昭和16年12月8日、中学1年の時、大東亜戦争(太平洋戦争)は始まった。ずっと支那事変(日中戦争)と称して戦争が行われていて、出征兵士を送ったり、白い布で包まれた遺骨を抱いた遺族を迎えての慰霊祭があったりしたから、驚きはしなかったが、戦争は陸軍から海軍に変わったという感じはあった。 もうみんな軍国少年だった。飛行機と軍艦による戦争に興奮したものだ。◇(1)志願してくる人の波
朝日新聞に岩田豊雄(獅子文六)が「海軍」と言う連載を発表していたので、日本人は海軍兵学校(以下海軍と略す)を良く知っていた。そしてやがて予科練という少年飛行兵が活躍するのを知ることになる。甲種の予科練は中学4年で入り早くパイロットになるので、大勢の志願者が出た。そして倍率はさほどではないが、兵学校ほどの難しさはない。
戦争が始まってから、春、秋の採用は1000名ずつとなり、昭和18年春には3000名が入った。日本人は20才で徴兵検査を受けるが高校・専門学校(高専と呼ぶ)と大学生には徴兵が猶予されていた。しかし昭和18年一部の工学部以外の猶予が廃止される。さらには徴兵検査も19才となる。この措置は青少年に大きなショックを与えた。
それもあって18年の9月、飛行予備学生はなんと5000名が採用された。(アメリカでは昭和16年12月に即採用が始まっていた。この2年の遅れが後に戦局に大きな差ができたのだ)
さて予科練に集中する。私は(一人称を私に変える)18年秋に入る。甲飛13期に願書を出した。6月だった。7月に上京区役所で学力試験が、8月には宮津市の栗田にある水上飛行機の航空隊で身体検査を受けた。飛行機乗りに適しているかをテストするかなり精密な?検査だった。そして9月末鳥取県の美保航空隊に入隊した。1200名中私が一番で「藤村恒雄ほか…名…入隊を命ず」、この中では兵籍番号が一番だった。
これが後々まで効いてくる。この13期には10月1日付の前期と12月1日付の後期とに分かれて入った(前期は美保のほか松山、鹿児島、土浦などに10,000余名。兵舎はハンモックが吊れるちゃんとしたものだったが冷暖房はなく石炭の達磨ストーブだ。後期は奈良などに18,000名が入った。奈良は天理教の宿舎が充てられ、練兵場と呼ぶ運動場もない。ましてカッターの訓練をする海もなかった)それにしてもこんなに沢山とって、乗る飛行機があるのかなとは気がつかなかったが陸軍と海軍の人材獲得競争だった。後にもっともっと沢山の予科練を採用するのだ。
予科練の教育は普通学と軍事学とそれに体技、武道からなる。日常の生活から訓練で海軍流の躾が厳しかった。毎日、全員でやる掃除と僅かの自由時間にやる洗濯が大変だった。掃除は甲板掃除という独特のものがある。土曜日は床に水と石鹸水を流しモップのような麻の束で洗う。荒縄も使う。腰を落としてこするのが甲板掃除で勇ましいものだ。甲板係りが、押せ!回せ!と号令する。この兵舎はそういうことを前提にして建ててあった。
先生は将校が教えるもの、高専の先生や兵学校の先生がいたが、大尉か少佐待遇の人達だ。普通学は、数学、物理、化学、国語、歴史、地理等。軍事学は、軍制、航空、航海、運用、通信、陸戦等。体技・武技は体操、球技、駆足、武道、短艇、水泳、滑空等。物理では航空力学、流体力学、弾道学、気象学などもあり大変多岐にわたっていた。
電気や重力など難しいものもあった。数学では三角函数など飛行機で航法計算に使う重要なものが含まれた。気象学では天気図も書いた。そのほか天文学や、合金などの材料学、機械、発動機(エンジン)、銃器の勉強など凄まじい詰め込みだ。
そしてあと10分は試験がある。これが後で成績になり、居眠りでもしていたら駄目だ。この成績は卒業の席次になる。海軍ではハンモックナンバーと言って生涯つきまわるものだが、その都度成績発表がないので気にすることはない。授業時間では通信(トンツーだ)がもっとも多かった。1分間で100字程度の送信、受信ができた。短艇とはカッターだ。ずいぶんしごかれた。
力が強くなった。そのほか手旗、発光晋信号。そして旗旒、万国共通の物と内部で決まっている暗号でz旗は有名な「皇国の興廃はこの一戦にあり…」というように読み取る。赤旗bは危険作業中、pは出港するとかだ。とても覚えきれない。軍事学では「赤本」と称して機密のものもあり、授業が終わると回収する。
それと滑空(グライダー)があった。しかしゴム索を人力で引っ張って飛ばすもので距離は50メートル、高さも2メートルでしんどいばかりで後で思い出しても全く役にたたなかった。闘球というのは多勢でするラグビーのよう。棒倒しはよくやった。分隊対抗競技では柔道、剣道、銃剣術、相撲、水泳、短艇に10,000メートルなどの種目があった。我が14分隊は10,000メートルに優勝した。これは全員が走ってタイムにより得点が決められていて合計点を人数で割る。私は1200名中20番くらいで勝利に貢献した。
思い出に残るのは実弾射撃、挙銃射撃や大山での野外演習だ。3カ月で1学年を終り2学年にすすむ。この時操縦に入った。飛行機乗りは自分で操縦しなくちゃ。(偵察員は2人乗りか3人乗りの中型機やもっと大きい大型機に必要で、航法、写真、爆弾、機銃、電信を担当する。大型機では天測もする)
さて早いもので入隊した時は二等兵だったが、もう一等兵から次の上等兵になった。外出する時や制服を着るときは七ツ釦だった。つまり海軍の水兵服(ジョンベラ)は着ていないのだ。入隊後半年の19年4月には兵長に進級した。最初6円だった月給も18円となった。そして5月に1週間の休暇が与えられ晴れがましくみんな故郷へ帰った。
7月に卒業するのだが、2年を10ケ月に短縮したのだ。予科練にも乙種があり高等小学校卒で試験する。この人達は3年だ。短縮しても2年。甲種は昭和12年が1期生だ。開戦時に間に合ったのは3期まで。乙種は昭和6年に始まったが採用が少数だった。
開戦時2000名いたというパイロットは内部採用する制度で飛行機乗りになった人達で、15年からは丙種予科練として制度化する。しかしごく短い教育で飛行機に乗せた。海軍航空隊の主流はその人達だ。いわゆる甲、乙の予科練出身は19年ころまでは少数派だった。一人前になるのは3年かかる。飛行機乗りの養成は徒弟制度のようだからと大量養成に手をつけるのが遅かった。