京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。
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このページは、峯空会編 「青春の軌跡」 から転載しました。
(8)峯空会のあゆみ | ||
峰友会名簿の作成 昭和21年9月終戦後満 1年を経過した昭和21年9月、在京の有志により峯山海軍航空隊の搭乗員の中で、特攻編成に加わった者を主体に128名と、その関係者 8名計136名の名簿を作成した。 その中には、不幸にも訓練飛行中殉職された、戦友のご遺族や戦災者の住所も含まれていた。 名簿は単に住所のみを記載したものでなくて、各自の職業その他近況についてのコメントが簡単に記載されていて、当時の状況を知る上で極めて興味深い。各自の記憶は曖昧なものが多いが、この名簿はその時点での事実を書き記してある。 復員してからの 1年の模索の中で、取り敢えず食わんがための選択の結果である。ある者は農業を営み、またある者は教職につき、警察官になったり、復員船に乗っていたり、復学したりで、千差万別である。ただ条件に恵まれた者は、乞われて?早くも嫁をもらったりしている。 物のない時代であり、この時名簿に使われた紙は、不要になっていた京都西陣織物卸商業組合の証紙で、その裏面にガリ版で印刷した。そして郵便局から発送した翌日、マックアーサー司令部直属のCICから呼び出しを受けて出頭を命じられた。幸い名簿の作成意図を素直に理解してくれて、無事にお手元に送付することができた。
この名簿を作成してから夫々生きんがための生活があり、個人同志の親しい付き合いはあったものの、組織的な会合はなく過ぎ去り、気が付いたらあっという間に二十年が経過してしまった。 その後作成された名簿は、 昭和四十年 五月(あいうえお順) と前後七度で、最初だけは峰友会名簿となっているが、二度目からは峯空会名簿の名称で作成されている。 そして萩野飛行長を中心に、三十九期を主体とした会合を、四十年の一月と五月に京都と東京で持った。ただ皆の脳裏に強く炊き付いていたのが、現地峰山での会合を持つことであった。 峯空会の結成大黒柱の荻野飛行長が亡くなられたが、ようやく機が熟し四十七年五月京都の洛陽荘で開いた峯空関西地区集会で、一挙に現地総会の開催、峯山海軍航空隊の記録作成を議決した。 それに基づきこれまでの三十九期を主体とした飛行科だけのメンバーでなく、各科、各期のグループも統合して峯空会をつくろうと、峯山海軍航空隊め編成員であったすべての人に広く呼びかけることにした。 また、後半特攻隊がつくられるまでは、練習航空隊であったので、飛行術練習生として在隊した、三十七期、三十九期、四十一期、四十二期の同窓会ともなったのである。 第一回 現地総会昭和48年5月14日、待ちに待ったこの日、戦後28年振りの現地総会が、大宮町の織物ホールで開催された。呼び掛けに応じて全国各地から馳せ参じた隊員は、タイムトンネルから解放された。今日ばかりは社長も、課長も、平社員もなく航空隊時代の階級が物をいった。 戦後も隊員の信望の厚かった荻野飛行長も今は亡く、渡辺軍医長を会長に推挙した。会長のお人柄と包容力で峯空会は纏まりの良いものとなった。さらに顧問に小関司令、菅原司令、そして後日、中島飛行長ならびに小西嘱託を仰いだ。 さて、総会は、渡辺会長、小関司令、安田大宮町町長と挨拶が進むに連れ、会場一杯に熱気が溢れる。そこで小西氏が今日のために精魂込めて作成した力作『青春群像・峯山海軍航空隊の記録』のオートスライドを上映する。今でこそこの技術はポピュラーなものになったが、二十数年前のアピールは強烈で見る者に大きな感動を与えた。 小関司令も「東京で海軍関係の集まりにたびたび出席するが、こんな心の寵もった盛大な会合は始めてだ。一つの航空隊での集会で、全組織を挙げての集まりは、恐らく他にはないのじゃないか。」と訥々とした言葉の中に感激をこめて話されていた。 ご遺族の方々も、手を握り肩を抱きあって思い出話に花を咲かせている隊員たちの語らいや、歌声に涙ぐんでおられる。生と死の大きな隔たりがこの時こそ胸に刻み込まれたと思う。 戦いに破れて廃墟と化した郷里に引き揚げ茫然自失の中から立ちあがり、経済大国の道をひたすらまっしぐらに突っ走ってきた日本は、或る程度の復興には成功していたが、反面それが及ぼす歪みも避けられず、福祉国家の方向に若干転換しようとしている時代でもあった。 総会に参加した隊員の胸を過ったものは、全員が戦後の日本の社会で、力一杯頑張ってきた喜びと自負であったが、同時に不運に戦死、殉職を余儀なくされた戦友の無念の思いが忍ばれてならなかった。 改 葬第一回の現地総会は盛会に幕を閉じたが、総会準備のため四月下旬小山君と現地に打ち合わせに来た時、予てから村人たちから聞いていた遭難機の調査を行った。 峰山の警察署は戦後火災で全焼し、公式記録はなくなっていた。遭難機発見者でその時の状況をよくご存じであり、今も自宅の敷地の中に仮埋葬していただいている滝市氏に実態をお聞きした。その機は増田、曽根機ではないかと判断されたが、遺体は西中尉、坂根兵曹の名の装具を付けていた。東京の松永君に依頼して厚生省援護局にこの二人の該当者の調査を依頼した。 総会当日結果が判明し、宿舎和久伝に返信が届けられた。西中尉、坂根兵曹という名前の遺骨未確認の該当者はいない。また舞鶴復員局の公式記録が見つかり、それには遺骨、遺品ともに遺族に引き渡し済みとなっていた。 諸般の状況判断から仮埋葬されている遺体は増田、曽根両君のものであることは先ず間違いない。増田中尉のご母堂ムメ様は年を召しておられ、成るべく早く引き取りたいと強く希望された。それより前お宅にお伺いした時、大阪復員局から「西」という署名のある飛行靴と黒焦げの頭蓋骨を遺品として受けとったとお聞きしていた。またその折「鈴木さん、たとえそれが勝行のものでなくてもよろしいではないですか。私が息子ともう一人の戦友をお守りしてさしあげます」とおっしゃった。 二人の遺骨は合葬してあることを滝市氏からお聞きしていたので、改葬は両家同時におこなわねばならない。五月二十二日同期の荻野君の案内で曽根家を訪問した。 兄上の繁様は重い口を開かれ、確かに遺体発見の連絡を安け、現地へまいりましたが、遺骨として渡されたのが、飛行機の残骸であったこと、また海軍葬の後で渡すれた骨壷の中身が、どう間違ったのか同期の羽田君の日誌であったことなどから、強い不信の念を持っておられた。いかに戦後の混乱期であったとはいえ、余りにも杜撰な遺骨の処理に驚いた。 状況説明で曽根様も納得され、増田家の都合に合わせて改葬することに同意していただいた。七月六日、改葬の前夜宿舎和久伝に参集願った地元に住む元隊員の坂内整曹長が、「私が遭難機の検証に立ち会った」と話され最後まで残っていた疑問も解明された。 慶徳院さんの読経のあと参列者の焼香があり、終わって滝市氏が「今日まで私がお守りしてきましたが、明日からは本当のお母さんや肉親の方の手に帰れますよ。どうぞ安らかにねむってください」と挨拶された。 遺骨の骨折のひどいのは増田中尉、そうでないのは曽根一飛曹の骨と手際よく二つにわけられ、増田中尉の金環を嵌めた歯もみつかった。遺骨は皆で納棺し、終わって霊柩車で竹野川火葬場にむかう。待つことしばし。茶毘に付された二人の遺骨はご遺族の手で、ひとつひとつ丁寧に夫々の骨壷に収められた。 峯空会の足跡48. 5.12 第一回峯空会総会 和久伝 「青春群像」 峰山海軍航空隊の記録刊行峯空会の結成を呼びかけると同時に、峯空会編集委員会が設けられ、峯山海軍航空隊の記録を刊行しようと計画された。しかし、編集委員会とて、人伝ての情報で、隊の全体像もわからず、思い出を書いてもらうことからはじめよう。日記や、記録をもっている人に提出してもらおう、写真を集めようというところから始まった。
来年五月開催を決めた峯空の二十八年振りの現地総会まで、あと一年しかない。この要請文を出したものの、果たしてどれだけの原稿が集まるか疑問視された。 そこに強力な助っ人が現れた。 小西幸三郎(丘太郎)氏である。峯空時代に戸梶分隊長の要請で、編隊飛行の目安となる飛行機の位置を絵で画くため、長期にわたり在隊され昵懇であった。 京都の方であったという記憶があり、電話帳で調べたところ番号がわかった。聞けば著名な電通のクリーエティプ部に在職中とのことで、事情を説明してご協力が得られる事になった。なにしろ素人集団の初仕事で、思案なげ首の状況だったので、専門的な立場からのアドバイスや協力は決定的な要素となった。 まず峯空会のシンボルマークである。もしそれが峯でなく峰だったらこのマークは考えられなかった。峯空会のシンボルマークを良く見て頂きたい。海軍を現す錨と峯がうまく結合している。そしてその左右の大きく羽ばたく羽根は航空隊の象徴だ。彼も長い作家としての作品のなかでもこれは傑作。と自画自賛されている。 次に『峯山海軍航空隊の記録』のタイトルを『青春群像』とし、本の体裁から表紙まですべてのレイアウトを引き受けていただく事になり内容はともかく外観だけは素晴らしいものになった。 8月24、5日にわたり編集委員は初めて現地訪問。文芸春社刊の昭和45年12月号の臨時特集号に掲載されている写真が、飛神隊発進の時のものであることを確認する。 10月7日、豊中で第二次編集会議。決定的な重要資料となった責重な渡辺軍医長日記、今高先任教員提供の資料、数多くの写真などの入手ではずみがつき、広く原稿執筆依頼。 10月12日、東京での編集会議。説明不足の感じのあった東京とその近郊在住者の積極的な支援が得られることになり、作業は軌道にのる。 12月16日、17日、総会準備と取材のため二度日の現地訪問。 明けて、2月3.4日飛神隊の展開基地だった岩国、藤河、可部基地取材。きわめて短い期間ではあったが、原爆体験や終戦という歴史的な瞬間を共にしたせいか、いまも鮮烈な印象を残していることが実感された。 久保、菅原、小関の元分遣隊長、司令よりも励ましを更け、地元の方々のご協力が嬉しかった。最終的に寄稿者の数は百名を越し、採用した写真・挿絵など137枚、当初の予測の200頁を遥かに越し370頁にも及ぶ大部になってしまった。
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峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物 保存運動を! |
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