交ヲ暖メ。有無相扶ケテ団結ヲ強固ニセント。仮称『峰友会』名簿ノ作成ヲ発案、漸ク出板ノ運ビトナリマシタ。本名簿ノ作成ニヨリ、少シデモ皆様方ノ連絡ノ便二賀スルトコロトナレバ幸甚二存ジマス。

 本書上梓ノ目的ノ一ツタル殉職者ノ遺族並ビニ戦災者ノソノ後ノ状況調査ニハ、出来ル限り努力シマシタガ、九月一日現在尚未判明者若干アリ、コノ点遺憾二存ジテ居マス。
 猶生活不安定ナル昨今、住所、職業ハ軽々トシテ正鵠ヲ期シガタク、自今益々連格ヲ密ニ、身上二変動アラバ、御面倒ナガラソノ都度ゴ一報下サル様オ願シマス。

 終ニノゾミ、本名簿上梓二際シ資料収集ソノ他二多大ノゴ尽力ヲ賜ツタ・・今高、藤村両君二衷心ヨリ厚ク御礼申シ上マス。  大豊作ヲ祈リツツ。



 この名簿を作成してから夫々生きんがための生活があり、個人同志の親しい付き合いはあったものの、組織的な会合はなく過ぎ去り、気が付いたらあっという間に二十年が経過してしまった。

 その後作成された名簿は、

昭和四十年 五月(あいうえお順)
昭和四十四年十月(い ろ は 順)
昭和四十八年五月(各期、各課別)
昭和五十一年二月(各期、各課別)
昭和五十七年九月(各期、各課別)
昭和六十三年四月(各期、各課別)

と前後七度で、最初だけは峰友会名簿となっているが、二度目からは峯空会名簿の名称で作成されている。
 そして萩野飛行長を中心に、三十九期を主体とした会合を、四十年の一月と五月に京都と東京で持った。ただ皆の脳裏に強く炊き付いていたのが、現地峰山での会合を持つことであった。


峯空会の結成


 大黒柱の荻野飛行長が亡くなられたが、ようやく機が熟し四十七年五月京都の洛陽荘で開いた峯空関西地区集会で、一挙に現地総会の開催、峯山海軍航空隊の記録作成を議決した。

 それに基づきこれまでの三十九期を主体とした飛行科だけのメンバーでなく、各科、各期のグループも統合して峯空会をつくろうと、峯山海軍航空隊め編成員であったすべての人に広く呼びかけることにした。

 また、後半特攻隊がつくられるまでは、練習航空隊であったので、飛行術練習生として在隊した、三十七期、三十九期、四十一期、四十二期の同窓会ともなったのである。



第一回 現地総会


 昭和48年5月14日、待ちに待ったこの日、戦後28年振りの現地総会が、大宮町の織物ホールで開催された。呼び掛けに応じて全国各地から馳せ参じた隊員は、タイムトンネルから解放された。今日ばかりは社長も、課長も、平社員もなく航空隊時代の階級が物をいった。

 戦後も隊員の信望の厚かった荻野飛行長も今は亡く、渡辺軍医長を会長に推挙した。会長のお人柄と包容力で峯空会は纏まりの良いものとなった。さらに顧問に小関司令、菅原司令、そして後日、中島飛行長ならびに小西嘱託を仰いだ。

 さて、総会は、渡辺会長、小関司令、安田大宮町町長と挨拶が進むに連れ、会場一杯に熱気が溢れる。そこで小西氏が今日のために精魂込めて作成した力作『青春群像・峯山海軍航空隊の記録』のオートスライドを上映する。今でこそこの技術はポピュラーなものになったが、二十数年前のアピールは強烈で見る者に大きな感動を与えた。


 小関司令も「東京で海軍関係の集まりにたびたび出席するが、こんな心の寵もった盛大な会合は始めてだ。一つの航空隊での集会で、全組織を挙げての集まりは、恐らく他にはないのじゃないか。」と訥々とした言葉の中に感激をこめて話されていた。

 ご遺族の方々も、手を握り肩を抱きあって思い出話に花を咲かせている隊員たちの語らいや、歌声に涙ぐんでおられる。生と死の大きな隔たりがこの時こそ胸に刻み込まれたと思う。

 戦いに破れて廃墟と化した郷里に引き揚げ茫然自失の中から立ちあがり、経済大国の道をひたすらまっしぐらに突っ走ってきた日本は、或る程度の復興には成功していたが、反面それが及ぼす歪みも避けられず、福祉国家の方向に若干転換しようとしている時代でもあった。

 総会に参加した隊員の胸を過ったものは、全員が戦後の日本の社会で、力一杯頑張ってきた喜びと自負であったが、同時に不運に戦死、殉職を余儀なくされた戦友の無念の思いが忍ばれてならなかった。


改  葬


 第一回の現地総会は盛会に幕を閉じたが、総会準備のため四月下旬小山君と現地に打ち合わせに来た時、予てから村人たちから聞いていた遭難機の調査を行った。

 峰山の警察署は戦後火災で全焼し、公式記録はなくなっていた。遭難機発見者でその時の状況をよくご存じであり、今も自宅の敷地の中に仮埋葬していただいている滝市氏に実態をお聞きした。その機は増田、曽根機ではないかと判断されたが、遺体は西中尉、坂根兵曹の名の装具を付けていた。東京の松永君に依頼して厚生省援護局にこの二人の該当者の調査を依頼した。

 総会当日結果が判明し、宿舎和久伝に返信が届けられた。西中尉、坂根兵曹という名前の遺骨未確認の該当者はいない。また舞鶴復員局の公式記録が見つかり、それには遺骨、遺品ともに遺族に引き渡し済みとなっていた。

 諸般の状況判断から仮埋葬されている遺体は増田、曽根両君のものであることは先ず間違いない。増田中尉のご母堂ムメ様は年を召しておられ、成るべく早く引き取りたいと強く希望された。それより前お宅にお伺いした時、大阪復員局から「西」という署名のある飛行靴と黒焦げの頭蓋骨を遺品として受けとったとお聞きしていた。またその折「鈴木さん、たとえそれが勝行のものでなくてもよろしいではないですか。私が息子ともう一人の戦友をお守りしてさしあげます」とおっしゃった。

 二人の遺骨は合葬してあることを滝市氏からお聞きしていたので、改葬は両家同時におこなわねばならない。五月二十二日同期の荻野君の案内で曽根家を訪問した。

 兄上の繁様は重い口を開かれ、確かに遺体発見の連絡を安け、現地へまいりましたが、遺骨として渡されたのが、飛行機の残骸であったこと、また海軍葬の後で渡すれた骨壷の中身が、どう間違ったのか同期の羽田君の日誌であったことなどから、強い不信の念を持っておられた。いかに戦後の混乱期であったとはいえ、余りにも杜撰な遺骨の処理に驚いた。

 状況説明で曽根様も納得され、増田家の都合に合わせて改葬することに同意していただいた。七月六日、改葬の前夜宿舎和久伝に参集願った地元に住む元隊員の坂内整曹長が、「私が遭難機の検証に立ち会った」と話され最後まで残っていた疑問も解明された。

 慶徳院さんの読経のあと参列者の焼香があり、終わって滝市氏が「今日まで私がお守りしてきましたが、明日からは本当のお母さんや肉親の方の手に帰れますよ。どうぞ安らかにねむってください」と挨拶された。

 遺骨の骨折のひどいのは増田中尉、そうでないのは曽根一飛曹の骨と手際よく二つにわけられ、増田中尉の金環を嵌めた歯もみつかった。遺骨は皆で納棺し、終わって霊柩車で竹野川火葬場にむかう。待つことしばし。茶毘に付された二人の遺骨はご遺族の手で、ひとつひとつ丁寧に夫々の骨壷に収められた。


峯空会の足跡

48. 5.12 第一回峯空会総会 和久伝
      13 慰霊祭 大宮町織物ホール
         青春群像「峯山海軍航空隊の記録」 刊行

48. 7. 6 増田中尉、曽根一飛曹の改葬 慶徳院

50. 3.13 第二回総会 熱海 志ほみや旅館

51. 3.13 第三回総会 片山津 北陸国際ホテル
   11.14 峯空園植樹式

52. 4.16 第四回総会 和久伝
    4.17 峯空園 開園式

55. 6. 7 第五回総会 伊東 大志づ旅館

57. 4.17 第六回総会 天ノ橋立 玄妙庵
      18 峯空園 開園五周年式典

59. 5. 5 第七回総会 嵐山 嵐峡館
       5 慰霊祭 天龍寺飛雲観音

61. 4.26 第八回総会東京 九段会館
      27 慰霊祭 靖国神社

63. 4. 9 第九回総会 天ノ橋立 橋立ホテル
      10 峯空園 開園十一周年観桜会

63.10.15 峯空会 会報15号「峯空会の軌跡」発行

H2. 4. 8 河辺区主催 第一回桜まつり
    5.26 東京集会 水交会 東郷神社参拝

 3. 4. 7 河辺区主催 第二回桜まつり 懇親会 和久伝

 4. 4. 5 河辺区主催 第三回桜まつり 懇親会 中村屋
       6 峯空園 開園十五周年観桜会
 4.10. 2 第十回総会 京都 ホテルニュー京都

 5. 4.11 河辺区主催 第四回桜まつり 懇親会 竹藤屋

    5. 5
   〜6. 7 にかけて殉職した隊員七名の五〇回忌墓参

 6. 4. 9 河辺区主催 第五回桜まつり 懇親会 吉翠苑

 7. 4.12 河辺区主催 第六回桜まつり
      13 峯空五十年祭 第十一回総会
         戦没者慰霊祭 国民年金健康センター「おおみや」

「青春群像」 峰山海軍航空隊の記録刊行

 峯空会の結成を呼びかけると同時に、峯空会編集委員会が設けられ、峯山海軍航空隊の記録を刊行しようと計画された。

 しかし、編集委員会とて、人伝ての情報で、隊の全体像もわからず、思い出を書いてもらうことからはじめよう。日記や、記録をもっている人に提出してもらおう、写真を集めようというところから始まった。


刊行の協力と調査の要請


  「峯山」という地名を呼ぶとき、さまざまな思い出が蘇ってきます。お互いに話し合ってみて、二十七年の歳月を忘れる程の強烈な印象であったことが分かります。それを活字にしようというのです。それは記録と印象の保存ということでありましょう。市販するものでないから、各自の主観が強く働いても良いと思います。

 こんにち、平和を確かめ合いながら、あの戦争の体験を記録に留めることは、次代に語り継ぐ責重な伝承になりましょう。われわれは当時純情そのものでした。命を懸けて、国のために情熱をふり絞り、肉体に鞭打ったのでした。その自分自身を全員の執筆と参加によって編集しようと考えます。
  純朴な農村であった峰山盆地の人情や風物は、この航空隊に家庭的な暖かいムードをもたらしてくれました。十名の同僚が眠るこの地も、戦後は織物の町として見違えるほど立派になりました。口大野にあった本部や、長善の兵舎は、もとの織物工場の建物として僅かに昔の面影を残し、ただ一つ残っている格納庫も、飛行場跡地が丹後織物の工場になったせいか、場違いな感じを禁じ得ません。
   この記録には、開隊から解隊までの間に訓練に従事した三十七期から四十二期までの練習生を中心に、彼等の教官、教員、そしてそれらを支えた整備科、主計科などの定員分隊の方々にも是非加わって頂き、航空隊の全記録にしたいと思っています。積極的なご協力とご参加を期待しています。

                      編 集 委 員 会


 来年五月開催を決めた峯空の二十八年振りの現地総会まで、あと一年しかない。この要請文を出したものの、果たしてどれだけの原稿が集まるか疑問視された。

 そこに強力な助っ人が現れた。

 小西幸三郎(丘太郎)氏である。峯空時代に戸梶分隊長の要請で、編隊飛行の目安となる飛行機の位置を絵で画くため、長期にわたり在隊され昵懇であった。

 京都の方であったという記憶があり、電話帳で調べたところ番号がわかった。聞けば著名な電通のクリーエティプ部に在職中とのことで、事情を説明してご協力が得られる事になった。なにしろ素人集団の初仕事で、思案なげ首の状況だったので、専門的な立場からのアドバイスや協力は決定的な要素となった。

 まず峯空会のシンボルマークである。もしそれが峯でなく峰だったらこのマークは考えられなかった。峯空会のシンボルマークを良く見て頂きたい。海軍を現す錨と峯がうまく結合している。そしてその左右の大きく羽ばたく羽根は航空隊の象徴だ。彼も長い作家としての作品のなかでもこれは傑作。と自画自賛されている。


 次に『峯山海軍航空隊の記録』のタイトルを『青春群像』とし、本の体裁から表紙まですべてのレイアウトを引き受けていただく事になり内容はともかく外観だけは素晴らしいものになった。

 8月24、5日にわたり編集委員は初めて現地訪問。文芸春社刊の昭和45年12月号の臨時特集号に掲載されている写真が、飛神隊発進の時のものであることを確認する。

 10月7日、豊中で第二次編集会議。決定的な重要資料となった責重な渡辺軍医長日記、今高先任教員提供の資料、数多くの写真などの入手ではずみがつき、広く原稿執筆依頼。

 10月12日、東京での編集会議。説明不足の感じのあった東京とその近郊在住者の積極的な支援が得られることになり、作業は軌道にのる。

 12月16日、17日、総会準備と取材のため二度日の現地訪問。

 明けて、2月3.4日飛神隊の展開基地だった岩国、藤河、可部基地取材。きわめて短い期間ではあったが、原爆体験や終戦という歴史的な瞬間を共にしたせいか、いまも鮮烈な印象を残していることが実感された。

 久保、菅原、小関の元分遣隊長、司令よりも励ましを更け、地元の方々のご協力が嬉しかった。最終的に寄稿者の数は百名を越し、採用した写真・挿絵など137枚、当初の予測の200頁を遥かに越し370頁にも及ぶ大部になってしまった。

【青 春 群 像  峯山海軍航空隊の記録】

  は じ め に

   (写真構成)若桜は征く

 序  章  耳をすませ 目を閉じよ

 第一章  鎮魂の賦

 第二章  決戦の大空へ宜候(ようそろ)

 第三章上 不滅の若桜

 第三章下 無念の歯がみ怯えつつ

 第四章  挺  身

 第五章  空征かば雲染む屍

 第六章  神話の終焉

 第七章  峯山航空隊と共に

 第八章  追憶の記録



(9)峯空園の造成から河辺区の桜まつりのページへ移動



峯空会編 「青春の軌跡」 から転載



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 峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成
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