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昭和20年3月1日姫路海軍航空隊峯山分遣隊は、独立して峯山海軍航空隊(司令・菅原英雄中佐)となり、連合艦隊第10航空艦隊第12聯合航空隊に編入さる。(練習航空隊所掌事項改正)
【註1】
昭和20年初頭比島作戦を終わり水上部隊の壊滅した日本海軍は、基地航空部隊をもって対抗するため、練習航空部隊をも連合艦隊に編入した。
3月1日、第10航空艦隊編成に伴う航空部隊編成は次の通り。
第10航空艦隊(前田稔中将)
第11聯合航空隊(司令長官直率) 霞ヶ浦空、筑波空、谷田部空、百里原空、名古屋空、鹿島空、北浦空、大津空、神町空、郡山空、河和空、豊橋空、松島空、大和空、第三岡崎空、東京空、(計2261機)
第12聯合航空隊(城島高次少将) 宇佐空、姫路空、博多空、大村空、詫間空、元山空、釜山空、岩国空、西条空、福山空、峯山空、天草空、光州空、観音寺空、諫早空、(計1957機)
第13聯合航空隊(伊藤良秋少将) 大井空、鈴鹿空、青島空、徳島空、高知空、(計960機)
【註2】
3月1日発令の「天号」作戦計画では、第3、第5航空艦隊所属の各500機の外、前記第10航空艦隊の2,000機を予定した。
沖縄特攻は、菊水作戦と呼称され、中には二座水偵、0式観測機、白菊、桜花なども参加した。
峯山海軍航空隊は昭和19年、当初飛錬航空隊として発足、勇躍空の勇士による訓練が実施されました。第一期の練習生が卒業、実用機に進み、第一線の航空戦に参加しました。教官教員もぞくぞく戦地にむかいました。峯山海軍航空隊でも次々と練習生が入り、訓練を重ねていた頃、すでに戦局厳しく海軍はすべてが特攻隊となりました。
昭和20年2月、峯山海軍航空隊でも特攻隊が編成され、猛訓練が実施されて航空事故の犠牲者が続出しました。また、他の航空隊からの訓練機も多数飛来して大変重要な航空隊となりました。
峯山海軍航空隊における訓練は、航法、策敵、攻撃と日々に激しさを増した。特に急降下の訓練は、最初は身体が浮いたり、急角度の突込みに慣れないため、思うように行かなかったが、だんだんと慣れるにつれて、
指示された降下角や、最低高度をオーバーする者が続出する様になった。例えば、目標となった掩体壕で降下角の観測にあたっていた者が、あまりの突込みに危険を感じて観測中止して、とつさに避難したり、また、指揮所から
見ていても掩体壕の頂上よりも低くて、かろうじて上昇していく者、また、ほとんど背面に近い角度で降下する者が出てくるようになった。
間人沖にチャーターされて標的となった漁船は、訓練機の猛烈な突込みが恐ろしいばかりでなく、引起しと同時に今度はペラの後流で船が翻弄され、あまりの恐ろしさにとうとう海軍の御用をやめる始末。
漁船は駄目と、今度は宮津湾に停泊中の駆逐艦(初霜)が突込み標的艦となった。軍艦相手のほうがやるほうもハリがでるというもの。駆逐艦(初霜)のマストに翼端をぶつけ、折損しながらも、無事帰着する者まで出て来た。